これまで超古代の真実編では、古代ムー文明
から受け着いた古代日本の一元論的思想が
これからの世界を救うという神衣氏の説明
を紹介してきましたが、旧約聖書の
「エデンの園」もその事を示唆している
と説いておられます。
つまり「善悪を知る木の実」を食べた時から
人類の堕落が始まり、苦悩が始まったという
部分の事です。
神衣氏は、自然界に善悪というものが存在
しないのに、勝手に人間がそのような感覚
を造ってしまったために、世の中に分離や
苦悩が生まれたという事を、説明して
おられます。
このような善悪は本来存在しないという
考え方は、ネットや本などの情報でも
結構みかけます。
物事を二元論的にみるのではなく、一元的
に解釈する方が高度だという事もよく
わかります。
ただし私は、少し違和感も覚えるのです。
いや確かに絶対的な悪、そして善という
ものは、一元論的感覚つまり私が再三
申し上げてきたような全てが一体である
という感覚でいえば、善も悪も一体に
なるので、存在しない事になるのです
からそれでいいとは思うのですが、
弱いものをいじめたり、暴力をふるって
虐待する事に善悪の判断は適用しては
いけませんか、また貧しいものから、
また弱いものから、お金や大切にして
いるものを奪う事に良いも悪いもない
というのでしょうか、これは私たちの
根底にあるものが、無条件の愛という
絶対的意識であれば、当然悪い事と、
判断して良いと思うのです。
そもそも自然界に善悪はないという
神衣氏をはじめとした多くの、
宇宙の「善悪など存在しない」という
人たちは、まず宇宙に意識が存在
しない事を前提としているからだと思う
のです。
それは私たちの誘導された五感のみに
よる現実の認識なのです。
私が再三申し上げているきたように、
私たちが、五感で捉えているような物質
の世界は、意識が投影したからこそ存在
するのであって、真に実在しているのは
意識の方だという事なのです。
つまり意識があるという真実に目を
向ければ、善悪を判断できる意識も
また存在するという事になるのです。
あたかもそれが存在しないかという
ようにいうのであれば、それこそ
「善悪がある」と「善悪がない」という
二元論に陥ってしまうという事を私が
言いたかったわけです。
だからこのテーマでの私の結論は
こうです。
「確かに絶対的な善や悪などは存在
しない、全ては一体で、あらゆる性質
を内包しているから。しかし愛は絶対
の意識なので、それに反する事は、
悪と捉えて良い」
という事になります。
という事で、善悪がないという事よりも
二元的論的な思考から脱する一つの良い例
として今回の、神衣氏の著書での実例を
ご紹介していこうという事です。
それが以下になります。
『』内が引用で、~が中略です。
『 一人の母親がいた。
その息子がけんかをして、いつも仲良しの
A君をなぐってしまったまま家に帰ってきた。
もしもその母親が善悪の判断を何よりも大切
にする倫理的な人であれば、息子にこう言う
だろう。
「あなたのやったことは、悪いことよ。今
すぐ行って、謝ってきなさい。」
しかし、もしもその母親が心の本質を認識する
人であったなら、こう言うだろう。
「A君がかわいそうよ。今もつらい思いをして
いるかも知れないわ。そう思わない?」
この前者と後者の母親は、どちらも、善悪
で判断するたならば善なる母親と言えるかも
しれない。
息子もA君に同じように謝りに行ったかも
しれない。
しかし、子供の内面に目を向けた場合、両者
には決定的な違いが存在する。
後者の母親は子供の豊かな感受性を充分
伸ばしてあげられるのに対し、前者はその
機会を奪ってしまっているのである。
前者は言い換えれば二元論的なしつけの
観念を持つ母親であり、後者は一元的な
感性の母親である。
この違いについて、もう少し詳しく
考えてみよう。
両者を比較した場合、子供は心理的抑圧を
受けることになる。このようにして
幼少時代に繰り返される心理的抑圧は、
パーソナリティーの歪みとなって親子関係
のみならず、将来の種々の人間関係にまで
マイナスの影響を及ぼすことになるので
ある。』
“出典:『最後のムー大陸「日本」』
神衣志奉著
中央アート出版社 ”
とても良い実例を取り上げてください
ましたね。しかしこれは善悪の観念が
テーマではなくて、二元論の考え方が、
この息子さんの成長を歪めるという
言い方の方がいいと思われます。
なぜなら、親友をなぐってそのまま
帰ってきたという事自体は、相手に
とって悪い事だし、息子の成長のため
にも良くないと判断したから、
どちらの母親も言ってきかせようと
したのであり、善悪のテーマでいえば
ちゃんとその判断は、どちらの母親
にもあって、それがテーマではないと
いう事です。
ここで、相手の気持ちを思いやるように
言った母親は、何より大切な共感や情
というものを、息子さんに理解させよう
としたわけです。
しかも疑問形にして、息子さんに思考を
する機会を与え、さらに息子さんの
自主性も引きだそうとしているのです。
これこそが、一元論的な思考が、とても
大切で貴重だという要素なのです。
神衣氏の説明されるような善悪の判断を
してはいけないという説明ではなくて、
そこに何故それが悪い事なのかを考えて
もらい、さらに共感という認識を持つ
ように導いてあげる事が、単純に
命令をされるよりもとても子供にとって
「良い」事だという説明をする方が
わかりやすいと思うのです。
つまり善悪という要素でなく、一元的な
感性が、二元論的思考よりも大切だと
いう事のために、この会話がとても
貴重な実例だといえると思います。
善悪がないという言葉に縛られてしまう
と、人は行動を迷うばかりになります、
なぜなら多くの人は、自分にとってまた
人にとって、自分のできる範囲で良い
事を選択するという習慣があるから
です。
だから、全ては一体であり、共感や情と
いうものを大切にしていれば、自分に
とってもまわりの人にとっても良い
エネルギーをもたらすだろうという
事なのです。