この記事は
江戸時代の和算は世界最高レベル
庶民に広がった算額ブームとは?
という記事の続編にあたり
ます。
江戸時代に庶民に流行した算額・
和算ブームを支えたのは、寺子屋
の存在があったためという事です。
この全国に1万以上存在したと
いわれる寺子屋について今回徳川氏
の末裔の徳川宗英氏の著書から
ご紹介したいと思います。
『』内が引用で、~が中略になります。
『 究極の個人授業「寺子屋」
江戸の庶民は、なぜ、むずかしい和算
の問題が解けたのだろうか?
もともと日本人の知的水準は高かった
ようで、江戸初期に来日した宣教師たちは、
庶民の質問が非常にハイレベルで驚いた、
書き記している。それに加えて、庶民の
ための初等教育施設・寺子屋が、和算を
広める舞台として重要な役割を果たした。
「寺子屋」という名は、室町時代に武士
の子弟教育が寺院で行われたことに由来
するという。江戸時代には、おもに上方で
使われていた呼び名で、江戸では
「手習い指南所」とか「手跡指南」などと
呼ばれていた。
寛永年間に各地の都市部におこった
寺子屋は、江戸中期になると農村や漁村
へも広がった。貨幣経済の浸透とともに、
農民や漁民も売買や銭の貸し借りの証文
(契約書)や手紙などに接する機会が増え
、「読み書きそろばん」のニーズが
高まったからだ。
寺子屋の師匠は、おもに武士・僧侶・
神官・医者などで、二、三十人ほどの
子供を自宅に集め、日常生活に必要な
文字の読み書き(手習い)や算術の基礎を
教えた。女性の師匠もかなりいたらしい。
いま、学校の成績でトップクラスを
占めるのはほとんど女性だというが、
勉強好きの女性はむかしからいたのだ。
~さて、寺子屋は、男女共学が多く、
だいたい数え年七、八歳で入門した。
これを「登山」といい、男子は十一歳ごろに
「下山」するのが一般的だった。
卒業が早いのは、家業を手伝ったり、奉公
に出たりするためだ。
授業時間は午前八時ごろから午後二時半
ごろまでだったが、子供たちの年齢は
まちまちだし、家の手伝いもあるため、
遅刻・早退はおかまいなし。
服装や髪型の規則もなかった。
師匠の教え方や人柄が気に入らなければ、
何の手続きもせずに子供を“転校”させる
ことができたから、いいかげんな師匠の
とこには生徒が集まらず、自然淘汰
された。
授業料は、各家庭の経済状況によって
師匠が考慮した。農村部では、野菜で
支払われることもあった。
教育は「サービス業」ではなく師匠たち
のボランティアに近かった。
幕府は寺子屋に対して経済的援助を
しなかったが、公権力の強制や統制も
さしてなかった。しいていえば、
道徳教育を重視するようお触れを出した
ことぐらいだ。指導法も師匠に任されて
いた。教育現場は、いまよりよほど
自由だった。~
~江戸時代を通じて、印刷された教科書
は七千種以上、手書きの教科書も含めれば
数万種におよんだという。教育熱心なこと
にかけては、世界一だったといえる。
(引用注:江戸時代の識字率が、欧米諸国
に比べても、比較にならないほど高く、
世界最初の数学的発見など、知的レベル
そのものが世界一であったという方が正確
でしょうが、それもこの寺子屋が背景に
あったためだという事ですね。)
幼い子には師匠が寄り添って「いろは」の
手ほどきをした。紙は貴重品だったので、
最初は薄い墨で字を書き、徐々に濃くして
いって、半紙が真っ黒になるまで練習した。
教材は生徒一人ひとりの進度や稼業に
よって与えられ、自学自習を基本としたが、
ときどき師匠が習熟度をチェックした。
与えられた教材を完全に終えるまでは、
次の段階に進まない。この徹底した
個別指導が、世界でもまれな高い教育水準
を可能にしたのだった。』
“出典:「江戸は世界最高の知的社会」
徳川宗英著
講談社+α新書刊”
ここで注目したいのは、幕府が寺子屋に
経済援助をしないかわりに、教育内容の
強制や統制がなくて、師匠の自由に
任されていたという事です。
つまり国家にとって都合の良い国民に
なるように、教育を画一・強制している
現在とは比べ物にならないほど自由
だったという事です。
この現在の教育が、国家権力にとって
都合の良い国民を育てるためにある
という事に違和感のある人たちは、
私の「隠された歴史編」や
「宇宙の仕組み編」などをご覧になれば、
いかに私たちが真実から遠ざけられて
いるかわかっていただけるように
なっています。
また自由のない、まるで軍隊にいる
ような現在の学校教育と違って、
髪型も服装も、授業時間も全部
自由で、なんと師匠まで選ぶ権利が
あるなんて、本当に自主性を重んじて
子供が、自発的に学べる環境が整って
いたようです。
また現在のように押しつけの学問では
なく、必要性やレベルに応じて教科書
が与えられ、自学自習が基本というのも
素晴らしい。基本的に自分で学ぼうと
すると、手取足取り教えてもらうより、
思考力や理解力、想像力が鍛えられ、
文字から自発的に意図を読み取ろう
とするので、確実に自分のものにして
いけるのです。そして間違えた解釈を
しているものであれば、個別にチェック
してくれる師匠が訂正してくれて、
軌道修正してくれるという事です。
なるほどこれなら、楽しんで、自分
から学びたいという気持ちになる
のも自然であると思います。
さてこのあとも寺子屋の事について
説明があるので、要訳させていただくと、
江戸時代には寺子屋は1万校を越えて
いて、現在で同じ年齢に相当する
小学校は、二万一千校くらいだといい
ます。しかし、江戸時代の人口が、
現在の五分の一だったという事を
合わせて考えると、圧倒的に江戸時代の
方が、教育機関が多かったという事です。
ここには、詳しく書かれていません
でしたが、さらに学問を究めようとする
生徒たちは、引き続き師匠たちに高度な
教えを受けていた事は間違いない
でしょう。
明治になって小学校が各地に開校される
と、国の統制もあり、寺子屋の数は
次第に減っていって、明治十年代には
ほとんど姿を消したようです。
で、嘘っぱちの歴史や科学を全国一斉に
教え込まれたわけだという事ですね。
寺子屋のような「超個別指導」とは真逆の
「一斉授業」に反発する親も多かった
ようです。
で当時の日本は、欧米諸国がおよそ一世紀
かけてようやく成し遂げた国家の近代化を、
わずか三十年ほどで達成したのですが、
その原動力は、やはり寺子屋があったから
だという事ですね。
いや近代化で、確かに欧米諸国に匹敵
するような軍事力も得られたといって、
私たちは、今それを喜べるでしょうか?
たとえ欧米諸国の誘導のままに一部の
支配階層が、大陸を攻める決定をした
にせよ、同じアジア人に対して、取り
返しのつかない過ちを犯しているのです。
爆弾落として、人を殺傷してもなんの
大義も得られません。
残るは罪と日本人に対する怨恨だけだ
という事です。
同じ事は、当然西欧の軍事介入にも
言える事です。
アメリカに攻められる以前のイラクは
とても豊かで、知的水準も高かったのに
現在は、とてもひどい状態になって
います。
ウソだと思うなら次の記事をご覧に
なるといいでしょう。
イラク戦争開戦から15年
「希望なんかどこにもない」
―続く苦難、見放された避難民たち
こういうニュースがほとんど私たち
の目にとまらないようにされて
いるため、未だに米国が守ってくれる
などというありもしない、幻想にすがる
人たちが圧倒的に多いのです。
すでにトランプ大統領が、安全保障上
最優先するリストから日本を外して
いますし、そもそも日米安保というのは、
日本を守るという意味ではなく、もし
日本に軍事的危機が訪れた場合、
いったん米国の国会で討議され、米国
の国益になると判断して初めて
米国が軍事介入をするという条約に
なっているのです。
この事も知らない人も多いでしょうが、
もはやこれは自分でお調べくださいね。
話を明治以降の日本に戻しましょう。
もちろん軍事力をつけなければ、欧米
に支配される運命にあったのかも知れ
ませんが、結局現在しっかりと米国の
いいなりになって、健康や富や自由や
権利をどんどん奪われている現状は、
とても近代化が成功した証とはいえない
と思います。
また鉄筋コンクリートの建物は人体に
とても悪影響を及ぼし、現在の洋風建築
に使われる資材にも、同様に身体に
有害なものが使われています。
昔の木造建築は、とても頑丈で耐久性も
よく、いつまでも長持ちするものが
多かったし、とても健康的でした。
さらに、重化学工業が発展した事により
大気汚染や河川・海洋・土壌汚染が進み
以前は潤沢だった、農作物がどんどん
減少していき、自然物に囲まれて、
身体に良い食事が出来た頃とは、雲泥の
差になっていったのです。
日本では、実は念入りな情報統制のため
あまり知られていませんが、米国で科学者
たちが、徹底的に世界の食事調査をして
健康に良い食品や食事方法を調べた
マクガバン・レポートというものがあり
米国の国会でも発表され、アメリカ国民
からは大絶賛の反響があったものですが、
肉・乳製品・小麦を主体とする欧米型の
食事は成人病になる危険が非常に高く、
それに対して、世界で健康的な食事を
調査していって、世界最高の健康的な
食事方法だとされたのが、なんと
「江戸時代」の日本の食事だったという
事なのです。
だから、放射能汚染で騒がれる以前は、
世界中で日本食ブームが起こっていった
というわけなのです。
また寺子屋に話を戻しますと、師弟関係
はとても濃密で、それを象徴するのが
「筆子塚」です。
当時、寺子屋の生徒は「筆子」と呼ばれ、
師匠が亡くなると、筆子たちが銭を出し
合って石碑を建て、遺徳をしのぶ習慣が
あったのだという事です。
なんという師弟愛でしょうか、親身に
なって教えてくれた師匠を生徒たちは
心より尊敬していたそうです。
また親や地域の人たちも教育熱心でした。
押しつけるという意味ではなくです。
親たちも師匠を尊敬して、裏長屋で
教えるような貧しい師匠でも、人柄や
教え方がすぐれていれば、銭を出し
合って、畳変えの費用や暖房費の炭代
を負担するなど、寺子屋経営を側面から
援助して、さらに地主や大家が広い教室
を提供することもあったというのです。
つまり子供たちが実学をしっかり
身につけて、自分の力で生きていける
ようにという真心により、寺子屋を
中心として、民が一体となって子供たち
を育てようとしてくれていたという事
なのです。
“参考文献:「江戸は世界最高の知的社会」
徳川宗英著
講談社+α新書刊”
私は、この寺子屋制度こそ、本当の教育
だと思いますが、みなさんいかが
でしょうか。
自由があまりなく、校則や規則に縛られて
いるのにもかかわらず、いじめが横行
たり学力格差も深刻になっている現在、
みんなが、自由に和気あいあいと学べて、
それぞれの個性を尊重していた寺子屋から
学ぶ事は、本当に多いと思います。
江戸時代については、まだ続編を
書いていきます。
ではまた(^^)/