ヨーロッパは18世紀中頃まで「世界の片田舎」だった!?


現在の日本人の多くが、捏造された
ヨーロッパ史観を抱いている事は、
以前も以下の記事にしています。
決して教えられない超国家権力の
世界戦略の歴史とは

中世当時では、ヨーロッパは
片田舎だったと言う認識は、
世界最大の版図を誇った
モンゴル帝国のフビライ・ハンが
当時のローマ法王に宛てた書簡
でも明らかです。
その部分を振り返ってみましょう。


1230年代前半には、ユーラシア大陸
をほぼ制圧していたチンギスハンを祖と
するモンゴル帝国が、
当然当初ヨーロッパを制圧しようと
目論んでいました。
事実東と北半分は侵略されていた
のです。
資料をひもといてみると、ロシア諸公国
ポーランド、ハンガリー、モラヴィア、
オーストリア、クロアチアという
事です。
ところがやはり当時のヨーロッパの
真の実権を握っていたローマ法王が
当時のモンゴル帝国の盟主フビライハン
に向けて送ったという書簡が現存して
いて、それは、ヨーロッパを攻め
ないで欲しいという、懇願が切々
と書かれていたそうです。
それに対してのモンゴル帝国側から
の書館も残っていて、「そのような
辺境の地に興味はない」といって、
願いが聞き入られたようです。

つまり当時砂漠ばっかりのイメージ
だった中央アジアの文明から見ても
当時のヨーロッパは、田舎に見えたと
いう事なのです。
全く印象が変わりますよね。
つまりヨーロッパは、中世の時代には
中東のオリエンタル文明や、アジア
の文明より大きく劣る地域だった
という事が、理解できます。』

当時のヨーロッパの最大の権力者
というのが、各国の国王などではなくて
ローマ法王であった事がよくわかる
エピソードですね。

私が再三説明してきました、太古
からの支配血族とも深く関わり
ます。
それは同時にヨーロッパの有力王族
貴族の中にも支配血族につながる
者はいたのです。

さてだからといって、その太古
からの支配血族は、ヨーロッパだけ
に限定されていたわけではありません。

世界中の君主や権力者は、やはり
太古からの爬虫類系の支配血族で
ある事が多かったのです。

日本も縄文時代の終焉とともに
入り込んできた大陸系の龍の王族の
系譜が、神武天皇以降という事に
なります。
明治に替え玉が入るまでは、日本の
人々の意識レベルが高い事によって
異種生命体である爬虫類系の血族
のパワーは、あまり強く発揮されて
いませんでした。

さて地球上の場所によって、やはり
人々の意識レベルが変わるので、
異種生命体の爬虫類系血族がより
邪悪さを発揮できたのが、
ヨーロッパだという事になります。

さてそのヨーロッパが、まだ世界の
片田舎と認識されていたのは、
なんと18世紀中頃までの事だった
というエピソードが以下です。


ヨーロッパは18世紀中頃まで
“世界の片田舎” であった

1085年、イベリア半島のイスラムの
都市トレドを占領した白人キリスト
教徒は、この地の図書館を通して
貪欲にイスラムの学問を吸収し始めた。
古代ギリシャのアリストテレスを
初めとする哲学・自然科学の遺産も
アラビア語からラテン語に翻訳された。
このようなイスラム文明からの学習を
背景に花開いたのが14世紀前半から
17世紀前半にかけての「ルネサンス」
である。 1490年代はヨーロッパの白人に
とって画期的な時期であった。 と
言うのは、この時期、イタリア・ルネサンス
が最高潮に達し、クリストファー・
コロンブスがカリブ海の島々を発見し、
南北アメリカ大陸への航路が開かれたから
である。 15世紀後半から17世紀前半
までは「大航海時代」と言われている。
これは正しい。 そして、「15世紀後半
からヨーロッパの時代が始まった」と
言われることがあるが、これは言い
過ぎであって、その意味で正しくない。
大航海時代以降、ヨーロッパの白人が
徐々に世界的規模で覇権を握ってきた
のは事実であるが、15世紀後半から
ヨーロッパの時代が突然始まった
わけではない。

ヨーロッパは18世紀中頃まで世界史の
主要舞台ではなく、“世界の片田舎”
であった。 或る種のロマンをもって
語られがちなヨーロッパの中世は、実は
戦争と飢餓と疫病(14世紀中頃のペスト
の大流行)に苦しめられ、モンゴル軍の
東ヨーロッパ遠征(1236年~1242年)に
よる侵略や、オスマン帝国(1299年~
1922年)という非白人勢力の侵入に
ヨーロッパ人がおびえ続けていた時代で
あった。 17世紀には、イスラム勢力が
最高潮に達しており、オスマン帝国が
バルカン半島・アナトリア半島・
パレスチナ・北アフリカで繁栄し、
そのすぐ東ではシーア派のサファヴィー朝
(1501年~1736年)が今日のイラン・
アフガニスタンで繁栄し、ムガール帝国
(1526年~1858年)が今日のインド・
パキスタン・バングラデッシュで繁栄
していた。 17世紀には、この3つの
イスラム大国がユーラシア大陸の中央部
で栄えていたのである。 一方、17世紀の
ヨーロッパは、16世紀前半から断続的に
発生した宗教戦争で人口が大幅に減少し、
多くの都市が没落し、ミラノやロンドン
ではペストが大流行し、商工業が大打撃
を受け、農村が荒廃し、農業生産が大幅
に減少した。 17世紀はヨーロッパ人に
とっては惨めな時代であった。
17世紀には「われらをペストと飢餓と
戦争から救いたまえ」という祈りの
言葉が全ヨーロッパで聞かれた。

(引用注:この時ペストを広めたのが
ユダヤ人という噂がドイツやフランスで
広まり、多くのユダヤ人が虐殺された
という歴史があるようです。
このユダヤ人たちと、現在の支配層の
ユダヤ人は全くの別物で、支配層の
ユダヤ人は、民族の事では全くあり
ません。)

17世紀後半からイスラム勢力が傾き
始めるが、イスラム勢力は急速には
衰退しなかった。 そして、次の
18世紀には清国が世界一の帝国となった。
18世紀中頃にヨーロッパ第一の文化人
と見なされていたヴォルテールは
「地上に起きたことによって教訓を
得ようとすれば、まず、西洋のあらゆる
ものがそれに負っており、かつ、
すべての芸術の揺籃である東洋に目を
向けなければならない」と記述した。
ヴォルテールは中国文明崇拝者であり、
当時のヨーロッパ最高の文化人で
あった。 彼が著述したものは、
すぐヨーロッパ各国で翻訳され、
それを各国の知識人が競って読んだ。
このことからも、18世紀中頃は
まだまだヨーロッパの本格的な時代
ではないことがうかがい知れる。
18世紀はフランス人にとって “支那熱”
の世紀であり、フランス人は18世紀末
まで中国文明にコンプレックス
(複合感情)を抱いていた。 十字軍の
遠征(1096年~1272年)によって、
香り高いイスラム文化を垣間見、次の
大航海時代に入り、広大な世界が存在
することを知った当時のヨーロッパ人
の心の中には、イスラム世界・
東洋世界に対する計り知れぬ
コンプレックス(複合感情)と
知的向上心が形成されていった。

(引用注:この記事では詳しく
書かれていませんが、19世紀に
多くの欧州の知識人が来日して
以降、欧州では日本が絶賛される
ようになったのです。
その事は
江戸時代に訪れた欧米人たちが、当時の
江戸を評した数々の賛美の言葉とは?

でも取り上げています。

中国人との民度レベルの差は
歴然としていたらしく、その詳しい
資料もありますが、記事にあった次
のコメントでもわかりますね。

「日本人は私がこれまで会った中で、
もっとも好感の持てる国民で、日本は
貧しさや物乞いの全くない唯一の国
です。私はどんな地位であろうとも
シナへ行くのはごめんですが、日本なら
喜んで出かけます。」
(オリファント。一八五八年
日英修好通商条約締結のためのエルギン卿
使節団の一員。母国への母の手紙)」

ルネサンスの時代(14世紀前半から
17世紀前半まで)は宗教戦争の時代
(16世紀前半から1648年のウェスト
ファリア会議まで)と大きく重なって
いる。 宗教戦争の時代には新教vs
旧教の血で血を洗う戦争が断続的に
発生し、「魔女狩り」が最高潮に
達した。

以上のことから考えれば、ヨーロッパ
の理性的な時代が始まったのは
18世紀前半(フランス啓蒙思想の
発展期、イギリス産業革命の黎明期)
であり、ヨーロッパの本格的な時代が
始まったのは18世紀後半(フランス
啓蒙思想の最盛期、イギリス産業革命
の発展期)である、と言うべきである。
このような時代背景を頭に入れておけば、
ヨーロッパにおいて、ルネサンスの
幕開けとほぼ同時に「魔女狩り」が
激しくなり始めたという事実を理解
するのに、困難はないだろう。

第2章  16世紀・17世紀のヨーロッパ
において最高潮に達した「魔女狩り」
の嵐

今からたった数百年前、華やかな
ルネサンス文化が花開き、ヨーロッパの
白人の理性が勝利を収めたかに見えた
16世紀・17世紀のヨーロッパにおいて、
有ろう事か、「魔女狩り」の嵐が最高潮に
達した。 この時代の白人は「魔女」の
実在を信じ、魔女だという嫌疑を
かけられた男女が次々と火あぶりの刑に
処せられて殺されていたのである。
それは正に狂気であった。「魔女狩り」
の嵐の中で命を落とした男女は30万人とも
300万人とも言われているが、実数は不明
である。 1602年に発行された『魔女論』
(アンリ・ボゲ著)には以下のように記され、
その頃の様子を垣間見せてくれる。
近くの国を見渡しただけでも、全ての国が
あの忌まわしい魔女の悲惨な害毒に
感染しているのがわかります。 ドイツ
では魔女を焼く火刑柱を立てるのに
忙殺されている有り様です。 ロレーヌ
を旅する者は、魔女を縛り付ける刑架を
幾千も目にするでしょう。 魔女の処刑が
日常の事となっている地域は沢山あります。
どんな地方にも幾千幾万もの魔女が庭虫の
ように地上に蔓延しつつあるのです。
私は全ての魔女をひとまとめにして、
ただ一つの火で一度に全部を焼き殺せたら
と思うのです。

悪魔と結託し、あらゆる害をなすという
魔女への恐怖は伝染病の如く広がり、
魔女には考えられる限りの残酷な行為が
なされた。 上に記したように、魔女を
焼く火の煙が立ち上らない日はなく、
また、魔女が発見されない日もなかった。
だが、魔女として殺されていった人々の
大部分は名もなく貧しい女たちであった。
地位も名誉もある人々が彼女たちに魔女の
汚名を着せ、憎悪をむき出しにして、
処刑した。 念の為に書いておくが、魔女
として殺された人の中には男性も含まれて
いた。 元来、ウィッチ(魔女)という
言葉には男女の区別はない。

16世紀・17世紀のヨーロッパを席巻した
恐るべき「魔女狩り」の嵐。 聖職者・
役人・政治家たちの理性を吹き飛ばし、
何十万人もの無実の人々を焼き殺した
集団狂気はどこから来たのか。 これに
ついては、16世紀前半に始まった宗教改革
運動に伴って断続的に発生した長期間の
激烈な宗教戦争において、新教側・旧教側
の双方とも敵側の人間を魔女と決めつける
ことで敵勢力を押さえつけ、自勢力を拡張
する為に、魔女狩りを強行したのである、
と言われている。 新教・旧教双方の
キリスト教会にとって、魔女狩りは神の力
を示す場であった。 また、長期間の激烈な
宗教戦争で民衆の不安と緊張は頂点に
達していた。 魔女の火あぶりの刑は民衆の
不安と緊張のはけ口となる格好な見世物
であった。』
“出典:「魔女狩りと異端審問の歴史」より”

とてもわかりやすいヨーロッパの真実の
歴史解説でしたね。

まずヨーロッパでは、ギリシャの
自然科学の叡知は、なんとイスラム世界
からもたらされたもので、アラビア語
で書かれたギリシャの文献をラテン後に
翻訳された事に始まるとの事です。

なるほど、現代でも世界中で使用される
数字の文字は、アラビア数字である
わけもこれでわかりますね。

ヨーロッパの文明は、イスラム世界より
東洋世界より大幅に遅れて、開花した
というのが、真実だったという事の
ようです。
しかも世界の弱小勢力であったという
のはこの
「モンゴル軍の東ヨーロッパ遠征
(1236年~1242年)による侵略や、
オスマン帝国(1299年~1922年)
という非白人勢力の侵入に
ヨーロッパ人がおびえ続けていた
時代であった。 」
という記述でもよくわかります。

しかし大航海時代に西へ向かい、
残虐な略奪と虐殺を繰り返す事に
よって、力を蓄え始めて、とうとう
日本にたどり着いたのが戦国時代
だったという事です。

鉄砲もそれでいくと、オスマン帝国
あたりから、学んだ技術だった
のでしょう。
当然武力でかなうはずもない当時
の日本を、それまで世界各地で
奪い取った富で、うまく傀儡と布教
を使って制圧しようとしたという事
です。

当然バックに支配血族につながる
イエズス会の存在があったのは
広く知られている事です。

当時のイエズス会の世界戦略を
知った秀吉が取った行動について
ご紹介したのがこの記事です。

バテレン追放令には正当な理由があった!
秀吉が知った南蛮人の意図とは?

南蛮人の世界戦略が秀吉に
知れ渡った経緯の部分も再掲して
みましょう。


信長の後に天下を統一した秀吉は九州の
キリシタン大名たちからポルトガル商人
が日本人を奴隷として人身売買していた
事実をつかみます。かなりの日本人が
アジアの国々に売られていたのです。
ここにいたって秀吉はバテレン追放令
を発布します。

 そんなトラブルが起きていたとき、
一五九五年一〇月、土佐の浦戸沖に
スペイン船「サン・フェレリーペ号」
が漂着します。これがまた一悶着
起こすというよりも、その後の
日本外交を決める事件へと発展します。
 サン・フェリーペ号の水先案内人
ランシスコ・デ。サンダが母国
スペイン自慢をするために取り返しの
つかない失言をしてしまうのです。
秀吉から派遣された取調官を相手に、
世界地図を大きく広げてみせて自慢
したのです。

「どうしてそんなに領土を拡大できた
のか?」と尋ねられると、「まず外国
に宣教師を送り込んで人々を手なづけて、
それからおもむろに軍隊を差し向けて、
信者の手引きを得てやすやすと征服する。
こうやって世界中に領土を広げてきた
のだ」とあっけらかんと答えるのです。
マインドコントロールの怖さです。
こんなことをされたら、どんな国も
ひとたまりもありません。』

“出典:「超マインドコントロール」
           池田整治著

このような戦略を指示するような立場
のイエズス会の宣教師として
有名なフランシスコ=ザビエルは、
ポルトガル一行として、恐れている
オスマン帝国を大きく避ける形で
アフリカ大陸の西側回りから、大陸を
一周しながらインドを目指したよう
です。

“出典:「日本の戦争の歴史」”

当時の南蛮人の世界戦略の影に
支配血族に直結するローマ法王が
絡んでいたので、イエズス会の
フランシスコ=ザビエルのような
宣教師が、送り込まれたという
事です。

その当時についての詳しい記事を
観てみましょう。


日本が戦国時代を迎えた当時、日本は
歴史上最大の危機を迎えていた。
何故なら、ローマ教皇の許可によって
結ばれたトルデシリャス条約によって、
日本は勝手にスペインやポルトガルの
領土と見做されていたから。

ポルトガル人が種子島に上陸し、
スペイン人のザビエルも鹿児島に上陸。
とうとう日本にも、白人列強の侵略の
手が伸びてきたのである。戦国時代の
日本にやってきたスペイン人や
ポルトガル人には、明らかに侵略の
意図があった。なにしろ、ローマ教皇
から侵略の許可が出ていたから、彼らに
とっての侵略はごく自然な発想だった。
こうした白人列強による侵略現象は日本
だけではない。

この時代の白人たちは、新たな領土や富を
求めて大海原に乗り出していった。冒険家
と知られるコロンブス、ヴァスコ・
ダ・ガマ、マゼランも新大陸を発見する
ことで、ヨーロッパを大きく繁栄させた
偉大な冒険家として、今でも世界中で
語り継がれている。

しかし、視点を変えてみるとヨーロッパ
が海外に進出したこの大航海時代こそ、
人類史上、最も不幸な「殺戮と略奪の
時代」
の幕開けだった。コロンブスたち冒険家
は“新大陸発見”と声を上げて、実質的には
新しい侵略対象候補を見つけ出す。
そして、見つけられてしまった
侵略対象候補は、スペイン、ポルトガルの
2ヶ国から大量の軍隊が送り込まれ、
次々と植民地にされていった。

アメリカ大陸、アフリカ大陸、
オーストラリア、そしてアジアへ。もはや
“世界を飲み込む勢いの残虐な侵略”に
よって、最大で1億人もの先住民族が
虐殺されたという。この次の侵略対象が
戦国日本だった。

これまで秀吉は、日本にやってきた
外国人宣教師たちが、良くない存在で
あることを察していたとはいえ、キリスト教
に対して極めて寛容だった。日本人の
キリシタンに対して、「キリスト教に
一夫一婦の戒律さえなければ、私もキリスト
教徒になったであろうに… 」などという
冗談を言った。

ところが、秀吉は、予想以上のキリシタン、
ザビエル一行の悪行を九州の地で知ること
になる。秀吉に仕え、共に九州に赴いて
いた大村由己は、その様子を手紙にこう
書き残している。

<五島、平戸、長崎などでは、南蛮船が
着くごとに、その国の領主を信者にし、
様々な信仰の者を自分の宗派に引き入れ、
それだけではなく、日本人を数百人、
男女は関係なく、黒船に買い取らせて、
手足に鉄の鎖をつけ、船底に押し入れ、
地獄の苦しみを与えています>

つまり、キリスト教の宣教師たちと
ポルトガルの奴隷商人たちは“グル”で、
日本人を奴隷として買い、連れ去って
行ったということだ。その証拠に、
宣教師たちが『奴隷貿易許可証』を
発給していた事実が露見し、ポルトガル
のリスボンでは、行く先々で日本人奴隷
の目撃情報が後を絶たなかった。

スペインの首都マドリードに残る
日本人奴隷の資料には、
「手足に鉄の鎖を付け」「むやみに
積み重ね」
「奴隷の日本人少女たちと醜い行い」
…など、見るに堪えない記録が散見
される。

このように、徐々に侵略されていった
日本だったが、戦国日本には、
アメリカ大陸の先住民にも、他のアジア
諸地域にも、どこにもないものがあった。

それは、秀吉による強力な統一政権。
それに従う全国の百戦錬磨の大名たち。
そして、戦闘能力の高い武士たちと
最新鋭で大量の武器だ。例えば、鉄砲は、
「鉄砲の絶対数では、16世紀末の
日本は、間違いなく世界のどの国よりも
大量に持っていた」と言われている。
つまり、戦国日本は、世界がまだ
知らなくとも軍事大国だった。

日本人奴隷を作って、日本の信仰を
破壊していた外国人に秀吉は激怒し、
『伴天連バテレン追放令』を出して、
大胆に外国人宣教師たちの国外追放
を命じた。こうして、日本に伸びた侵
略の手は一旦、秀吉によって弾かれた。

“出典:「皇帝🐧ペンギン」様の
note記事
コロンブスの偉業の裏に隠された
1億大虐殺事件
より”

秀吉の非凡なところは、スペイン
・ポルトガルの世界戦略を知った事で
中国が、南蛮の手に渡ると、日本に
とって脅威となるのは目に見えて
いたので、先に中国を制圧しようと
考えた事です。

中国と日本はそれまで、長らく不平等
な国力関係にあって、中国による支配的
な扱いもされてきていたという歴史的
背景がありました。

その背景がわかりやすい資料がこちら
です。


太宰府は別名を「都府楼(とふろう)」という。
「都府」とは、東アジアの盟主であった
中国の天子の名代として、一定の地域を
支配する権限をもつ「都督(ととく)」の
政府機関のことであり、「楼」は建物の
ことである。日本列島の中でここだけに
しかない名称である。
中国の天子に対して、「後ろ盾になって
ほしい。中国の制度そのままの府を設ける」
と宋などに使者を派遣して「都督(ととく)」
などの官位をもらった「倭(い)の五王」の
居所にふさわしいネーミングである。
「倭の五人の王」のうち「済」と「武」が
「都督」の称号を得ている。』

“出典:「久留米地名研究会」様のサイト
太宰府は日本の首都だった

すごく当時の日本の立場関係がわかり
やすい資料でしたね。

そういう意味でも秀吉が大陸に対して
力関係を逆転する必要もあったという
意図もあるという事です。

実際秀吉の日本軍は、秀吉の死を機に
撤退しますが、中国に敗れて撤退した
のではなく、きちんとした講和で
休戦して撤退してきたのが、当時の
武将が全て無傷で帰ってきた事からも
明らかです。

(引用注:余談ですが、当時引きあげる
日本軍についてきた朝鮮の人々が
多くいたらしいです。たぶんそれまでの
朝鮮は中国の屈辱的な支配を受ける
属国であったので、捕虜の扱いにも
優しい日本に惹かれたという経緯が
あったのでしょう。
ただ彼らは、穏やかな日本人に対して
暴行・略奪などを頻繁に行う事が
多かったので、現在では部落と呼ばれる
ような地域に集める事で、難を逃れて
いたというエピソードがあります。)

つまり江戸時代は、中国とも互角の関係に
あった事で、ヨーロッパの侵略の手も
及ばず、平和で豊かな時代になった
という事なのです。

さて日本への侵略がうまくいかなかった
事で、支配血族は金融カルトの仕組みを
つくり産業革命で国力と軍事力を
蓄えて、再び侵攻してきた事で明治維新
につながったという事です。

さて最初の記事の話に戻りますが、
ペスト大流行の時のユダヤ人虐殺に
しろ、残虐な魔女狩りにしろ、確かに
きっかけは、支配血族につながる
秘密カルトが仕掛けたものでしょうが、
ヨーロッパの人々は、それに誘導され
やすい、好戦的な民族であった事も
また確かなのだと思います。
(まあただ日本も南蛮人の奴隷貿易に
手を貸す大名などがいたわけで、
それも見逃してはいけませんが)

もちろんそれは今ではかなり平和的な
意識に成長しましたが、これから日本に
移民として入ってくる民族には、
当然野蛮な人種もたくさんいるだろう
という事です。

そういう意味で、穏やかな日本人(そりゃ
穏やかでない日本人もある程度はいる
でしょうが)のような外国人ばかりでは
ないという警戒心は、これから特に必要
となってくると思います。

ではまた(*´▽`*)

いつもありがとうございます(*^_^*)

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