この記事は、
キリシタン大名たちの神社・仏閣破壊の背後
にバチカンの存在があった!
の続編になります。
前回の記事で重要だった事をまずまとめ
ますね。
そもそも私たちが西洋人がかつて、黒人を
奴隷として扱う奴隷貿易をしていたのは
知っていても、多くの日本人が奴隷として
南蛮人たちに買われて、売られていった
という奴隷貿易の真実を、全く知ら
なかったと思います。
西洋人全てではもちろんありませんが、
一部の西洋人の、有色人種に対する差別
意識は以前からあったのです。
黒人だけが、特別扱いというわけでは、
なかったという事です。まあとにかく、
黒人を奴隷扱いするような人種なのだから
思い当たっても良さそうなものですが、
教育やマスコミの言う事をうのみにして
きた我々には、寝耳に水ですよね。
私も最近ではこのあたりの事は、詳しく
わかるようになってきていましたが、
11年前より以前は、多くの日本の方と
同じように、南蛮人はいい人とは言えない
までも悪い人たちじゃないだろー・・・
などと思ってましたからねー。
実際は、イエズス会が正式に奴隷貿易
する事を許可する権利を持っていて、
宣教師自身が、奴隷貿易の契約書に
サインしたという記録も残されて
います。コェリョという宣教師らしい
ですが、名前などどうでもいいです
よね。
契約書という事でいえば、武器の原料
や、莫大な資金を得るために、悪魔に
魂を売ったキリシタン大名たちも許せ
ません。
戦国時代ですから、確かに捕虜はいくら
でもいるとはいえ、同じ日本人を奴隷
として取引するなど言語道断ですよね。
しかし、これが歴史的真実だという事
です。
そしてキリスト教を信じたい人たちが
それでもまだこのような事実を受け
入れないとするなら、たぶん島原の乱
を例にあげるでしょう。教育では、
幕府のキリシタン弾圧と圧政に民衆が
放棄したとありますからね。
ですがこれは、幕府の島国根性が、
キリスト教を弾圧していたように
見せかけるための西洋の意図した偽の
歴史だったのです。
さてその真実が以下の記事になります。
『』内引用で、~が中略です。
『○ 島原の乱の真相
キリシタンの悲劇として描かれている
最大のものが1637年の『島原の乱』である。
教科書からは島原・天草地方の
キリシタン弾圧が酷く、
重税を課したことから農民たちが圧政に
立ちあがったと読める。
しかし事実はかなり異なっている。
当時の反乱勢は3万7千人、篭城戦時
では幕府軍は12万以上で
圧倒的な差がありながら制圧に半年を
費やしている。
しかも緒戦においては板倉重昌率いる
幕府軍4万人は惨敗。
一揆勢の死傷者が僅かに7名なのに
対し、幕府軍の死傷者は4千名に
のぼった。
しかも板倉は討ち死にしている。
これは、反乱勢が大量の武器弾薬を
保有していたからにほかならない。
では、彼らが大量の鉄砲などを
保有していただけではなく、
その使い方にも習熟していたのは
何故なのか。
まず、一揆勢の中心が百姓ではなく、
キリシタン大名だった有馬や小西の
残党だったことである。
有馬と小西は関が原の合戦において
西軍側につき、他国に移封される。
『天草征伐記』と『徳川実記』等の
記述にも、
キリシタン大名であった小西行長の
遺臣が中心になって、
それに有馬の旧臣も加わって、困窮した
農民を糾合して蹶起したとある。
しかもただの「農民」とは思えない
行動が目立つ。
一揆勢の行動で目に付くのは寺社への
放火や僧侶の殺害である。
有馬村では村民らが、所々の寺社を
焼き払ってキリシタンに戻ると宣言し、
これに周辺八ヵ村の村民らが同調して
寺社に火を点け、
キリシタンにならない村民の家には
火をかけている。
さらに島原城の城下町でも江東寺、
桜井寺に
放火している(『別当利杢左衛門覚書』)
また彼らは、代官の林兵左衛門を切り
捨てた後、村々へ廻状を廻し、
代官や『出家』『社人』(下級神官)ら
をことごとく打ち殺すように伝達した為に、
僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』
までが殺されたという
(『佐野弥七左衛門覚書』)。
(この記録を見れば、明らかに島原の乱が
キリシタン大名と、その残党と、
キリシタンに改宗した民衆によるものだと
いうのが、わかりますね。
当然裏で指示していたのが、あの宣教師
たちであったのは、間違いない
でしょう。)
その後彼らは、九州諸藩の討伐軍の接
近を知って島原半島に移動し、
島原の旧主有馬家の居城で廃城となって
いた原城に籠城する。
島原と天草の一揆勢が合流し、大量の
鉄砲と弾薬を保有してこの場所に立て
籠もったのである。
彼らが原城に籠城したのはポルトガル
などの外国勢力の支援を期待してい
た可能性があり、
少なくとも幕府はポルトガル等の支援を
警戒していた。それには理由がある。
ポルトガルやスペインには明と朝鮮を
日本の傭兵を使って占領する計画が
あった。
その際幕府と対立することは確実で、
九州のキリシタン大名を幕府から離反
させる計画であった。
そのためには長崎周辺を軍事拠点化する
必要がある。
クルスがイエズス会に宛てた書翰に
よれば、九州が日本から離反する際には、
キリシタン大名達がポルトガル人に基地を
提供することは確実で、
特に小西行長が志岐港を差出すことを
確実視している。
キリシタン大名たちとの間で計画は
相当詰められていたようだ。
更にフランシスコ会の宣教師の本国への
報告によれば
「 有馬や長崎は1590年には軍事要塞工事
が行われており、
イエズス会の宣教師達は、長崎近辺に
有している村落のキリスト教徒たち全員に、
三万名の火縄銃兵を整えた 」とある。
イエズス会は来たるべき戦いの為に、
多くの武器弾薬を準備し、
長崎近隣の信徒達に火縄銃の訓練を
させていたのだ。
乱の中心勢力は小西行長や有馬の家臣
である。
スペイン・ポルトガルの影を幕府が
想定したのは不思議ではない。』
“「るいネット」様のサイト
「イエズス会は日本で何をしてきたか」
北村浩司様の記事より”
まさに多くの記事の裏付けによって、
島原の乱は、南蛮人の意図であったのが
明らかですね。しかもイエズス会だけ
でなく、スペイン・ポルトガル本国の
意図まで、あったようです。
今回重要だったのは、それだけでは
ありません、彼らは、日本の傭兵たち
を使って、朝鮮や明国を攻めさせよう
としたとあります。
なぜ彼らが、自分たちで占領しよう
とはしないのか、それは、彼らが
占領したあとに、うまく統治するため
なのです。
そのためには、彼らは、むしろ相手の
国にとって善玉でないといけないのです。
その手口は、つまり戦国時代の日本にも
当てはまるというわけです。
つまりキリシタン大名や、南蛮人の息の
かかった大名たちに、日本を制圧させて
そして、その大名達をコントロール
すれば、わからないように日本を支配
できるというわけなのです。
その一人が信長でもあったわけですが、
彼ら、南蛮人のそのような狙いを知って
意図的に利用していただけだったのです。
この時に信長にその南蛮人の事を警戒する
ように、注意を促したのが、秀吉だった
という事から、先の記事での南蛮人の世界
戦略を知る前から、秀吉は勘づいていた
という事になり、やはり優秀な部下であった
ようですね。
しかし、信長のその意図がわかると
南蛮人の陰謀によって抹殺されて
しまいますが、その事についてはまた
別の記事で書かせていただきます。
実は、これと同じ手口で、明治維新が成功
したのです。つまり明治時代から、日本は
正確にいうと明治政府は、彼らの意図
通りに動いてきたという事です。
この見方ができれば、明治時代に日本が
大陸に進出していった理由もこれで明らか
になるわけです。
つまり日本は彼らの先兵となって大陸に
攻め込んだという事が、真実だったのです。
そして彼らは、太平洋戦争の前後を通じて、
まんまと日本が得た大国の利権などを、
奪い、さらには、政治・経済的な支配権を
密かに奪う事もできて、日本と中国、朝鮮を
完全に敵対国どうしにさせる事にも成功
したというわけです。
彼らが、遠いアジアの地域を、自分たちの
支配下に収めるためには、彼ら自身が
制圧したのでは、全く異人種である彼らに
従うはずもありませんからね。アジアの国
どうしを反目させる事によって、見事に
彼らの支配力をどちらにも行き渡らせる
事ができるようになったという事なのです。
まあこのあたりは、多くの文献や資料を
頭に入れてないと、理解は難しいかも
知れませんね。
ただわかる方にはわかってもらえそう
なので説明しておきました。
でこうなると秀吉が大国を攻めた理由も
全く違うものになるのは、予想できる
方もおられるでしょうね。
まさに、秀吉がにらんでいたのは、そ
そのような西洋の世界戦略を見抜いて
いたからなのです。
そのあたりも次回以降に書いていきます。