「至福の永遠」を感じ続ける右脳(心臓からの叡智)と、意識を肉体に閉じこめる左脳の違い


さて我々の感覚や思考は通常五感の信号
からくる現実認識を基準にする左脳に
偏っています。また、無意識に日常の
決まった行動をしている時は、ほぼ左脳
しか働いていません。左脳自体は五感の
認識による現実感覚全般を担っている
ので、日常生活や社会生活を送る上
で不可欠なものなのですが、しかし
左脳の活動だけに偏った生活をして
いると、とても厄介な事になります。

あまりにも左脳に偏った生活をして
いると、肉体を自分だと思い込み、
死に対する恐怖心や、日常のストレスに
そのままさらされ、人生を無味乾燥な
機械的なものとして捉えて、無感情、
無感動、そして愛情の希薄な、まるで
ロボットのような生き方になってしまい
ます。そうなるとやはり、暴力やいじめ
などのネガティブなエネルギーにつな
がる場合もありとても危険です。
(このロボットのような生き方になる事
については別の記事で書きます。)
現代の日本人にこの左脳タイプが多く
なっているのに、危機感を感じている
のは、私だけではありません。
つまり右脳の情緒が欠落しているのです。

逆に右脳は、ストレスのない、自由な
感性や発想に満ちあふれて、情感も
豊かで、天才的なひらめきや、能力を
無限に発揮できる潜在力を持っている
のです。
しかもこの右脳に叡智を送り込んで
いるのは、心臓なのです。
人体の中で神経が最も集中している
のが、心臓と脳を結ぶ経路で、
しかも心臓から脳への神経の方が
脳から心臓への神経よりも、
圧倒的に多いのです。
そして高次の次元からのゲートで
あるチャクラの中心も、生命
プラズマの中心も心臓あたりにある
ハートチャクラにあるので、叡智の
中心は心臓にあると言って良いの
です。
右脳は、つまり心臓の叡智を受けとる
事で、左脳よりも優れた潜在力を
有しているという事なのです。

さてまずは、その右脳の働きを知るのに
良い実例を取り上げます。
長いので2~3回に分けさせて
いただこうと思います。

『』内が引用で、~が中略です。

『ジル・ボルト・テイラーは語る
私は、小さい頃から脳を研究しようと
思っていました、なぜなら兄が脳障害
すなわち統合失調症だったからです。
妹としてまた後に科学者として、
なぜ私は夢をもつことができ、夢を
現実と結びつけることができ、夢を
実現できるのか・・・ そして兄の脳と
統合失調症は、なぜ普通に他人と共有
できる現実に結び付かないのか、
そして幻想になるのかを理解したいと
思っていました。

TEDで講演するジル・テイラー氏
こうして私は、重い精神病研究の道を
選びました。郷里のインデアナ州から
ボストンへ移り、そこでハーバード
精神医学部の フランシーヌ・ベーネ博士
の研究室で働いていました。研究室での
私たちの研究テーマは、正常な人たちの
脳は、 総合失調症や総合失調性感情障害
や双極性障害の人たちの脳と比べて、
生物学的に何が違うのかということ
でした。
それで私たちは、脳の集積回路の解析を
していました、どの細胞がどの細胞と
通信しているのか、それはどの化学物質で
またそれはどれだけの量なのか。
こうして私は、生活に大いに生きがいを
感じていました、~
しかし1996年12月10日の朝、私は起きると
自分の脳に障害があるのを発見しました。
私の左脳で、血管が破裂したのです。
その後の4時間の間に、私は自分の脳が、
すべての情報を処理する能力が、完全に
退化していくのを見ていました。脳出血の朝、
私は歩くことができず、話すことができず、
読むことができず、書くことができず、
また自分の人生の出来事を思い出すことが
できなくなったのです。私は母体のなかの
胎児のようでした。

脳は完全に左右に分かれている。
人間の脳を見れば分かるように、二つの半球は
互いに完全に分かれています。ここに本物の
人間の脳を持ってきました。 ~
(引用注:ここに脳の画像が入りますが
うまくリンクできないので、一応脳の他の
画像を持ってきました。

ElisaRivaによるPixabayからの画像
つまり右のクリエイティブと
あるのが右脳で、左のロジック
とあるのが左脳です。
下の説明のような脊髄とかはこの
画像にはありませんが、脳から背
につながる部位になります。)

そう、これが本物の人間の脳です。
ここが脳の前部、こちらが脳の
後部で、脊髄がぶら下がって
います。 こういう風に私の頭の
なかに納まっています。これを
見れば分かるでしょう、二つの
大脳皮質は互いに完全に分離
しています。 コンピュータが
分かる人には、右半球は
並列処理装置のように機能し、
 一方左脳は直列処理装置の
ように機能するといっていい
でしょう。 二つの半球は互いに、
3億の神経線維から成る脳梁
(のうりょう)を通じて通信
しています。しかしそれ以外では、
二つの半球は完全に分離して
います。なぜならそれぞれは
別々に情報を処理するし、別々に
ものごとを考えますし、 別々に
気配りしますし、あえて言えば、
それらは全く異なった人格です。~

私たちの右半球は、すべて現在の
この瞬間にかかわっています。まさに
今ここです。私たちの右半球は、
画像で考え、 体の動きを通じて
身体で学びます。情報は、エネルギー
の形をとって、われわれのすべての
感覚器官を通って、同時に流れ込んで
きます。 そしてそれは、この現在の
瞬間がどのように見えるか、その巨大な
コラージュとなって噴出します。さらに、
この現在の瞬間が どのように匂うか、
どんな味がするか、どのように感じて
いるか、どんな音がするか。私たちは、
右半球の意識を通じて、私を取り巻く
すべてのエネルギーと繋がった
エネルギー的存在です。私たちは、
一つの人間家族のように、右半球の意識を
通じて互いに繋がったエネルギー的存在
です。そしてまさに、今ここで、私たち
すべてはこの惑星上で兄弟姉妹であり、
世界をより良い処にするためにここに
います。この瞬間、私たちは完全です。
私たちは全体です。そして私たちは
美しい。

私たちの左半球は全く異なった場所です。
左半球は直線的に系統的に考えます。
左半球は過去を考え、未来を志向します。
左半球は現在の瞬間の巨大なコラージュを
もぎ取るように設計されています。そして
細部を摘み取り始めます、そしてさらなる
細部を、さらにもっと細部のさらなる細部を
摘み取ります。そしてそれらすべての情報を
分類し組織化します。私たちが学んだ過去の
すべてと関係づけ、未来のすべての可能性に
投げかけます。そして私たちの左半球は言葉
で考えます。この絶え間ない脳の動きが、
私と私の内的世界を、外なる世界に
繋げます。
それは小さな声で、このように私に
いいます。
「帰りにバナナを買っていかなきゃ、
朝食べるのに」それは、いつ洗濯しなければ
ならないかを私に思い出させる、
あの計算する知性です。しかし多分もっとも
重要なのは、私に「私は・・・私は・・・」
と語りかけるあの小さな声です。そして
左半球が「私は・・・」と語りかる瞬間に、
私は分離されるのです。私は私の周りの
エネルギーの流れから分離された一個の
実体的個人になり、そしてあなた方からも
分離されます。

これが、脳卒中の朝、私が失った脳の
部位です。』

“出典:「今月の言葉抄 2009年5月
より”

つまり脳科学博士である、ジル・ボルト・
テイラー女史が、ある朝突然の脳内の出血
により、左脳の機能が完全に停止して
しまったのです。
つまり残る右脳での体験を語ってくれて
いるわけです。
その体験については次回という事になり
ますが、
今回は、重要な左脳と右脳の違いに
ついて、
脳科学博士であるテイラー博士が説明
してくれています。

説明をよく読むと、つまり脳は二つの
人格を持っているという事です。
つまり私たちは、自身の中に二人の
人格がいるという事です。

そして右脳の人格は、全てを一つとして
捉え、すべてつながっているエネルギー
として理解します。そして今この瞬間に
すべてを感じようとするのです。
この右脳では、すべての人は家族で、
みんなつながっていて、一つである
と認識します。みんなつながった
一つのエネルギーとして捉えるのです。
つまりは、すべてをつなげる愛を理解
する脳だという事です。
また並列処理装置のように働くという
のは、すべて同時に処理するという事で、
順番もなにも関係なしに、一度に捉えよう
とするわけです。
そこに分離や因果関係も存在しません。
すべてが同時だという事です。

逆に左脳は直列処理装置のように
働きます。つまりすべてを連続する
ものとして捉えるわけです。つまり
因果関係は存在して、過去から未来へと
直線的につながる時間感覚を持って
います。
つまり瞬間を意識するというより、
過去や未来を常に意識してしまうと
いう事です。そして全体を見る力は
失われ、常に細部を分析するように
働きます。またそれを分類して組織化
します。
さらに言葉で理解していきますが、
常に「私」という事を意識して、脳内
で語りかけてくるので、自分が外界
から切り離された独立した存在だと
意識させられるという事です。

なるほど、私たちは、本来物理的にも
つながっている一つのエネルギーだと
いう事が、本当の現実なのですが、
左脳はあくまでも、個人どうし、物質
どうしがばらばらに存在しているように
捉えるという事ですね。

しかし本来の左脳は、そんなに真理に
対して盲目ではなかったという研究が
あるという事ですね。

では何度も引用して恐縮ですが、
またまた太古の左脳の損傷についての
記事の再掲です。

“ライトは、15年かけて人間
(特に脳)の進化を研究しているが、
その発見は私自身が調べていることに
とって実に有益だった。
 その結論は、人間の脳は、「遠い昔の
いつか」に能力のピークを迎えており、
それ以来「退化」しているということ
だった。
おそらく何百万年もかけて脳の容量は
加速度的に急拡大したが、およそ20
万年前に突然進化が止まり、ピーク時に
約1440グラムあった脳の重量は、
その後、約1300グラムに減少した
という。

もちろん、世界中の伝承にも、楽園の
状態(黄金時代)から「人間の堕落」に
切り替わったという話が共通して見受け
られる。
 ジンとライトは、我々は、現実感覚の
限定と歪曲をもたらした脳の根本的な機能
障害のため、知覚的にも生理的にも、
かつての人間の劣化版になっていると
正しくも述べている。
これは私が長年言ってきたことと同じ
である。
両名によると、「人間の脳には、構造的にも
機能的にも、大幅かつ長期的な衰退が
あった」形跡があり、「その障害は基本的に
支配的な側(左脳)に集中している。」そう
である。我々は、その状態で生まれ、年を
取るごとに進行していき、「損傷した左脳」
(左脳は現実の知覚で支配的である)を
作っていくという。
 その症状はさまざまであるが、特に鬱病
(うつびょう)、大幅に欠陥のある免疫
システム、歪んだ性行為があるとし、
知覚的に優れた右脳が抑圧されたことで、
意識の状態(あるいはそれに相当するもの)
に極めて深刻な障害が発生していると述べて
いる。
そして、著者は、本当に我々は進化の頂点に
いるのだろうかと疑問を投げかけている。
明らかに違う。
   (中略)
ジンとライトは、約20万年前に始まった
左脳の「損傷」が、恐怖心を刺激し、支配欲
につながっていったと述べている。
   (中略)
『無明の闇に取り残されて』には、脳の故障
とバランスの欠如さえ修正されれば、人類は
素晴らしい可能性を秘めていると書いてある
が、まさにその通りだ。
この潜在的な力は、左脳の支配のために、
右脳に閉じ込められたままである。”
“出典:「ムーンマトリックス
        〈覚醒編6〉」
     デーヴィッド・アイク著
       訳 為清 勝彦”

つまり左脳が損傷した事により、我々は
無知と恐怖・苦悩の世界に放り込まれて
しまったというわけです。

しかし、私たちの潜在能力を発揮する
ために、また私たちが未来へ可能性を
広げるためには、右脳の認識や、潜在力
を使う事と同時に劣化した左脳を元の
能力に戻す事が非常に大事
になって
くるのです。

それには、右脳が示す無限性と
潜在力を、とことん理解する事が
、左脳の劣化を修復するのに
最適
だという事です。

そしてさらにそのためには、右脳に
叡智を送り込む心臓(ハート)の働きが
最重要になってくるわけです。
ハートを活かすためには、愛情や
あたたかい心、豊かな情緒、
情熱やポジティブな心、楽しむ心
至福の状態、などのポジティブな
エネルギーが大事だという事に
なります。

いつもありがとうございます(*^_^*)

人間の真の偉大な力編

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神秘体験を科学する4過去生体験で病が改善される理由とは?


この記事は
神秘体験を科学する3過去生では
第三者からの視点も別の場所からの
視点も得られる!

の続編です。

今回は過去生体験で、精神的な
安定や体質改善が得られるという
過去生体験の特徴を取り上げ
ますが、これまで観てきたように
過去生体験は、完全じゃないに
しても、ワンネスとしての
自己体験なので、通常の意識を
超えた能力がしばしば発揮
されます。

これまで何度も取り上げて
きた、アニータさんの究極の
ワンネス体験では、彼女が
重篤の末期癌であったにも
かかわらず、完治できると
意識して、実際跡形もなく癌
が消失してしまったという
実例があります。

つまりワンネスの意識レベル
は、究極のものでなくても
意識の浄化に役立ち、本人
の精神や身体を改善させる事
ができるのです。

過去生体験では、ワンネスの
意識に少しでも近づく事が
できている事の証明でもあります。

では今回もムーディ博士の著書より

「」内が引用で、~が中略です。
「」外は私の見解です。

「特徴8
退行経験により精神の安定が期待できる

長年のうっ積した感情から解放され、
気持ちが晴れ晴れとした状態に至る
ことを、精神医学用語で「カタルシス」
という。カタルシスに至った者は、
ストレスがやって来る場合にも新たな
見方をして乗り越え、つらい社会に
あっても必要な気分転換をはかれる
ようになることが多い。
 こうしたカタルシスが、過去世への
退行経験をした被験者によく起こる。
たとえばある青年は、弟に対する
苦々しい思いから離れられないで
いた。弟だけがいつも両親からかわい
がられ、いろいろ買ってもらっていた
からである。
この青年は催眠の中で、南米の
ジャングルに住む民族の老人だった
過去世の自分へと退行した。
 その生で、彼はある年上の女性に
出会った。青年によれば彼女は、過去世
における彼の弟だという。もちろんこの
女性の顔形は、現世における彼の弟には
全く似ていない。彼女が弟の過去世の姿
だと知ったのは青年の直感だった。 
その過去生で、じつは老人(のちの青年)
は、その女性(のちの弟)に頼りきって
生活していた。女性は全く献身的に老人
の世話に明け暮れていたのだ。それを見て
以降、青年は弟に対し新たな愛情を感じる
ことができるようになった。こうして
青年は、安定した心を取り戻すことが
できたのである。

過去世において弟は自分に対し、全く
献身的に奉仕してくれた。だから現世
では、今度は自分が弟に奉仕する番だ。
青年は過去世への退行経験ののち、弟に
自分の気持ちを伝えた。以来、彼ら兄弟は
仲良くなり、親しく新しい関係へ入った
のである。
 私の被験者たちは皆、退行経験の中で、
自分の現世の問題と交差するなんらかの
出来事や状況に接している。それは
ときに、他人にとってはドラマチック
なものではない。
しかし当人にとっては、「あの光景を
見て以来、私は大きく変わりました。」
と言えるような事柄なのである。」

占星術でもこのカタルシスというのは、
よく使われるコンセプトですね。
占星術のエネルギーの場合、その
カタルシス(浄化)を起こすために、
ネガティブなエネルギーとして現れる事
が多いように思います。それは、もしか
したら自分の魂の追体験のような
エネルギーなのかもしれません。
肉体に宿る時点で、魂は過去の自分の
体験を肉体に投影するので、それが天体
のサイクルのエネルギーとリンクした時
に現実として表現され、それが結果的
にこの過去世体験と同じ効果を生むの
ではないかと思います。
しかし、なぜネガティブなもので
なければならないかという疑問は残り
ますけどね。
しかし、このように効果的に過去世体験
により、現世での精神的問題が解決される
というのは、ある意義のある結論へと
導いてくれます。つまり過去世につながる
ような意識の状態では、自分を保護して
くれる存在かまたは自分自身の高いレベル
の意識が、その問題解決のために、意図的
にその解決となるシーンへと意識をいざ
なってくれるというものです。つまり
囚われた日常の意識には、その手をさし
のべるには、なにがしかの壁がある
と考えられるわけなのです。
そして意識が過去世レベルにいける
ような、魂の本来の意識に戻ったなら
ば、そのような存在または高度な自己
意識の助けを受ける事ができるという
事です。

「特徴9 退行経験により肉体の病が
        改善されることもある

 まれにだが、被験者は過去世への退行経験
により、肉体の病が劇的に改善されたという
ことがある。全く解消してしまった場合すら
ある。
 たとえば、私がリサと呼ぶ女性は、重い
頭痛によく悩まされていた。検査をしても
異常(たとえば腫瘍など)は見いだされ
なかった。彼女はまたもう何年も前に、
カフェインやアルコールを含む飲料を
一切断っていた。頻繁に起こる頭痛に対処
するには、毎日アスピリン錠を服用する
ほかなかった。
彼女は
「催眠療法をしてくれますか。どんなもの
か経験してみたいの」
と言って私のもとへやって来た。私が催眠
のトランス状態へ導くと、彼女は石造りの
古代都市での苦しい人生へと退行した。
以下は、催眠から覚めたのちに彼女が語った
ことである。

「私はその街に生活していましたが、街は
他国の軍隊によって侵略されようとして
いました。私はトランス状態の中で、彼ら
の軍隊が街に向かって山を下って来る光景
を見ました。強姦と略奪のためです。
 私たちは皆恐れおののきました。敵の
兵士が人々を追いかけ回し、どこを見ても
逃げ惑う人々ばかりでした。
刀剣を手に持った彼らは、人々を切り
裂いていました。
 私は自分自身も見ました。私は若い女性
で、白い服を着ていました。必死に
逃げようとしました。しかし、どこも
敵ばかりで、逃げようにも逃げられま
せん。突然、私は数人の敵につかまって
しまいました。一人が私の腕をつかまえ、
別の一人が私の頭を棍棒でなぐりました。
その痛さといったら信じられないほど
でした。何度かなぐったすえに、彼らは
私を地に投げ捨てました。脳は破裂
しそうで、私はゆっくり死の淵に落ちて
いきました。」

 彼女は現実にその痛みを感じ取って
いた。目を閉じた状態で彼女はソファに
座っていたが、その顔にも声にも痛みが
あふれていた。
あとでこの恐ろしい死の経験について
彼女と話すと、彼女にとってそれは
大きなカタルシスとなったようだ。
過去世での経験を語ることにより、現世
での大きな感情的解放を経験したので
ある。
 退行経験についていろいろ語る中で、
彼女の人生にはストレスや頭痛の種と
なるような、様々な問題があった事実が
明らかとなった。彼女が心の片隅に
追いやって見ないようにしてきた様々な
人生の問題も、退行経験を通して、
ほじくり出すことができた。そうやって
しだいに、彼女は心の問題を解消して
いくと共に、あのひどい頭痛をも解消
することができたのである。
 このような例は、心と体が深く
つながったものであることを、私たち
に再認識させてくれる。」

これは、またとてつもない悲劇を経験
した過去世の追体験のようですが、
その事自体よりも、自分が霊的な存在である
事を、退行経験により実感できた事で
浄化作用が起きたのだろうと思われます。
つまり、過去の人生で、どんな悲劇を
経験していても、それは霊的にはなんの
影響もないという意識レベルを獲得
できたという事なのだと思います。
(霊という存在は、肉体に囚われて転生を
繰り返す魂より高次の存在で、肉体レベル
での経験の影響をほぼ受けません。
ですが、これも自分自身だという事です。
この高次の意識の階層構造というのは、
古来より世界中で、様々な分け方がされて
いるので、また記事でまとめていこうと
思いますが、きっちりと壁で隔てられた
ようなものどうしというわけではなく、
意識レベルの差があるだけで、つながって
いるものとして捉えてさしつかえありま
せん。肉体があり生きている状態でも、
私たちは、魂であり、霊でもあるという
事なのです。)

頭痛があったのは、過去世の肉体レベル
での記憶が魂に刻まれていた事が原因
ですが、魂よりも高いレベルの意識(霊)
にとっては、それを現在の潜在意識が
気づいた時点で、解消するべきものを
言葉でないような方法で手にしたと
いう事なのです。そのような過去の悲劇
的な記憶のエネルギーを解消するために
現在の人生を生きる事になったという事で
その目的を、私たちの日常意識レベルで
なく潜在意識または魂のレベルで気づいた
時点で、そのレベルでの浄化をする事に
つながったという事なのです。
このプロセスには、私たちの日常の意識は
ほとんど関わっていません。全て霊的な
次元と潜在意識での作用だという事なの
です。

これで彼女の重い頭痛も、治ったという
事ですが、それは肉体レベルよりも
このような高い霊的レベルの自分に
アクセスできたからという事なのです。

さて次の特徴をみていきましょう。

「特徴10

退行は時間的順序よりも、それが持つ
意味に従って進んでいく

被験者が、催眠を通し一年間に様々な
過去世へ退行したというような場合
(引用注:ムーディー氏は治療のため
被験者に何度も退行催眠を繰り返す
事が多いというわけです)、その退行
の順番は時間的順序ではなく、むしろ
被験者の心に最も関連しているもの
からになる。
 たとえば、ある男性被験者が、現世
で女性に対する態度のことで幾つかの
経験をしているとしよう。すると退行
していく先の過去世は侵攻的な人生で
あったり、他者への依存的人生で
あったりする。
そういうものが幾つか続くのである。
 退行していった先の過去世の主な
特徴は、過去世での被験者の役割よりも、
むしろ被験者の精神的・霊的な発達に深く
かかわっている。それゆえに、過去世に
退行して被験者の心の問題を解決する
という過去世療法が有効になるので
ある。」

“出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

これも人生の心の問題の解決に大切な
要素のようですね。
ムーディー氏は心理療法士なので、
基本的に被験者・患者の治療という
目的のために退行催眠をしているという
事です。
しかも、これは非常に有効な方法である
という事がわかってきたという事ですね。
自分の心の問題を解決するのには、自分
の過去世を経験する事で、解決できる
ようになるという事です。
そして今回の特徴は、過去世体験が、
まさに心の問題を解決するための順序で
進んでいくという事なのですが、催眠
をかけられた本人の霊的なレベルは、
その解決のための最善の体験を、本人に
させようとしているのは明らかですね。
確かにくどくど説明されるより、解決の
ための効果的な体験をする方が、より
本人の実感として、大事なヒントが
得られるという事なのだと思われます。
しかもその経験は、現世での自分の役割
や個性とは違う人生で、自分が精神的
・霊的にレベルアップするために効果的
な人生となるという事なのです。
そしてまた本人にとって必要であれば、
その人生での他者の心なども経験する事
ができて、より心の問題解決に役立たせる
事ができるという事です。
当然これらの経験は、潜在意識への作用と
いう意味で、強く本人に影響を与えるもの
となるという事なのです。

退行催眠による過去世体験は、私たちが
どのような存在であるかについても、
非常に大きなヒントを与えてくれて
いるというわけですね。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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チベット死者の書4「ちっぽけな自分」という認識では解脱は不可能という事が、臨死体験者の報告で確信できる!


この記事は
チベット死者の書から読み取れる
真理の共通点その3
「悟りとは二元論的世界からの
脱却だった!」

の続編です。

今回はタイトルには使用しましたが、
チベット死者の書からいったん
離れます。

つまり前回取り上げた2人の
臨死体験者の意識レベルと認識の
違いに焦点を当てて、より
詳しく観ていこうと思うのです。

そのためにチベット死者の書で
記されている、「全ては自分の投影」
と言う認識こそが解脱の条件
という事を、2人の臨死体験者の
体験談から確信し、より深く理解
する必要があるという事です。

まずコアと呼ばれる光に対しては
自分はちっぽけな取るに足りない
存在だと思ってしまったエベン
さんの認識が、解脱を不可能に
してしまい、コアと一体化できずに
下降を始めたという事と、
アニータさんのように、自分が
神や仏陀のような存在であり、
つまりは宇宙そのものだという
認識を得られて、解脱の意識
レベルを獲得したという体験談の
比較を前回の記事から再掲して
おきますね。

「さらに先へ進んでいくと、広大な虚空の
中へ入っていった。果てしない広がりが
続く全くの闇だったが、そこは限りない
安らぎも感じられた。漆黒の闇であるにも
かかわらず、光も満ち溢れていた。すぐ近く
にいる気配のする光の球体、オーブ(たま
ゆらとも言う)の一つが放射している光らし
かった。オーブはあの輝く存在の天使たちが
奏でていた調べと同じように、ほとんど
固形のようで生きていた。~
~私の場合は胎児の「母親」に相当する
ものが、宇宙とそこにあるもの全体の母体、
言い換えれば、神や創造主、根源などと
呼ばれる存在だった。
神の存在はきわめて間近に感じられ、自分
との間にまったく距離がないように思えた。
しかしそれと同時に神が無限に広大である
ことがわかり、それに対して自分がいかに
比べ物にならないほどちっぽけであるかを
思い知らされた。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

この部分が特に重要で、エベンさんの
臨死体験を紹介しようとした理由につながる
ものなのです。
今ここが、エベンさんの到達した意識レベル
の限界を示しているところだからなのです。
彼はこの高次元の意識領域で神のような存在
に会ったという事ですが、それは絶対的な
存在と自分が分離したままの感覚だという事
を示しているのです。
せっかく「神の存在はきわめて間近に感じ
られ、自分との間にまったく距離がないよう
に感じられた。」という意識まで到達して
いるのにあと一歩、そのような絶対的な
意識と一体になるところまでいかなかった
という事なのです。
それまで拡大し続けていた彼の意識が、
ここでストップしてしまう事になる
のです。
ここで絶対意識になれなかったエベンさん
と比較して、それを自分のものとした
アニータさんの意識をもう一度引用
させていただきます。

“「どうして突然、すべて理解できたんだ
ろうか?」私はそれが知りたいと思いま
した。
「誰がこの情報を与えてくれたんだろう?
神様かしら?それともクリシュナだろうか?
それともブッダ?キリスト?」
その時、「神は存在ではなく、存在のあり方
なのだ。そして、私は今、そのような存在の
あり方をしている」という悟りが得られ、
その感覚に圧倒されたのです。」”
“出典:「DYING TO BE ME」
アニータ・ムーアジャニ著 
           hay house 刊
邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

つまり彼女の謙虚な言い回しに惑わされず
に、彼女の説明をそのまま受け取れば、
アニータさんは、自分自身が絶対的な
存在そのものとなったといっていると
いう事なのです。
「えーそんな偉そうなー!」
普通そう思いますよね、その普通の感覚
こそ長年の間人類全体を苦しめてきた
「分離」の感覚なのです。
ここで絶対意識のからくりを説明します
と、アニータさんだけが、本来絶対的
存在だったという事ではなく、我々の
一人一人全員がそのような存在で
あるという事なのです。
つまり「みんな偉い!」のですが、
わかりにくいと思いますので、この宇宙に
おける全てのものは、全体とつながって
いて、またその全体そのものでもある
という事なのです。

実は宇宙の物理的モデルもそういう事に
なるのですが、それについてはまた別の
記事に書かせていただきます。
とにかく残念ながら、絶対的な存在と一体
になれなかったエベンさんは、
「自分がいかに比べ物にならないほど
ちっぽけな存在であるかを思い知らされた」
とあるように分離された小さな存在として
自分を意識することで、その絶対的存在
から離れてしまう事になるのです。
(これに対して、絶対意識に到達した
アニータさんは、肉体に自分を自身の選択
により戻すまで、その領域に留まっていま
した。)
そしてちっぽけな自分という感覚を持って
しまったエベンさんは、絶対意識領域に
留まる事ができず、この後、低次の領域に
下降してしまう事になります。』

究極の意識と一体化できるかどうかの境界
とは? エベンさんの証言その5

さてここからが今回になります。

解脱の認識を得られなかった
エベンさんと解脱の認識を得られた
アニータさんの意識による
体験の世界から、さらに
理解を深める事ができます。

まずエベンさんは、高次の世界を
垣間見る事ができたおかげで、
光から授けてもらった叡智の助け
などもあり
下降してきて肉体に再度宿る
事ができたというわけです。

ただこれも自分の意志で選択した
というより引き戻された感じで、
すでに悟りを開いて、未来の
いくつかのパターンも吟味できた
アニータさんが、もう一度肉体に
宿る事を選択できたのとは、
大違いの意識レベルだという事
ですね。

エベンさんが下降を始めてからの
様子は二つの記事からの再掲に
なります。

エベンさんにとっては、最高次元
というのが、絶対的な光のオーブ
が照らす闇の世界でしたが、
それより下の次元に天界のような
場所があり、それも通過して
下降を続け、最初いた泥の世界にも
降りていきます。


「何かに引っ張られているような気がした。
~私はコアの世界を離れ、来た道を戻って
いた。眼下には大地が広がり、コアの輝く
闇が絢爛とした緑に溶けていった。下方には
、村の人々、木々やきらめく小川や滝が見え
、頭上には弧を描いて飛んでいるあの天使
に似た存在たちが見えた。連れの女性も
そこにいた。コアへの旅の間も、光の球体の
オーブになってずっと私のそばにいたのだ。
いまは再び人間の姿をしていた。~彼女に
会えたことが嬉しかった。彼女の存在に感謝
した。「いろいろなものを見せてあげます。
けれどもいずれは帰ってもらいます。」コア
の闇へ入っていくときに、言葉を使わずに
伝えられてきたメッセージが思い出された。
そして帰るということの意味が、そのときに
なって理解できた。
それは旅の出発地点の「ミミズの目」の世界
を指していたのだ。
再びその暗がりに降りていきながら、高次の
世界に何があるのかを承知していた私は、
もう以前のように狼狽することはなかった。
~泥。垂れ込めた闇。浮かんでは消えていく
無数の顔。上から垂れ下がる動脈に似た
木の根。そうしたものが、もうなんの恐怖
も呼び起こさなかった。自分はその場所
には属しておらず、ただ訪れるだけなのだと
-言葉には頼らずにすべてがわかる方法で-
わかったからだ。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

なんとエベンさんは、コアと一体になれ
ずに分離意識のままだったために、その
自分の意識の重みにより、低次元の
世界へどんどん逆行して、また地獄に近い
ような世界に戻ってきてしまったのです。
ただ、以前よりも意識レベルが高くなった
状態でなのですが、』
光の球体から離れて再び下降する
エベンさん!エベンさんの証言その7

そして次が肉体まで戻る時の詳細です。
エベンさんは、泥地獄のような世界
に戻ってからも、何度も光のメロディ
に導かれて、再上昇したりしていた
のですが、ついにそれが不可能に
なったところからです。


「どんよりしたミミズの目の世界にはまり
込んでいる事に気づくたびに、私は回転する
光体のメロディーを思い浮かべた。それが
ゲートウェイとコアの世界への門を開いて
くれた。・・・
・・・ところがゲートウェイの境界まで
やってきたあるとき、もうそこへ入れないと
いうことを悟らされた。高次元への入場券の
ようなものだった回転する光のメロディー
は、もはや私をそこへは受け入れてくれなく
なったのだ。
~私は悲嘆に暮れ、悲しみを募らせて
ますます暗い気持ちになり、その気持ちは
「実際」に降下するというかたちをとって
体験されることになった。巨大な雲を抜け
ながら、私は下へ向かい続けた。
周囲のあちこちからくぐもった声が
聞こえてくる。~
~私のために祈っていたのだ。
後になって気づいたことだが、その
中にはマイケル・サリバンとその夫人
ペイジの顔もあった。あの時点では
シルエットがわかっただけだったのが、
こちらの世界へ戻って言葉を取りもどして
から、サリバン夫妻であったことが、
はっきりと確認できた。マイケルは
物理的にも、集中治療室で何度も私の
ために祈っていてくれたのだ。
(ペイジは病室には来ていなかったが、
祈りを捧げてくれていた。)
祈りは私に力を与えてくれた。深い悲しみに
沈みながらも何も心配はいらないという
不思議な安心感があったのは、そのおかげ
だったのだろう。
天国は想像主オームの姿で自分と共にここに
ある。蝶の羽根に乗った女性という天使の
姿で、ここにある。それがわかっていた。
 帰路についていた私は独りではなかった。
そしてこれからは、決して独りを感じる
ことはないことも確信していた。~
~井戸を落ちながらどんどん近づいている
下の世界にも、自分には愛しい存在がいる
のだと気がついた。その瞬間まで、その
ことを完全に忘れ去っていたのだった。
 それに気づいた私は六つの顔に意識を
向けた。六つ目の顔が特別に際立って
いた。
それはなぜかとても懐かしい顔だった。
そう感じたときに、だれの顔かはわから
ないまま、恐怖と紙一重の圧倒的な戦慄
が駆け抜けた。自分はあの顔に必要と
されている。私を失えば二度とその傷
から癒やされず、喪失感に打ちのめされて
しまうであろう顔-天国の門が閉じられた
ときの私と同じ悲嘆にくれる顔。
その思いに応えないのは裏切り同然に
なる顔-。~
~それは内から生まれる恐怖ではなく、
六つの顔へのー特に六番目の顔への恐怖
だった。だれかはわからなかったが、
かけがえのない顔に違いなかった。~
~下界へ下りるという危険を冒して
自分のところへ戻ってくるように哀願
している。何を言っているのかは理解
できなかったが、その言葉は私には
下の世界にしがらみがあること、そこに
“足を突っ込んで”きたことを伝えている
のがわかった。
 私は戻らなければならないのだ。
そこには尊重しなければならない関わり
があるのだ。顔がいっそうはっきりと
してくるにつれて、その思いはますます
強くなった。すると顔も、もう少しで
判別できそうなほどになってきた。
 それは少年の顔だった。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

最後の少年の顔は、エベンさんの息子さん
の末っ子の顔ですね。
彼は、とうとう臨死体験から肉体に帰還
してきたのです。長かった。そう、我々
の時間でこの臨死領域は測れないの
ですが、あまりにも詳細にわたって、
エベン・アレグザンダーさんが、体験を
この著書にまとめあげてくれているので、
今まで長い間集め続けてきた、臨死体験の
資料の中でも、圧倒的に詳しい描写
だと思います。
この詳しい描写のおかげで、本当に多くの
真理への貴重なヒントが得られたと思い
ます。このシリーズでそのヒントについて
一つ一つ解説をしていきました。

今回の最後のシーンも、やはりヒントが
つまっていたのです。

臨死体験が私たちの日常の意識と
つながっている事は、先の記事でも
書きましたが、この肉体に戻る描写は、
それがありありと理解できるように
なっています。
かんたんな図式でいえば、意識のレベル
の高さが、そのまま臨死体験での上下の
感覚で、我々の日常の生きている現実
は、臨死体験の(エベンさんの場合の)
最下層であった「泥の世界」から
さらにずーーっと下降していった場所に
あるという事なのです。
しかも悲嘆にくれていたという
ネガティブな意識を伴いながらの下降
だという事です。
なんと私たちが、生きていて肉体に意識
がある間は、そのとてつもなく低い位置
に意識があるという事なのです。
これで、臨死体験者のほとんどが、肉体
に意識がある間の方が、囚われていて、
臨死領域の世界とは比べ物にならない
くらい不自由だと感じたと証言している
事が、よく理解できますね。

ついに生還!身体に戻る描写まで詳細だった    
エベンさんの証言その9

さて、コアの世界の絶対的な光
から叡知を授かったエベンさん
でも、自分をちっぽけな存在
としか認知できなかったために
次元を下降させられて、ほぼ
選択の余地なく、肉体に再度
宿る事になりました。

そしてこれはアニータさんにも
共通する部分ですが肉体にある間
は、制限がかかってしまい、
臨死体験中に得た、貴重な
真理的な叡知を思い出せなく
なっているという事です。

まあそれだけ肉体が悟りを
邪魔しやすいものだと
いう事でもあります。

そして、絶対的な存在を自分と
一体のものとして悟れた
アニータさんの場合は、時空の
全てを俯瞰する事ができ、
別のタイムラインに存在する自分
も認識できたりしました。
そして肉体に戻った場合と、
戻らなかった場合の二つの
タイムラインを認識できて、
そして肉体に戻る事を自分の意志
で、選択できたのです。

分離意識ではなく、全ては自分と
一体のワンネスが真理だと
悟れただけで、これだけ
差があるのかと思うくらいの
アニータさんが肉体に再度
戻るまでの詳細を再掲して
おきます。

まずはアニータさんが、
パラレルワールドを認識
できたシーンから


私は身体の五感ではなく、まるで新しい感覚
を手に入れたように限界のない知覚を使って
いました。
それは通常の能力よりもはるかに鋭く、
360度が見渡せて、自分の周囲を完全に
認識できました。
驚嘆すべきことのようですが、それが普通に
感じられたのです。
もはや身体の中にいることのほうが、制限
された特殊な状態であるように感じられま
した。
その世界では、時間も違うものに感じられ
ました。私は全ての瞬間を同時に感じて
いたのです。
つまり過去、現在、未来の自分が関係する
あらゆることを、同時に認識していました。
さらに、いくつかの人生が同時に繰り広げ
られているのを感じました。
一つの人生では、私に弟がいて、彼を守ろう
としていました。
その弟の本質は、(兄の)アヌープだと
わかりました。
ただし、その人生で、彼は私よりも若かった
のです。
時代や場所は、はっきりわかりませんでした
が、田舎暮らしのようでした。
家具などほとんどないあばら屋に住み、私は
アヌープの面倒を見て、両親は畑で働いて
いました。
 姉として弟の世話をし、家族の食べ物を
確保して、外部の敵から身を守っている
自分をありありと体感している間、その
生活が過去世のものだという感じは
まったくありませんでした。確かに風景は
かなり昔に見えましたが、まるで今ここで
起こっているようだったのです。
時間のあらゆる点を同時に知覚できる
というのは、向こう側の世界での明確な
理解に役立っていましたが、今それを
思い出したり、説明しようとすると混乱
が生じます。
   (中略)
五感の制限により、私たちは時間の一つの
点に集中させられ、これらを一列に
つなげて直線的現実を創り上げている
ように思えました。
さらに、私たちの身体の制限された知覚
が、目で見え、耳で聞こえて、触ること
ができ、匂いを嗅ぎ、味わえる範囲に
閉じ込めているのです。
でも身体的制限がなくなった私は、時間や
空間のあらゆる点と同時に関われるように
なりました。」
    ~引用終了~
“出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

まさに我々の通常の時間の感覚が、根本的に
間違っていることが、この絶対意識では、
よくわかるということです。
時間は全て同時に存在し、またそれを同時
に体験できて、そしてまたパラレルワールド
も存在しているという事が、実感として
理解できたという事です。
私が、これまでの記事で説明してきた
通り、「無限の時間が同時に存在している
という事、そしてパラレルワールドも
無限に存在しているという事」の裏付けが
彼女の実体験でできた事になるわけです。』

肉体的な制限がかかるのは、エベン
さんも同じでしたが、分離意識の
まま留まっていたエベンさんは、
その制限がより強いし、その上
アニータさんのように時間の
真理や、パラレルワールド的
時空体験はできなかったようです。

そしてついに肉体に戻る時の
アニータさんは、やはり
パラレルワールド的時空の認識
を利用して、二つの未来を比べて
自ら選択して肉体に再び宿る事
になります。
エベンさんのように受け身的
でなく、途中の世界もなく
絶対的な認識状態から一気に
肉体に戻れるわけです。
ただし、あまりに素晴らしい
ワンネスの領域にアニータ
さんは、いったん戻らない
選択をしようと思います。

ではその時の描写を観てみましょう。

『アニータさんは、絶対意識領域で、
一体である父との会話を続けています。

改行して途中で入る「」以外の言葉は
私の注釈というか考察です。

「父との対話に言葉は必要なく、互いに
対する理解が完全に溶け合っていました。
父のことが理解できただけではなく、
まるで自分が父になったようでした。
亡くなってからも、父はずっと家族と一緒
にいてくれたことに気づきました。~
ずっと私のそばにいてくれたのです。」

これはとても素晴らしい事です、これまで
かけがえのない人を亡くして、悲しみに
打ちひしがれている人など、みなさんの
そばにちゃんとその人はずっと存在して
くれているのです。

「私は、父の本質が、これまでより
はっきりと自分に話しかけているのに
気づきました。
「アニータ、今はまだここに来るべき時じゃ
ないんだよ。でも私と一緒に行くか、身体
に戻るか、おまえが自分で決めなさい」
「私の身体は重病で、癌に侵されているの。
もうあの身体には戻りたくない。だって
苦しみ以外何もないんだもの。私にとって
だけじゃなくて、ママやダニーに
とっても・・・・。
戻る理由なんか何もないわ」
無条件の愛の状態がこの上なく幸せだった
のは言うまでもありませんが、私は身体に
戻るという考えに耐えられませんでした。
今いる場所に永久にいたかったのです。~」

アニータさんは、他の臨死体験者たちと違い
身体に戻るかどうか、ゆっくり考えて
選択できる状態であったという事です。
たいていの臨死体験者は、突然身体に
戻ったり、光の存在に戻るようにいわれて
これも自動的に戻ってきたりしています。
さすがに絶対意識領域はそれらとはレベル
が違うようです。
確かに昏睡状態に入る前のアニータさんの
身体は末期癌に侵されていて、身体は苦痛
にまみれ、夫や母の苦しむ姿を見るだけ
だったので、戻りたくない気持ちはよく
わかりますが、ここで絶対意識領域なら
ではの感覚が、アニータさんに訪れます。
なんと異なる時間軸の未来が同時に見えた
という事です。

「このあと起こったことを説明するのは、
非常に困難です。
第一に、私が意識を向けたものは何でも、
自分の目の前に現れるような気がしました。
第二に、時間はまったく問題となりません
でした。時間はまるで存在していないかの
ようで、それについて考慮する必要さえ
なかったのです。
 このことが起こる前に、医師は私の臓器の
機能を検査して、すでに報告書を書いて
いました。でも向こう側の世界では、その
結果と報告書の内容は、これから私が
しなければならない決断、つまり生きるか、
このまま死へ向かうかという決断次第だった
のです。
私が死を選択すれば、検査結果には臓器不全
と書かれ、もし身体に戻る選択をすれば、
臓器が再び機能し始めたと記される
でしょう。」

このアニータさんのいう向こう側の世界と
いうのは、自分がいる絶対意識領域の事
で、なんとそこからは、二つの異なる
未来が同時に見えたという事のようです。

「その瞬間私は、「もう戻りたくない」と
決意しました。そして、自分の身体が
死んでいくのを感じ、臓器機能不全に
よる死だと医師が家族に説明している場面
を目にしました。
 同時に、父が私にこう告げました。
「アニータ、おまえが来れるのはここまで
だ。これ以上進んだら、戻れないんだよ」
 物理的な境界ではありませんでしたが、
自分の前に、エネルギーレベルの違いに
よつて区分された、見えない境界がある
のがわかりました。もしそこを渡れば、
もう二度と戻れないのです。身体との
つながりは、永久に切断されてしまい、
私が目にしたように、家族は、悪性
リンパ種による機能不全で亡くなったと
医師から告げられるでしょう。
 無条件の愛と、自分が受け入れられた
感覚はすばらしいものでした。
私は永遠にその状態にいたかったので
、境界線を越えようと思いました。
そこには痛みも、苦しみも、ドラマも、
エゴも存在せず、私はあらゆる生きものと
創造物の純粋な本質に包まれていました。
まさしくすべてが一つであると感じて
いたのです。」

“出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”』

アニータさんの奇跡の回復の軌跡その1
    臨死状態から戻るまで

つまりアニータさんは、解脱の認識を
得ながら、自分の未来つまり
肉体に戻った場合と戻らなかった
場合の二つの別々のタイムラインを
選択できる状態にあり、自分の
意志で肉体に戻ってきたのです。

半分強制的に肉体に引き戻された
エベンさんとは全く違いますね。

そしていったんは肉体に戻らない
選択をしたアニータさんが、結局
肉体に戻る決意に気持ちを変えた
きっかけはなんだったのか、
その答えがこちらです。


「死の方へ歩き続けると決心した瞬間、
私は新しいレベルの真実に気がつき
ました。
自分が本当は誰かに気づき、本当の自分
のすばらしさを理解したので、もし身体
に戻る選択をすれば、病気は急速に治癒
するだろうとわかったのです。それも
何週間や何ヶ月かけてとかではなく、
わすが二、三日のうちにです。もし身体
に戻ったら、医師は癌の痕跡すらも
見つけられないでしょう。」』

これまでご紹介してきた臨死体験の事例
の中でもアニータさんの病気は、最も
深刻な状態で末期癌で、治療のおかげで、
内臓も何もかもがボロボロの状態だったの
です。
もちろん西洋医学では絶対に回復不可能で
アニータさんは、約6週間ほど前、夫を
通じて医師から死を宣告されていたの
です。
「長く持って3ヶ月」だという事なの
ですが、アニータさんがこの臨死状態に
なるのはもっと早くその半分の期間しか
もたなかったという事です。
ですが、アニータさんは、この自分の気づき
があれば、この致命的な末期癌も急速に
治癒するとわかったという事なのです。
なんと自分が宇宙自身であれば、生命力を
取り戻す事も当然可能だと知ったという事
ですね。回復するにしても二、三日で?
しかも癌の痕跡すら見つけられない?

『「一体どうやって」この意外な事実に驚き
、その理由を知りたいと思いました。
その時、身体は自分の内側の状態を反映
したものにすぎないと悟りました。
もし内なる自己が、その偉大さと大いなる
ものとのつながりに気づけば、私の身体
は、すぐにそのことを反映し、病気は急速
に治るでしょう。」   』
“『』内
出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

この場合の内側というのは表現の仕方が
アニータさんの原本とニュアンスが違い
ます。私は原著の方ももっているので、
その内側は「インターナルステイト」
(internal state)
つまり身体の内側ではなく精神的な
内面の世界だという事です。
五感を基準にした私たちの感覚で理解
しようとすると、このような表現に
対して、身体の内側という錯覚を起こし
がちですが、物理的な意味での内側
ではないという事です。

要するに解脱をしたアニータさんの
意識は、自身が全知万能のワンネスと
一体だという事を理解していたので
その万能の意識とともに肉体に戻れ
たら、癌もたちどころに消滅して
いくと自覚できたというのです。

それほど解脱というのは、我々に
とって価値があるという事ですね。

もし解脱をしたら、あらゆる時空を
自在に体験したり、思うままの
「生」を体験する事もできる
でしょう。
解脱してワンネスの意識になった
からといって、じっとしていなければ
ならないという事は全くないのです。

アニータさんは、その解脱の意識を
保持したまま肉体に戻る選択を
しました。

解脱とは、つまり「自分を制約して
いるあらゆるものからの解放であり
無制限の自分とは、全知・万能で
全存在でもあるワンネスそのもの
だという事なのです。

さてアニータさんとエベンさんの
認識の違いが、解脱できるか
どうかの違いに反映されている
事をわかっていただけた
でしょうか?

つまり自分がちっぽけな存在で
畏怖するべき存在が、自分とは
別のものであるというエベン
さんのような認識では、解脱
できず、アニータさんのように
自分は、すでに無制限の存在で
神というようなもののあり方
が自分自身であると理解し、
全てと一体であるワンネスの
境地になれば、それは解脱
できたという事になる
わけです。

さてチベット死者の書に戻り
ますと、やはり解脱とは
全てが自分の投影でしか
ないと悟る事だと教えてます。

こちらです。

「汝がこれらの五仏の叡知自体の
現れを自分の姿にほかならない
と覚った
(さとった)のであるならば、
報身を得て仏となる事ができる
であろうが、そのように悟る事が
できないと解脱できない」
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

つまり全知を司る五仏の叡知が
自分の投影だと知るという事は
自分が全知・万能のワンネス
だと自覚する事であり、それが
解脱の唯一無二の条件だと
教えてるわけです。

この事を聴覚が死後も働く
死者に対して、
毎日のように教えて
聴かせるので、
死者によっては
そのまま解脱できる人も
いると思います。

ただちっぽけな自分を意識させる
毎日の後半の教えは、むしろ
必要ないとも思います。

それがこちらですね。

『五仏それぞれの男女両尊(ヤブユム)
に心を集中して、以下のように
祈願の言葉を唱えるべきである。

《ああ、激しい五つの悪徳(五毒)
のために私が輪廻し彷徨っている
時に、〈四つの知恵が合わさった
明るい光の満ち〉へと、勝れた
御方であり、尊い御方である五仏
がお導きくださいますように。
最高の女尊であるダーキニー
(明妃・みょうひ)が背後から
支えてくださり、不純な六道の
薄明かりの道を脱することが
できますようにお祈りします。
恐ろしいバルドゥの難関を
越えさせてくださり、五仏の
最高で純粋な仏の世界にお連れ
くださいますようにお願い
申し上げます》
とこの祈願の言葉を唱えることに
よって、能力の優れた人は、
これらの幻影が自分自身の現れに
ほかならないと覚り、これらと
不二一体に溶け入って、仏と
なることができるのである。』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

たぶんこのように毎日の教えの
後半に、「ちっぽけな自分」
としての祈願を唱えさせれば
どうしても、自分自身の投影が
祈願している対象の崇める
べき対象の五仏だとは認識
できないと思うのです。

なので、悟れる人は、その祈願を
する前に、ワンネスとしての
自分に気付き、解脱できるので
その後の祈願を唱える必要は
ないという事です。

このあたり、チベット死者の書は
真理の重要なヒントを与えて
くれるすぐれた経典でありながら
宗教の信仰的性質にひそむ
弱点も内包しているものだと
いう結論になります。

私は信仰しているわけではないので
チベット死者の書から読み取れる
真理をどんどん拾い上げていこうと
思うわけです。

最後に再三繰り返される解脱への
ヒントで、どなたでもわかりやすい
死者の書の教えを、引用して
おきます。
ちなみに仏になるとは、解脱できる
という事です。

「現象の世界のすべてのものが
光明と仏の身体をもつて現れて
いる。すべての幻影が光明と仏
の身体をもって洗われている。
これを汝自身の意識のみずからの
輝きであると覚るべきである

みずからの輝きがみずからの
光明や身体と一体に溶け入った
時に、汝は仏となることができる
のである。」
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

つまり現象の世界の全ても
幻影の世界の全ても、自分
自身の投影であり、それを
認識する事こそが、解脱に
つながると説いているわけです。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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神秘体験を科学する3過去生では第三者からの視点も別の場所からの視点も得られる!


この記事は
神秘体験を科学する2過去生で全くの別人に
なったのが自分だとわかる!

の続編です。

では今回も引き続き、
レイモンド・ムーディー氏の著書
からの引用です。

「」内が引用で、~が中略です。

「特徴6
 過去世の光景は自分の両目からのもの
と、第三者的視点の両方になる。

 過去世へ退行中の者は、自分の両目から
見た光景、および第三者的視点からの
光景の両方を経験している。
第三者的視点からの場合、被験者は、
あたかも肉体から離脱した魂がその場面を
見るときのように、自分のいる光景を
別の視点から見ることになる。
 たとえば、ある女子学生が語ってくれた
退行経験によれば、彼女はかつて19世紀
初頭のヨーロッパにおいて男性であり、
馬車の御者をしていた。その過去世へ
退行中、彼女は自分の肉体の目に見える
光景、すなわち御者席に座る自分から
見える馬車の進む道や、馬車の前部などを
見ていた。彼女は馬のおしりや足を見、
また前から来る風などを感じていた。
 しかしそのとき事故があり、馬車は転倒
してしまった。そのとき突然彼女は、光景
を上からながめている自分に気がついたの
である。彼女の下には、めちゃくちゃに
なった馬車馬と、大ケガを負って動かない
自分の体が見えた。
 また別の被験者は、退行経験をこう
語っている。

 「ルネッサンス時代のような服装をした
男が、道にそって歩いている光景が私に
見えました。そのとき気づいたのは、
その光景を自分の視点から見るだけでなく
、上からながめたり、あるいはその男の
視点から見ることさえできたことです。
私は、自分の視点を切り替えることがで
きました。ちょうどテレビ番組を見ている
とき、カメラが切り替えられて視点が
変わるときのようでした。」 」

この第三者的視点は、ムーディー氏の
退行催眠の時にも度々体験されている
ので、過去世体験において一般的な
能力だと思われます。が、これは
臨死体験者にも共通している能力で
やはり肉体を離れた状態でも視覚は
存在するという事も証明しています。
そもそも過去世の自分の目といっても、
現在の催眠を受けている本人の目は
閉じているのだから、自分の肉体の
目を使ってみているのではありません。
あくまでも過去世の自分の意識としての
視覚だという事です。
後の人は、視点を自由に切り替える事
ができたという事ですが、これも一部の
臨死体験者に見られる能力です。
臨死体験者の場合は、まわりの人の心
とも一体になって、その思考や感情も
読み取る事ができたというケースもあり
ます。
全ては、意識レベルの問題だという事
です。
意識レベルが高ければ、より自在な能力
を発揮できるという事なのです。

「特徴7
退行経験はときに現世の問題を反映する

私が扱った退行実験において、そこに現れた
過去世の出来事や状況は、ほとんどの場合、
被験者の現世におけるジレンマや苦悩に
かかわるようなものだった。
それは通常明らかに見てとれた。
 たとえば被験者のある男性は、現世に
おいて年上のガールフレンドがいたが、
威圧的・支配的態度により、いつもストレス
をかかえていた。彼はどうしようもない状況
だと悩んでいた。催眠の中で彼は、古代中東
のある街で自分が女性だった時代に退行
した。

「私はとても美しい王宮の、ある建物の中に
いました。奴隷たちが出入りし、着飾った
女性たちの世話をしていました。
私は着飾った女性たちの一人でした。
私たちは妾として養われ、誰かに仕えるため
にそこにいたのです。たぶんスルタン
(イスラムの権力者)のためでしょう。
その身分にあることで、きわめて快適な
生活が保証されていました。物質的に
は何不自由ない生活です。しかしその一方、
自由は全くなく、その面では地獄のような
生活でもありました」

 彼のこの退行経験は私の胸を打った。
彼はその過去世で、隷属的な一女性だった
という。私は疑問に思ったが、その後も
彼に退行催眠をかけていくと、理由が
わかった。彼の思いの中では、すべての
女性は隷属的立場にあるのである。だから
現在のガールフレンドが彼に威圧的態度を
とったとき、彼は自分を女性のように
感じたのだ。
 このように、過去世での経験が現世
の状況にかかわっていることは、
きわめて明らかだった。しかしこの
かかわりは、はたで見ている療法士
にはたとえ明らかであっても、当人に
とっては必ずしもそうではない。
これは意外ではない。私たち人間は
往々にして、現在の悩みを無意識の
領域に追いやり、考えないようにする
からだ。
 被験者によっては、現在の状況と
過去世の間に、一見して類似点が見られ
ない場合もある。しかしそれでも、
催眠状態から覚めると彼らは、退行中に
経験した過去世が現世での精神的問題に
非常に関係しているという観念を表明
する。
~このことから、現在の人生の問題は、
過去世で未解決だった心の問題に起因
するのではないか、という考えを持つ
人もいるだろう。退行経験の中に、
現世の問題が色濃く反映される。
それゆえ、退行経験によって現世の
心の問題の解決が可能であるという
のが、過去世療法(前世療法)の
考え方である。療法士は、退行経験を
見極めて問題を探り、解決の道を探る。」
“以上「」内全て
出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

レイモンド・ムーディー氏は、医学・
哲学博士であり、精神科医でもある
ので、患者の心の病の解決になるこの
前世療法というのは、とても有効に
活用されるようになったようです。
そのおかげで、多くの患者の生の声を
聞き、過去世体験というものが、
どんなものかを我々に伝えてくれて
いるというわけですね。
魂が、時間の流れに従って存在して
いる側面もあることから、解決され
ない精神的な問題を抱えたまま、人生
を繰り返す場合があるという事も
わかってきました。そしてこの過去世
療法などは、それらの輪廻転生に
付随の問題そのものを解決してくれる
事が多いという事ですね。
これだったら、誰しも気づいている
かいないかに関わらず誰にでもあて
はまる問題なのではないかとも思い
ます。しかし残念ながら、日本では
メジャーな精神的治療法ではないよう
ですね。もちろん情報の制限による
事が明らかですし、危険な精神病
関連の薬物治療が、精神科の医者に義務
づけられているからでもあるでしょう。
これは、調べればすぐにわかってくる
ことですが、精神病治療薬というのは、
多くの場合、余計に精神を破壊したり、
脳の機能を破壊したり、半身不随など
の絶望的な結末につながる事が、
よくあるので気をつけられた方がいいと
思いますね。
精神病は、むしろストレスの多い状況
から離れるようにするなどの自然療法
やまわりの家人や友人などの愛情や
思いやりが何よりのクスリになるという
事です。それとやはり、このような
過去世治療ができれば、それに越した
ことはないというわけです。
また、右脳開発や、瞑想やヨガなどの
潜在意識の能力開発も当然有効になって
くるということですね。
また過去世の精神的問題が、現在の
人生のそれと共通しているという事は
別の見方もできます。時間の流れに従う
だけの意識という側面だけではない、
無限の我々の意識は、現世での精神的
問題が、退行催眠中に、「同時に存在
している過去世の誰かの人生に転移
される」という事です。つまり過去の
時間はまだ、現在も存在していると
いうのが、パラレルワールドの真実
の世界でもあるので、自分の問題が、過去
の別の人生と同調する場合もあるという事
なのです。
実際パラレルワールドの無限の平行に
存在するタイムラインを、感知できた、
絶対意識レベルでのアニータ・ムーアジャニ
さんは、その考え方を支持しているの
です。
ただ、私はどちらの見方も正しいと思い
ます。私たちは、時間に対しての一方通行
的な流れという感覚の呪縛を抱いたまま、
何度も人生を転生しているというのも
また事実だと思えるからです。
つまり退行催眠で、どういった意識レベル
になったかで、経験のレベルにも差が
できるという事ですね。

いつもありがとうございます(*^_^*)

人間の真の偉大な力編

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チベット死者の書から読み取れる真理の共通点その3「悟りとは二元論的世界からの脱却だった!」


この記事は
チベット死者の書から読み取れる
真理の共通点その2
「解脱とは輪廻転生のマトリックスからの解放
そしてその鍵とは?」

の続編です。

この死者の書の最初の二週間ほどを
占めるチョエニバルドゥ
(存在本来の姿の中有)での
死者への解脱の導きは、同じ様な
パターンで繰り返されます。

最初の一週間で、前回のような
寂静尊が48体現れます。
そして次の二週間で、恐ろしい
形相をした忿怒尊が52体
現れるのです。

では寂静尊の現れる
一日目から六日目までの
パターンを説明しておきます。

光の種類について

一日目
識蘊(しきうん・意識の集まり)と
空の元素からできている紺青色の
強烈な光と微弱な天上界の
白色の光。

(要するに強烈な光と一体になる
べきで、天上界の微弱な白色の光の
方へ吸い寄せられてはならない
という事です。
天上界なら良いじゃないかと
思われるかも知れませんが、
こちら死者の書の世界観では
仏のいる極楽浄土より格下で
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・
人・天の六道の輪廻の一つと
されています。
つまり天上界であっても六道の
輪廻転生の罠にかかった状態
だというわけです。

もちろん天界や人間界はそれほど
ひどい世界ではありませんが、
それらの世界に生きている間に
学ばす・感謝も忘れて生涯を
終えると低いレベルの六道に
生まれ変わるようになるという
事です。)

二日目
色蘊(しきうん・物質的要素の
集まり)と水の元素からできている
根底から清浄な白色の直視できない
ほどの光と地獄の微弱な煙色の
薄明り。

(仏教界では物質は色と表現
されますが、まさに的確で、実は
我々が物質を認識するのは、視覚
によるところが大きく、視覚は
色覚領域の光の波長の範囲内のみで
働くので、色の事を物質という
ように表現しても的確というわけ
です。ここでも直視できないほどの
白色の光と一体となるべきで、
微弱な地獄の光に吸い寄せられて
はならないと教えられます。
しかし天上界から次は人間界の光
の誘いかと思いきや、いきなり
地獄界の光が誘いに来るのは
怖いところですね。
三日目は前回取り上げましたが
比較のためにまとめておきます。)

三日目
受蘊(じゅうん・感受作用の集まり)
と地の元素からできている
根底から清浄な黄色の直視できない
ほどの光明と人間界の青色の微弱な
薄明かり。

(毎回について思うのですが、
一日目から天上界、翌日の地獄界
そして三日目の人間界、それぞれ
の光に執着して、そこで転生の
コースへ行ってしまったら、
ラマ僧の死者の書の読経は、終わる
のだと思いきや、そうではなく
ずっと続けられるのかも
知れません。たとえ六道の輪廻の
コースに行っても、解脱して
いなければ、何度もチャンスが
与えられるという事なのだとも
思えます。

しかし解脱した日があれば、
突然その日を持って読経が終わる
のでなければ、チャンスを与える
ための読経は必要ないはずです。
そこのところは、詳しく資料が
欲しいところですね。

まあそもそも順番通りに光と
尊体が現れるというのは、
自分としてイメージしにくい
ものです。

ただチベットの人々が何世代もの
間信仰してきた死後の世界観の
想念界が形成されているなら、
そういう順番の現れ方を、本人
の内側でイメージで実現させる
かも知れないとは思います。

そしてこれは別の記事でも書こう
とは思いますが、死者の意識が
まだ本人の亡骸と通じる場に
存在しているのなら、ラマ僧が
イメージする世界を死者の意識と
共有する事は可能なのだと
思います。

これは以前取り上げた催眠術の
記事を読んでいただいていた方には
ご理解いただけるかもしれません。

催眠術とは意識をジャック(乗っ取り)して
一体化するという事だった!

四日目
想蘊(そううん・表層作用の集まり)
と火の元素からできている、根底
から清浄な赤い色の直視できない
ほどの光明と餓鬼界の微弱な黄色
の光

五日目
行蘊(ぎょううん・形成作用の
集まり)と風の元素からできている
根底から清浄な直視できないほどの
緑色の光と阿修羅界の微弱な赤色の
光。

これらの光の種類を私たちは、
覚えておく必要がないのですが、
パターン化されたものを俯瞰する
事で理解を深めていただけると
まとめてみました。

基本的に直視できない光と一体化
すれば良いという事なのですが、
生前の習癖をつくる力
(マトリックスのボディマインド
と同意)の作用により、直視でき
ないほどの光の方を恐れて、六道の
薄明かりの方に執着してしまう人が
大半だという事なのです。

一日目の紺青色の強烈な光の
対しては、悪いカルマン(業)の
力に影響されて、恐れを抱き
逃げ出す
。そして天上界の微弱な
白色の光に執着するだろうが
執着して天上界に転生しては
ならないという。

(天上界なら良いのではないか
と思われるでしょうが、どうやら
天上界に転生すると、次は
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・
人・天の六道に輪廻する事に
なるのでだめだという事らしい
です。
ここで疑問なのですが、人間
として転生してきて、今
解脱のチャンスがあるなら、
当然天上界の生を終えても
そのチャンスがあるはずだと
思います。
もちろん天上界で、新たな
カルマを加えたら、六道の
コースへいく可能性も高まる
とは思いますが、少し矛盾点を
感じるところではありますね。

とにかくカルマを生前に
少なくとも軽減させていないと
その六道への転生のコースに
いきがちになるという事です。

このカルマというのも、
ボディマインド(習癖を作る力)の
一種で前世や過去生が関わっている
ものですが、当然解消可能な
わけです。
良い行いで報いるというよりは
ワンネスの真実に気付いたり、
真実について悟る方が、
そのカルマを解消しやすい
という事ですね。
というのも解脱を妨げるここでの
マインド(習癖を作る力)は
「無知」という事だからです。
知とは、学校で習うような
支配層に都合の良い歪んだ
知識ではなく、本物の知識、
真理や真実についての智の事を
いいます。
なので本来の意味での知識や
知恵というものは、カルマを
解消するのに、非常に有効
だという事です。

カルマを変えられないもの
などという、占術に誘導されると
余計に悟りの解脱から遠ざかる
だけなので注意が必要です。)

二日目の根底から清浄な、直視
できないほどの白色の光に
対しては、「怒り」のために
恐れを抱き逃げだし、
地獄の怖じ気づかせないほどの
微弱な薄明かりの方に近づく
だろうが、執着して地獄界に
転生してはならないという。

(当然地獄界なので、微弱
な薄明かりに執着したくは
ないですよね。でも
怒りのマインドつまり
習癖を作る力を捨て去ら
なければ、執着してしまいがち
になるという事です。

仏教の怒りについての説明👇


イライラしたり、カッとなったり、
むかついたりする怒りの心を、
仏教では「瞋恚しんい」と
いわれます。
全部で108ある煩悩の中でも
最も恐ろしい、欲、怒り、愚痴の
三毒の一つです。

これは、怒りの罪は最も深く、
三毒の中で、怒り以上に
重いものはない、ということです。
三毒の中でも最も恐ろしいという
ことは、煩悩で一番恐ろしいとまで
いわれているのです。』
“出典:日本仏教学院

怒りというマインドは、
私も自覚が、ありすぎる
くらいなので、
つらいところです。
ただ怒りの種類においては、
当然罪深さも変わるし、相手の
事を思ってとかだと、罪も
軽減されるでしょうね。
こういう時怒りは怒りという
言い方で、なんでも一緒と
言う人もいますが、それは全然
違います。
プライドを傷つけられた怒り、
自分の行動を邪魔されたときの
怒り、思い通りにいかない時の
怒り、理不尽だと思うものに
対する怒り、また持続的な怒りや
一時的な怒り、憎しみに変わる
ような怒りや、怒りが変じて
愛しさや情に変わる場合など、
まさに感情も千差万別です。
そうそう怒りという感情は
変化するものという理解も
悟りの一つだと思います。
要するに肉体のあるうちは、完全
に消し去るのは、困難でも
悟っていれば、ふだんから
気をつけるようになるし、死後
解脱するチャンスにも恵まれる
という事です。

ただまあ最も罪深いというなら、
できるだけ怒りのエネルギーを
出さないようにしていきたいもの
ですね。)

三日目の根底から清浄な黄色の
光に対しては、おごり(慢心)
のために怖じ気づき逃げだし、
人間界の怖じ気づかせないほどの
青色の微弱な光に執着しがちだが、
近づいてはならないという。

(おごり・慢心というのも
自覚しにくいものですが、
仏教の三毒に入ってなくても、
死者の書では、解脱を妨げて
しまう大きな要素の一つだと
いう事です。
おごり・慢心もつまりボディ
マインドの一種で、習癖を作る
力だという事です。

感謝を忘れて、謙虚な気持ちも
忘れていると、確かに慢心という
毒マインドを蓄積してしまうので
感謝と謙虚というのは、そういう
マインドを解消するのに役立つと
思います。)

四日目の根底から清浄な赤色の
光に対しては、激しい貪欲
(むさぼり)のために恐れ
逃げ出し、餓鬼界の怖じ
気づかせないほどの
微弱な黄色の光に執着しがちだが
近づいてはならないという。

(貪欲は三毒と呼ばれる煩悩
の一つなので罪は非常に大きい
という事です。

欲なんてものは、対象が広すぎて
さほど罪とも思えないような欲
から、罪深い欲までこれこそ
千差万別で、まさに人間そのもの
といって良い煩悩なので、
消し去るのは容易ではない
ですが、絶対意識で解脱できた
アニータさんなどは、生きている
間の欲は、むしろ称賛されるべき
もので、抑えるべきものでは
ないと言ってます。
もちろんその欲のために他人
から奪ったり、まわりに
迷惑をかけないというのは
大前提なのは間違いないですし、
コントロールできる事を前提と
しています。

またこの貪欲のマインド
(習癖をつくる力)が強ければ、
この餓鬼界の微弱な黄色の光は、
その貪欲でできているらしく、
引き寄せられるのだという。
なるほど、それなら確かに
引き寄せられる人は多くなる
でしょうね。

という事は、これまでの
微弱な光は、みんなマインドの
毒でできているという事
でしょう。

無知・怒り・慢心・貪欲
そしてこの後出てくる嫉妬
(ねたみ)などは、生きている
間にコントロールできるように
しておいた方が良いもののよう
です。)

五日目の根底から清浄な緑色
の光に対しては、激しい嫉妬
(そねみ)のために怖じ気づき
逃げだし、阿修羅界の
怖じ気づかせないほどの微弱な
赤色の方に執着しがちだが、
近づいてはならない。

(三毒のうちの一つ愚痴が
出てこずに、
嫉妬が出てくるわけですが、
むしろ愚痴より嫉妬の方が罪
深い気がします。

嫉妬も千差万別ですが、特に
恋愛・愛憎関係の嫉妬心は、
強烈なレベルに育つ場合が
あるので、この煩悩はなんとか
コントロールできるように
ならないと、解脱は相当困難
だと思います。)

これまで観てきたように、解脱
のために一体化するべき直視
できないほどの強烈な光の数々
に対して、マインド(習癖を作る
力)が強すぎると逃げ出して
しまい、そのマインドでできた
薄明かりの方に引き寄せられて
六道の輪廻に陥ってしまい、
解脱する事ができなくなる
という事です。

ただ解脱のためのチャンスは
まだまだ与えられていて、
とうとう寂静尊出現の六日目
には、寂静尊の中心の五仏が
それぞれの女尊や従属する神々
と強烈な光を伴って、一斉に
現れるというのです。
しかしまた地獄・餓鬼・畜生
阿修羅・人・天の六道の
薄明かりも同時に出現します。
これまでの五日間では
畜生界の光はまだ出て来ません
でしたが、この六日目には
これまでの五つの薄明かりの光と
ともに出現するようです。
ただしややこしい事に畜生界の
薄明かりの光は、この後
の七日目に再登場するよう
です。

さて六日目は解脱のための詳しい
導きもなされるのでそれを
抜粋しながら引用してみます。
五日目までの導きを受けてからの
言葉として始まります。


六日目

このように多数の段階において
導きを受けると、生前の善い行い
の報い(果報)がいかに弱く
少ないものであっても、たとえ
一つのお導きによって解脱に到達
できなくても、また次のお導きを
受けることができる。
そこで最後に到達できないことは
ないのである。
(とはいっても、人の数だけ
輪廻の罠にはまっているという
事なら、解脱できない人は、
とてつもない割合になるはず
ですよね。まあラマ僧の
お導きを受けられなかった人が
世界中に無数にいるからという
事もあるでしょうが。たぶん
世界中の人々の中には、ラマ僧
の導きがなくても解脱できた
人も、これまた無数にいると
思います。)

しかしこのように何回もお導きを
受けても、非常にたくさんの
習癖を作る力(習気・じっけ
ヴァーサナー)に長年の間
結びついていたために純粋な五つ
の知恵(五智)に慣れ親しむ
ことができなかった結果、
悪い習癖を作る力によって
逆戻りさせられてしまう者がいる。

(ここで注目していただきたいのは
習癖を作る力(ボディマインド)
に長年結びついていても、囚われて
いたとしても、五智に慣れ親しんで
おけば、解脱のコースへ行ける
という意味にも取れますね。
五智とは、本来の意味での真理
に対する知恵で、当ブログで
扱っているものです。)

お導きを受けても慈悲の光明の
鉤針にかからずに、光明を
恐れておびえの気持ちを
起こしてさらに下方へと輪廻を
続ける者がいる。

そして六日目には、五仏がそれぞれ
女尊や従属する神々(眷属)を
伴って一斉に現れでてくる。
この時に地獄・餓鬼・畜生・阿修羅
・人・天の六道の六つの薄明かりも
同時に現れるであろう。
 
この時のお導きは、死者の名を呼んだ
あとで以下のように告げる

ああ、善い人よ心を惑わされること
なく聴くが良い。汝には昨日までに
五仏のそれぞれの現出があって、
お導きがなされた。しかし汝は
悪い習癖を作る力のために、
これに対して恐れとおぴえの気持ち
を起こして、今日にいたるまで解脱
できずに残っているのである。

 汝がこれらの五仏の叡知自体の現れを
自分の姿にほかならないと覚った
(さとった)のであるならば、五仏は
それぞれの時に汝の身体に虹の光と
なって溶け入り、汝はサムボーガ・
カーヤ(報身・ほうじん)を得て
仏となったであろう。
しかし汝はそのように覚ることが
なかったので、今日にいたるまで
ここに彷徨を続けているのである。

(さてここに全ての答えがあります、
五仏の強烈な光の叡知の現れを
自分の姿に他ならないと悟るならば
解脱できるし、その悟りがないならば
たとえその後祈りを捧げても彷徨
を続ける事になると言っているのに
等しいのです。
答えがそうならば、なぜ、悟れない者
のために、五仏などに祈願するように
伝えるのでしようか。
一つには、どうしても転生してしまう
のなら、この死者の書の導きを
魂に刷り込んで生まれ来る事が
できて、信仰心の篤い信者になる事が
可能になるからではないかと
思うのです。つまり信者が増える事で
人々が悟りやすい社会を形成する
事ができるという事につながる
というわけです。
どうしてそのように思うかというと
悟りを得るには、ワンネスとしての
自覚が何より大事であると今回も
含めて再三説いておきながら、
他者それも自分よりも絶対的に
優れた仏という絶対的他者に対する
意識を持って祈る事は、むしろ
自分自身から仏が投影されるという
ワンネスの悟りから
意識を遠ざけるだけだから
なのです。
つまりこの事が今回のテーマなので
しっかりと留意していただきたいと
思うわけです。)

今こそ、心を惑わされることなく
見るべきである。
今こそ、五仏すべてが一斉に完成
された姿をとって現れるであろう。
四つの知恵(四智・しち)全てが
一緒になった姿をとって現れる
であろう。
これらすべてが同時に汝に会いに
やってくるであろう。
その事を覚る(さとる)べきである。

(ここで中央・東方・南方・西方
・北方の五方向の仏国土から、五仏
と彼らを取り囲む神々とともに
現れ、また六道のそれぞれの仏尊体
も現れるのですが、その描写は
省略させていただきます。
そもそもこのチベットの死者の書
の世界観そのものは、仏教系の
古派密教のものなので、信者や
その信仰されている土地以外の
人々にとって、絶対的に必要な
ものではないと思われるから
です。
何しろ全て自分自身からの投影
なのだから、解脱するために一体
となるべき存在は、単なる光
でも、仏尊体でも、神でも叡知
そのものであってもかまわない
わけです。
ただし、死者の書には真理を
読み解くヒントが、あらゆる
箇所に見受けられるので、それを
取り上げていってるという
わけです。)

ああ善い人よ、これらの仏の
世界(仏国土)は何か特別のもの
として別に存在しているのでは
ない。
これらの仏の世界は、汝自身の
心臓の四方と中央との合わせて
五方向に存在しているものなの
である。

(当ブログでも、心臓こそが、
高次元のゲートの中心であり
生命エネルギーのセンター
である事。
そしてまたハートチャクラが、全ての
チャクラの中心であるという事を
再三に渡って説明してきましたが、
この死者の書によってもそれが
真実であると裏付けられています。

生命エネルギーのセンター心臓は、
次元間のゲートのハートチャクラだった!

また五方向や五仏や五元素、
五毒など五という数字で
完全な世界観を説明する
死者の書は、次元間のゲート
の役割を持つ五芒星形と
それに内蔵される黄金比の
真理に通じているものだとも
思われます。

宇宙と自然の神秘を解く秘密は
黄金比にあった!支配からの解放へ!

汝の心臓の中からいま、外に
出てきて汝の目の前に現れて
いるものなのである。
またこれらの仏の身体も何か
特別のものから現れたものでは
ない。
汝自身の意識の自然で自由な
働きによって作り上げられた
ものである。
そのようなものであると覚る
べきである。

(ここでもワンネスの世界観
を解脱へのヒントとして説明
しています。
またこの後、五仏の心臓から
四智の合わさった、清く
澄みきった光が、死者の心臓
めがけて差し込んでくる描写
がありますが、それも省略
します。)

ああ、善い人よ、これらもまた
汝自身の意識の自然で自由な
働きから現れたものなので
ある。
何か別の特別なものから生じた
のではない。これらに執着しては
ならない。また、恐れては
ならない。
区別をしない無分別の状態に
放置すべきである。
その状態において、すべての
仏の身体と光明が汝自身に
溶け入り汝は仏となるであろう。

(これもまた、ワンネスの境地
つまり全てのもの・世界とその
全ての構成物は自分自身の投影
であるという事を悟らせる説明
で、これを理解する事によって
悟りを得て解脱できるという
わけです。

ここでやめておけば良いのに
と思うのですが、
このあと、人を欺く六道の
薄明かりの現出の描写を
説明して、それに執着すると
六道の境遇に身体を得て
再生してしまうと脅かす
わけです。

そうならないために、つまり
不純な輪廻の薄明かりに執着
しないために、五仏の叡知の
光に祈願するように、説くの
です。

私からすると絶対的な他者に
祈るという行為自体が、悟り
から遠ざかる要因なのに
どうしても、最後は祈願する
ように導くのです。)

《尊い御方である五如来(五仏)の
慈悲の叡知の光が、私を慈悲で
包み込むためにお越しになった
のである。帰依申し上げます》
という敬慕の気持ちを寄せる
べきである。

(このように自分より絶対的に
上の存在であるように五仏を意識
させる事自体が、ワンネスの認識
から遠ざかる原因になっていると
思うわけです。)

人をたぶらかす六道の薄明かりに
執着したり、貪り求めたりしては
ならない。
五仏それぞれの男女両尊(ヤブユム)
に心を集中して、以下のように
祈願の言葉を唱えるべきである。

《ああ、激しい五つの悪徳(五毒)
のために私が輪廻し彷徨っている
時に、〈四つの知恵が合わさった
明るい光の満ち〉へと、勝れた
御方であり、尊い御方である五仏
がお導きくださいますように。
最高の女尊であるダーキニー
(明妃・みょうひ)が背後から
支えてくださり、不純な六道の
薄明かりの道を脱することが
できますようにお祈りします。
恐ろしいバルドゥの難関を
越えさせてくださり、五仏の
最高で純粋な仏の世界にお連れ
くださいますようにお願い
申し上げます》
とこの祈願の言葉を唱えることに
よって、能力の優れた人は、
これらの幻影が自分自身の現れに
ほかならないと覚り、これらと
不二一体に溶け入って、仏と
なることができるのである。

(たぶん悟れる人は、祈願の
言葉を唱える前に、解脱して
いると思いますし、他者を
意識させるような祈願をしようと
しないと捉える方が自然だと
思います。)

普通の能力の人たちは、ひたすら
一心不乱に祈ることによって、
自分自身の本体を覚って解脱を
達成することができる。
能力の劣った人でも浄化の祈願
にすがることによって六道に
生まれる門を塞ぐことができる。
そして〈四つの知恵の合わさった
光の道〉の内容をよく理解し
〈ヴァジュラサットヴァ
(金剛薩埵・こんごうさった)の
秘密の道〉を通って仏となることが
できる。

(最後の祈願によっても解脱
できない人についても説いて
ます。)

能力の劣悪な人の中でも特に
とりわけて劣った人や、人の世に
生まれたのに仏教の教えの影響力
が及ぶ事がなかった罪人および
誓いを守る意志の弱い人などは、
カルマン(業)によって惑乱
されてしまって、お導きを
受けてもそれで覚ることが
できずにさらに下方へと
彷徨い続けるであろう。』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

さて結局このあともずっと何日も
何日も似たパターンでお導きが
されるのですが、なぜ何度も
続くのかというのが大きな疑問
です。

それは最後に絶対的な他者である
仏尊体に祈るなどのパターンが
同じだから、悟れないで解脱
できずに終わるからだと思うの
です。

最初の方で次のように
解脱のヒントがあったのです。
「汝がこれらの五仏の叡知自体の現れを
自分の姿にほかならないと覚った
(さとった)のであるならば、
報身を得て仏となる事ができる
であろうが、そのように悟る事が
できないと解脱できない」
とはっきり言ってますよね。
なのに最後に自分とは別の者に
対するように仏尊体に祈願する
というのでは、ワンネスの悟り
から自分を遠ざけるだけだと思う
わけです。

そのように絶対的他者として
強烈な光を認識したために、
その光と一体化できなかった
好例がありました。

それはエベンさんの詳細で長い
臨死体験にありましたので
再掲します。

エベンさんの臨死体験には
仏の代わりに天使が出て
きますが、やはり光に遭遇
します。
そしてやはりその光を自分の
投影とは感じられなかったので
悟りを得る事はできなかった
わけです。
ところが、臨死体験中に悟れて
解脱できて、絶対意識状態に
なれたアニータさんは、そういう
絶対的な存在を他者とは思わず、
自分自身なんだと理解できている
という解説もしています。
では以下です。


前回エベンさんが天使のような女性に
導かれて、天界を体験した様子を紹介
させていただきました。
そこでは、五感の感覚は分離したもの
ではなく、一体のものとして感じ
られたという事です。
分離されたものを、対象としてみる
という感覚ではなく、それと一体に
なることで、捉えるという感覚だった
ようです。
またこの天界においても音楽が重要な役割
を担っているという事がよくわかりました。
そして今回は、エベンさんがさらに高い
意識領域に移行する様子をご紹介していこう
と思います。

「」内が引用で、~は、中略です。

「さらに先へ進んでいくと、広大な虚空の
中へ入っていった。果てしない広がりが
続く全くの闇だったが、そこは限りない
安らぎも感じられた。漆黒の闇であるにも
かかわらず、光も満ち溢れていた。すぐ近く
にいる気配のする光の球体、オーブ(たま
ゆらとも言う)の一つが放射している光らし
かった。オーブはあの輝く存在の天使たちが
奏でていた調べと同じように、ほとんど
固形のようで生きていた。~
~私の場合は胎児の「母親」に相当する
ものが、宇宙とそこにあるもの全体の母体、
言い換えれば、神や創造主、根源などと
呼ばれる存在だった。
神の存在はきわめて間近に感じられ、自分
との間にまったく距離がないように思えた。
しかしそれと同時に神が無限に広大である
ことがわかり、それに対して自分がいかに
比べ物にならないほどちっぽけであるかを
思い知らされた。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

この部分が特に重要で、エベンさんの
臨死体験を紹介しようとした理由につながる
ものなのです。
今ここが、エベンさんの到達した意識レベル
の限界を示しているところだからなのです。
彼はこの高次元の意識領域で神のような存在
に会ったという事ですが、それは絶対的な
存在と自分が分離したままの感覚だという事
を示しているのです。
せっかく「神の存在はきわめて間近に感じ
られ、自分との間にまったく距離がないよう
に感じられた。」という意識まで到達して
いるのにあと一歩、そのような絶対的な
意識と一体になるところまでいかなかった
という事なのです。
それまで拡大し続けていた彼の意識が、
ここでストップしてしまう事になる
のです。
ここで絶対意識になれなかったエベンさん
と比較して、それを自分のものとした
アニータさんの意識をもう一度引用
させていただきます。

“「どうして突然、すべて理解できたんだ
ろうか?」私はそれが知りたいと思いま
した。
「誰がこの情報を与えてくれたんだろう?
神様かしら?それともクリシュナだろうか?
それともブッダ?キリスト?」
その時、「神は存在ではなく、存在のあり方
なのだ。そして、私は今、そのような存在の
あり方をしている」という悟りが得られ、
その感覚に圧倒されたのです。」”
“出典:「DYING TO BE ME」
アニータ・ムーアジャニ著 
           hay house 刊
邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

つまり彼女の謙虚な言い回しに惑わされず
に、彼女の説明をそのまま受け取れば、
アニータさんは、自分自身が絶対的な
存在そのものとなったといっていると
いう事なのです。
「えーそんな偉そうなー!」
普通そう思いますよね、その普通の感覚
こそ長年の間人類全体を苦しめてきた
「分離」の感覚なのです。
ここで絶対意識のからくりを説明します
と、アニータさんだけが、本来絶対的
存在だったという事ではなく、我々の
一人一人全員がそのような存在で
あるという事なのです。
つまり「みんな偉い!」のですが、
わかりにくいと思いますので、この宇宙に
おける全てのものは、全体とつながって
いて、またその全体そのものでもある
という事なのです。

実は宇宙の物理的モデルもそういう事に
なるのですが、それについてはまた別の
記事に書かせていただきます。
とにかく残念ながら、絶対的な存在と一体
になれなかったエベンさんは、
「自分がいかに比べ物にならないほど
ちっぽけな存在であるかを思い知らされた」
とあるように分離された小さな存在として
自分を意識することで、その絶対的存在
から離れてしまう事になるのです。
(これに対して、絶対意識に到達した
アニータさんは、肉体に自分を自身の選択
により戻すまで、その領域に留まっていま
した。)
そしてちっぽけな自分という感覚を持って
しまったエベンさんは、絶対意識領域に
留まる事ができず、この後、低次の領域に
下降してしまう事になります。』

究極の意識と一体化できるかどうかの境界
とは? エベンさんの証言その5

という事で、わかっていただけました
でしょうか。
つまり光に出会って、それに比べて
自分がなんとちっぽけな存在で
あるかを思い知らされているよう
では、悟りは得られないというわけ
です。
死者の書にあったように、
遭遇した、直視できないほどの
光を自分自身の投影だと悟れ
なければ、解脱できないのですが、
まさにエベンさんは、その闇に
満ち溢れているような生きている
光が自分の投影だと感じる事は
できずに、絶対的な存在の他者
として、感じてしまい。その上
自分自身がちっぽけな存在と自覚
してしまうのです。

当然二元論的な感覚では、ワンネスの
悟りは得られないので、あとは
悟れないまま次元を下降する事しか
できなかったのです。

これで私が、死者の書で、出会う事に
なる叡知の光に対して、絶対的な他者
のように祈願をするというのは、
それに対してちっぽけな存在である
自分という二元論的な意識を持ち続ける
事につながり、ワンネスの悟りの
邪魔になるだけだという事が
わかっていただけたでしょうか。

次回は、エベンさんとアニータさんが
肉体に戻るまでの詳細な描写を
もとに、悟りを得られた場合と、
悟りを得られなかった場合の認識の
違いを説明していこうと思います。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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神秘体験を科学する2過去生で全くの別人になったのが自分だとわかる!


この記事は
神秘体験を科学する!過去生体験に
共通する要素まとめ第一弾

の続編です。

今回も引き続き、
レイモンド・ムーディー氏が
過去世体験を研究した成果として、
その特徴や要素をまとめておられ
ますので、著書からの引用でご紹介
していきます。

「」内が引用で、~が中略です。

「特徴4 どの人が自分かわかる

過去世へ退行中の自分は、現世とは顔形
も声も異なり、ときには性別も入れ替わり、
また肉体的特徴もまるで違う。しかし
いかに違ったとしても、過去世において
どの人が自分かということは即座に理解
している。生活環境や職業、時代や国など、
すべてが違うような状況であっても、
誰が自分なのかわかるのである。
 たとえば私の大学のある学生は、何百年
も前の過去世へ退行したとき、自分は
そこでトルコに住む商人だったと、非常な
真面目さと確信をもって述べた。
(引用注:この学生はアメリカ人である
と思われます)
また南部の若い主婦は、自分ははるか前、
原始時代にアフリカで戦士だったと言い、
こう叙述している。

「私は突然、黒人の戦士である自分を見い
だしました。木の葉を編んで作ったものを
腰に巻いて局部を隠している以外は、
まったくの裸でした!体中の黒い肌に、
戦闘に備えて極彩色のジグザグ模様などが
描かれ、非常に恐ろしい容貌をしていま
した。
 なぜそのような極彩色模様を描くのか、
今の私にはわかります。現代ではそのよう
にする必要はないでしょうが、過去世の
退行中の私の目の前に、別の黒人戦士が
現れたのです。彼もジグザグ模様などを
体に描いていました。その姿が目の前に
現れると、それはショッキングなほど
恐ろしいものでした。
その模様は接近戦においては、敵に
心理的動揺を与える効果があるのです。」

こうした自己感は、退行催眠から覚めた
あとも残る場合がある。被験者は、自分
は過去世で確かにあの男性、あるいはあの
女性だったという感覚を持ち続ける。
そして事実そうだったのかも知れないの
である。」

ムーディ氏は科学者でもあるので、とても
ショッキングな過去世の体験や前世体験の
エピソードを紹介していても、断定口調を
徹底的に避けておられます。
これは科学者としての立場なら正しい
でしょうが、なんかせっかくのエピソード
に、説得力が与えられないという印象を
持つときもあります。私は科学者でもない
単なる研究家なので、確信を持てる事に
対しては、力強く断定していきます。
つまり、体裁やしがらみを気にする必要が
ないという事ですね。
つまり上の例は、魂としての自分の過去世
の実際の記憶なので、自分がどんな姿や声
性別になっても即座にわかるという事
なのです。
また一つのタイムラインの過去という
事ですが、極彩色をする理由などは、
勉強にもなる一面を過去世の体験が、
もたらしてくれるという事を証明もして
くれています。
余談ですが、だいぶ以前に女子高生の間で
流行っていた「ガングロ」という、顔を
真っ黒にしてケバい化粧をしていた姿は
確かに心理的動揺を与えるのに充分でした
ね(^^)💧あやつらは戦士だったのか?

「特徴5 過去世の感情の中に置かれる

退行催眠を受けた被験者は通常、自分は
過去世での実際の感情の中に置かれたと
述べている。
私自身の退行経験においても、たとえば自分
が過去世で味わった非常な恐怖をその場で
心底感じた。必ずしも恐怖の過去世ばかり
ではなかったことが救いだが、かつて
自分がローマのコロッセウム(円形競技場)
でライオンに飛びかかられ食い殺された
ときの恐怖などは、実際に私を気絶させた。
 こうしたことは、はたで被験者の様子を
見ている催眠療法士にも明らかである。
過去世へ退行中の被験者は、療法士の
目の前で自分の顔に恐怖や怒りをあらわに
したり、悲しみや感動の涙をボロボロと
流したりする。優しい感情から激怒に至る
まで、人間の持つあらゆる感情が、退行中
の被験者の表情に現れる。
こうした感情の現れは、被験者が実際に
大昔の過去世へ退行してその場面を生きて
いるのだという確信を、見ている療法士
にも抱かせる。療法士はそれによって
催眠療法が機能していることを知るの
である。」
“以上「」内全て
出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

この過去世体験での、リアルな感情も、
過去世が自分の魂の実際の経験だと
すれば、とても自然に理解できること
ですね。いったいここまでの状況から、
実際の過去世である事実を認めない
現代の主流の科学の姿勢というものは、
いかに狭くて意固地な感覚なのかを
物語っています。
ここは、重要な視点だと思いますが、
証拠というのは、人間のとてつもなく
狭い五感の領域で確認できるという
だけの事で、それしか信じられないと
いうのでは、まさしく世界のほとんど
を事実として認めていないのに等しい
のです。
なぜなら、世界のほとんどは、人間の
とてつもなく狭い「五感の領域の外」に
存在するからです。
もし本当の世界を知ろうとするのなら、
そのとてつもなく狭い五感の領域以外を
探究するしかないという、単純明快な
真理をわかっていないのが、人類の
ほとんどだという事ですね。

とにかく、魂が過去世で体験した事を
催眠中に実際感情を伴って再体験
しているというのは、時空を越えた
領域にまだその過去世が、現実として
存在したままだという事も示して
いるのです。過去は過ぎ去っていない
、まだ現在の我々とともに、存在
している事も証明している事になります。
これは超常現象とホログラム編の一連の
記事を読んでいただれば、より理解が
深まると思います。

退行催眠による過去世体験の特徴は
まだまだ続きます。続きは次回と
いう事で(^^)

いつもありがとうございます(*^_^*)

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神秘体験を科学する!過去生体験に共通する要素まとめ第一弾


退行催眠という方法で、過去世を
体験するという実例を紹介する
シリーズです。
前世記憶や臨死体験との共通点が
多いので、真理を探究するのに非常に
役に立つ事例だといえます。

今回は、レイモンド・ムーディー氏が
過去世体験を研究した成果として、
その特徴や要素をまとめてくれて
いますので、それをムーディー氏
の著書から引用してご紹介したいと
思います。
その特徴がまた多いので、何回かに
分けてご紹介しますね。

「」内が全て引用で、~は中略の意味
です。

「特徴1 過去世経験の多くは視覚的である

私の被験者らが語ったところによれば、
彼らの過去世経験は視覚的なものが
大部分を占める。ときには臭覚的なもの
や、聴覚的なものもある。視覚的に見えた
光景は、通常の白日夢よりも鮮明でリアル
だという。夢の中に見える光景だと、
ぼんやりしたものが多いが、過去世経験
の場合はそうではない。
また過去世で見える光景は通常、白黒で
なくカラーである。
 以下はそのような一例だ。ある女性が
語ったものだが、彼女は1800年代
末期に男性の農民だったという。

「私は18歳の少年で、荷馬車の後方で
足を投げ出して座っていました。私は
そこにいて、自分の足がぶらぶらして
いる光景を見ました。ほんの5分前の
出来事であるかのように、はっきりと
それを見たのです。
 その生において、私が柵のところで
仕事をしていると、蛇が私の足の近くに
見えました。ぼんやりとではなく、今
この目の前にいるようにはっきり
見えたのです。とっさに私は逃げましたが、
ころんで額を岩にぶつけてしまいました。
痛くて痛くて、催眠から覚めたあとも頭痛
が続いていたほどです。
 また額から流れ落ちる血の感覚があり、
催眠から覚めたあとも、顔に血が流れて
いるように思えたほどです。」

 これは、過去世への退行催眠において、
肉体的感覚が伴うことを示す一例である。
まれに、過去世経験が心象風景のみの形
で起きるときもあるが、感覚を伴わない
光景だからといって、その価値が減じ
られるわけでもない。
心象風景だけであっても、感覚を伴う
鮮烈な光景と同様、感動的で忘れ得ぬ
場合がある。」

まずは特徴の一つ目ですが、とても鮮明な
画像と感覚で体験しているという事ですね。
みなさんに思い出していただきたいのが、
これは臨死体験者の人生回顧と共通して
いるという事なのです。
つまりホログラム的現実は、時間が進んで
いっても、そのまま鮮明な形で残っている
という証拠でもあります。
確かに臨死体験者にとっての人生回顧
とは、自分の人生の「過去画像」に
あたるので、この過去世での画像と同じ
種類のものであることがわかりますよね。
また肉体的感覚を伴うのも特徴的ですが、
これまた臨死体験にも見られるもの
です。アニータムーアジャニさんが、
臨死体験で、別のタイムラインでの
現実を経験した時にも肉体的感触が
あったという事も以前ご紹介しました
よね。
さて次の特徴です。

「特徴2 出来事を受け身的に経験する

 退行催眠における場面や出来事は、人の
願望や思いが現れて映像化されたという
より、過去世自体が持つと思われる。

白日夢だと、自分の願望や思いが夢と
なって現れることが多いが、退行催眠
では、人はむしろその過去世で起きている
出来事を、受け身的に体験する。
 退行経験をしている人は、ふつう出来事
の目撃者であって、出来事の制作者とは
ならない。彼らはよく、自分はあたかも少し
馴染みのある映画を観させられているかの
ような感じだった、と表現する。その良い
例は、私自身の退行経験だろう。
私が中国人画家であった自分の過去に退行
したとき、私はそこで、次の瞬間どんな
出来事を起こそうかと考えていたわけでは
ない。単に映画を観ているときのように、
目の前で起こる出来事を受け身的に眺めて
いたに過ぎない。
出来事が終わると、次の出来事が起こった。
私にとってそれは、巨大なスクリーンに
映し出される立体画像を魅せられているかの
ようだった。すべてが色つきで、細かい
ところまで見えた。私のすることといえば
ただそこにいることだけだった。」

これは、どうしても過去世体験を信じない
人たちのために取り上げた特徴でしょう。
疑う人は、過去世体験が自分の想像による
ものだと信じきっていますからね。
間違いなく過去世経験は、自分の想像や
願望のあらわれではないでしょう。
その2からその4でご紹介したムーディー氏
の過去世体験は、まず想像もできないもので、
しかも悲劇ばかりで、とてもじゃないですが
あれを願望の産物とするのは無理があり
すぎるでしょうからね。

臨死体験者の経験がこれと少し違うのは、
臨死体験者は、人生回顧以外にも、かなり
自由な意識の経験をすることが多く。現在
の自分の世界であらゆる人の心を望みの
ままに経験したり、肉体を離れた状態で
あちこち飛び回ったり、いくつかの次元を
自由に行き来したりしていたと多くの証言
にあります。

一方で過去世体験は、ただ過去世を
受け身的に体験するだけのようですね。
今回は最後にもう一つ特徴をご紹介しま
すね。

「  特徴3 光景になつかしさを覚える
退行して過去世にいったとき、人が往々にして
感じるのは、なつかしさや郷愁である。
 被験者がよく口にする感情は、いわゆる
デジャブ(フランス語で既視感)、つまり
「どこかで見たことがあるな」「どこかで
したことがあるな」という感覚によく似て
いる。この感覚は、なんとなくなつかしい
という漠然とした感覚の場合もあれば、
長く忘れていた出来事を突然思い起こして
ハッとする、という場合もある。
 その一例として、私がニールと呼ぶ
患者の退行経験がある。彼はジョージア
州出身で、サザンバプテスト派キリスト
教徒だが、思いもよらずアイルランドの
修道士の過去世へと退行した。彼は
そこでなつかしさを覚える多くの経験を
している。
なかでも特筆すべきは、もう一人の修道士
と丘の上に一緒にいたとき、老齢の農民と
その妻が強盗たちに殺される場面を遠くに
目撃したことだった。

「恐ろしい光景でした。しかし、それは
私が初めて見る光景ではないように思え
ました。
私たちはそのとき、丘に上って農場を
見おろしていました。すると男たちが
馬に乗って農場へやって来るのに気づ
いたのです。農民の老人と妻が、一体誰が
やって来たのだろうと外に出てきました。
男たちは剣と棍棒で彼らを打ち、襲い
かかりました。そののち男たちは馬から
降り、家を略奪し始めました。
 この光景をトランス状態(催眠中などに
みられる、通常とは異なる意識の状態)で
見たとき、私は驚きませんでした。
むしろ『これはどこかで見たことがある』
という感覚だったのです。恐ろしい光景
ではありましたが、自分が昔見た光景に
思えました」
“以上「」内全て
出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

このようななつかしい感覚、過去世体験が
魂の実際の記憶だというのであれば当然
のことになります。

なかなか今回も真理につながるようないい
ヒントが得られたような良い実例でした
ね。
また次回も特徴をご紹介していこうと
思います。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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チベット死者の書から読み取れる真理の共通点その2「解脱とは輪廻転生のマトリックスからの解放そしてその鍵とは?」


この記事は
チベット死者の書から読み取れる真理の
共通点その1
「五感の中で聴覚が最もレベルが高い」

の続編です。

前回チベットの死者の書に、死後
も死者の聴覚が生き続けると
あった事から、五感の中で最も
聴覚がレベルが高いという
これまでの研究成果が、正しかった
という事を確認しました。

今回は、死者の書の最大のテーマ
である解脱と輪廻転生について
再認識できた真理について
解説していこうと思います。

チベット死者の書についての解説の
サイトの続きから


チベット死者の書について
私達が生きているのは「生命の風」(ルン)
と呼ばれる「意識」が体の中にあるか、
外にあるかで決まり、私達の意識が
体の中にあって生きている時を「生」、
意識が外に出てしまった肉体を「死」、
死んで次の生を受けるまでの間の
意識の状態を「中有」(バルド)とし、
「意識」は不滅であることを説きます。

(引用注:そもそも有限である
肉体という感覚こそ、マトリックス
の仕掛けた偽の現実感覚でしか
ないので、意識は、もちろん
真の実体として、不滅で永遠のもの
です。)

解脱とは
解脱とは欲望の源である全ての煩悩から
離脱して、輪廻転生の無い絶対的な
安楽の世界で仏になることです。

(引用注:絶対的な安楽の世界とは
絶対的な至福の状態で、ワンネス
そのものになる事で、これを
仏教では仏になると言うようです。
仏になると言われても、ピンと
来ない人には、全知万能のワンネスの
絶対意識
になるという方が
わかりやすいと思います。
そして多くの人がイメージする
ように仏とは、微笑みながらじっと
してなければいけない存在では
なく、自由自在になんにでも
なれて、どんな事も経験できる
存在になれるという事です。)

釈迦は現世で修行の結果として
解脱して仏になりましたが、
仏教の最終的な目標は仏になる
ことであり、解脱することです。

しかしながら解脱するには
過去世での功徳の積み重ねと
現世での高度な修行が必要なので、
誰もが簡単に出来るようなこと
ではありません。

しかしチベット死者の書では
死者に対してまず最初に解脱する
ように説いています。

輪廻転生とは
輪廻転生とは地獄餓鬼畜生
阿修羅人間の六つの世界
である六道を生まれ変わり死に
変わりを繰り返すことで、
過去世での行いと現世を
生きている時の行いの善悪の
結果によって次の生まれ先が
決まります。

(引用注:仏教では、解脱できなくて
輪廻転生となる場合でも天界に
生まれ変わって、至福の世界に
いけるコースがあるようです。
ただし解脱すると永遠の極楽浄土
にいけるのに対して、天界は
寿命があるという違いがある
という事です。
まあややこしいですが、たぶん
神を崇める他の宗教より、仏教の
方が格上だと印象付けたいからの
コンセプトだと思います。)

チベット死者の書では仏教の
目標としての解脱が
叶わなかった場合に、
次なる手段として輪廻転生での
良い生まれ変わりが実現するよう
説いています。

三つのバルド
チベット死者の書では死者が
経験する三つのバルド(中有)を
説き、次の順で現れます。

☆チカエ・バルド
(死の瞬間のバルド)…
生命の本性であるまばゆい光が
現れる。

☆チョエニ・バルド
(心の本体のバルド)…
最初の七日に寂静尊が四十八体、
次の七日に憤怒尊が五十二体現れる。

☆シパ・バルド(再生のバルド)…
六道の薄明かりが現れ、
良い世界への輪廻転生を目指す。

“出典:
チベット死者の書-死後の
世界の詳細と解脱、転生法
」”

死者が、いずれかのバルドゥにあるのは
最大49日間なので、その間で解脱が
果たされるか、または良い再生が
叶うまで、ラマが死者の書を経として
読み上げ続けるという事です。

原典訳を読んでいくと
どの段階でも再生よりは解脱できる
チャンスがあるのです。

今回は、そのチャンスをものできる鍵
が、原典訳から、明らかに読み取れた
ので、それを解説していきたいと
思います。

まず死者の書では、輪廻転生の
サイクルは、罠であるように
説いています。

私も、ブログで肉体に囚われる
という事は、マトリックス
プログラムに取り込まれる
という事で、罠と同じ意味で
捉えて解説してきました。

しかもそのマトリックスプログラム
は太古にDNAに書き込まれた改竄
プログラムで、支配に都合の良い
ものでした。

その具体的な仕組みについては
こちらの記事が参考になると
思います。
細胞膜は液晶の半導体で、身体は精緻な
バイオコンピューターだった!

そしてそのマトリックスプログラム
の具体的な仕組みは理解されて
いなくとも、死者の書でも、その
理解につながる表現がありました。

それが
習癖をつくる力」(ヴァーサナー)
というものです。

つまりこれが、マトリックス
プログラムを別の表現で示したもの
にあたるわけです。

この習癖とは、繰り返し実行される
マインドの事で、我々が五感で感知
する物質世界こそを現実と思い込み
肉体に閉じこめられたと思い込む
自己の意識だという事です。
この習癖(マインドの習性)こそが
ボディマインドの事なのです。

これを捨てない限り解脱できない
という事は、死者の書では何度も
繰り返されます。

なぜなら死者の書を読み上げる事で
死者を輪廻転生の罠に陥らずに解脱する
ように仕向けるのが目的だからです。

意識が囚われるとはどういう事か
というのを説明しておきますね。

本来我々は、全ての一つ、全知・万能
のワンネスの意識だと再三説明して
きました。

ところがワンネスが、自分の分身を
いくつか創り出し、独立した個の
意識を経験させてみたいという
ところから、意識の世界が広がり
独立した個の意識は、またさらに
自分の分身を創り出して、どんどん
子意識、孫意識、そしてそのさらに先
まで、複雑な意識の世界が生み出されて
いったという事です。

ただ最初の子意識は、もともと
全てとしての一つであった事を
意識できているので、至福の安心感
と無限の愛が中心にある恵まれた
意識なのです。

しかしその意識の分身である孫意識、
さらにその分身の意識となってくると
もはや、ワンネスがもともとの自分
とは、感じられなくなるので、
ワンネスに回帰できるという安心感を
失っています。
そうなると自分という存在が、
消えないかどうかという不安感が、
恐怖心に変わるわけです。

そこで、意識は循環する波動を生み出し
自分が永続的に存続できる安心感を
得ようとするわけです。

循環する波動とは、我々の物理的
理解でいえば二重螺旋を
中心とするトーラスの事です。

しかし安心感を得られたら、それが
結局ワンネスの至福の状態に近づく
事になり、やがて元あった孫意識・
子意識と順に、または一気にワンネス
へと回帰していくのです。

つまりこのワンネスへの回帰こそが
解脱という事なのです。

そして永続的に思える、継続的な
意識どうしが創り上げた世界を
仮想現実と定義できますが、
最終的にワンネスに回帰できる
意識同士の創り上げた世界なので
いわば、望み通りの現実を、
創造できたわけです。

これが太古の地球にも存在した
黄金時代というものになります。

さてしかし、最終的ワンネスに回帰
できる存在で満足できるような
意識であれば問題なかったのですが
結局それでは、本当に個として永続
的に存在する事にならないと理解した
意識が、どうしても個としての
自分を永続的に存続させたいと
願うようになる事で、どうしたら
良いかと智恵を働かせたのです。

実は、恐怖心や悲しみ、怒り、憎しみ
などのネガティブエネルギーは
究極の至福と愛のワンネスから
対極にあるため、回帰を阻む
エネルギーとなるのです。

つまりそれが、個として存続
し続けるための、大事な
エネルギーという事になるので、
それをずっと生み出し続ける
仕組みをつくり上げれば良い
という智恵から、
そのネガティブなエネルギーを
生み出し続ける肉体を持つ
という仮想現実を創り上げた
というわけです。

これが我々が生きている間に
経験する仮想現実つまり
マトリックスの世界なのです。

ただその智恵を創り上げた
当の意識は、仕組みを理解して
いるので、最終的にワンネスに
回帰できてしまう事になります。
ネガティブエネルギーは、究極の
永遠の存在であるワンネスの対極
なので、当然消え去る運命に
あります。
なので、自分の孫意識に
その肉体の仮想現実を経験させて
いき、その孫意識からのネガティブ
エネルギーを糧とする事で、
自らを永続的に存続させよう
としたという事なのです。

このネガティブエネルギーを
永続的に糧として、吸収しよう
という存在こそが「悪魔」と
呼ばれるものの正体という
わけです。

この悪魔の孫意識が我々という
わけではない事に注意してください。

いわば悪魔の孫意識というのは、
悪魔が憑依した智恵を持つ
存在で、それが古代からの
人類の支配的存在なのです。

そしてそれらネガティブな
エネルギーを生み出し続ける
肉体を持った孫意識も、やはり
限界があるので、自分たちの
ようなネガティブエネルギーの
プログラムをもっと安定した
存在にインプットしようと
試みたわけです。

つまり地球上の黄金時代を営んで
いた人類に対して、そのプログラム
を施し、「人類の堕落」へと
つながったというわけです。

要するに、もとの黄金時代の
愛や思いやり・幸福感などの
ポジティブなエネルギーを
生み出す存在でありながら、
同時に苦痛や悲しみ、恐怖心
憎しみなどのネガティブエネルギー
を生み出すプログラムを施されて
しまったのが現在の我々の肉体という
わけです。

このマトリックスプログラムは
強力で、肉体が死んだ後も
習癖をつくる力として働き、
輪廻転生の永続的な罠に
囚われるように仕組まれている
というわけです。

つまり輪廻転生で、ネガティブな
エネルギーを人類に永続的に
生み出させる事で、支配層も
永続的に存在する事ができる
という事になります。

なので、解脱とはワンネスに回帰
するだけでなく、少なくとも
このネガティブなプログラムを
施された肉体に再び宿らないように
する事という定義でも良い事
になります。

このような意識の仕組みについては
こちらの記事でも解説しています。

ほぼ全ての人がマトリックスに囚われる原因
とは、分離意識から生まれる
恐怖だった!

さて意識と輪廻転生そして解脱の
仕組みについての説明は以上
ですが、チベット死者の書に
繰り返される解脱の鍵について
観てみる事にしましょう。

ただ長いので

死者の書によると、死者は死後
最長三つのバルドゥ(中有界)
を経験する事になります。

最初の死の瞬間のチカエ・バルド
(死の瞬間のバルド)では
生命の本性であるまばゆい光が
現れる。
全訳によるとチカエバルドゥも
二段階あるとの事。

この時に、一気に解脱できる人も
いて、それは生前に解脱方法を
実践していた人や、悟りを得た人
自覚はなくとも、解脱できる
意識レベルを獲得していた人
などです。

たとえば、一気に絶対意識に
到達した体験は、アニータ
・ムーアジャニさんや
デービッドアイクさんが
していました。

通常の人は、その時に解脱
できずに、この後三日半ほど
失神状態になりのち
チョエニ・バルド
(心の本体のバルド)…
に赴くとの事。
最初の七日に寂静尊が四十八体、
次の七日に憤(忿)怒尊が
五十二体
現れますが、どの段階でも
解脱をできるチャンスが
与えられて、解脱をした時点で
バルドの経験は終わります。

死者の書では、寂静尊48体と
忿怒尊52体が現れる全ての
時について、詳細に記されて
いますが、解脱の方法はいつも
共通している鍵があるので、
失神の三日半を経ての三日目
だけを一例として抜粋しながら
取り上げます。

2日目で解脱できなかった死者に
対しての言葉として始まります。
死者に向かってラマは善い人よ
と言って語りかけます。


またこのようにお導きを受けても
慢心(おごり)と罪垢(けがれ)
の大きい人の場合には、慈悲の光明
の鉤針(かぎばりと読む・ひっかける
針の事)を恐れて逃げ出すので、
さらに三日目に尊い御方である
ラトナサムバヴァ(宝生)如来の
神群と人間界の光の道の二つが
会いに現れるであろう。
この場合もお導きは、死者の名を
読んだあとで、以下のように
告げる。

「ああ、善い人よ、心を惑わされる
ことなく聴くがよい。三日目には、
地の元素(地大)からできている
浄化の働きをする黄色の光明が現れる
であろう。その時に南方の黄色の
シュリーマットという仏国土
(極妙世界)から尊い御方である
ラトナサムバヴァ如来が黄色の身体
をして、手には摩尼宝珠
(まにほうじゅ)を持って最高の
馬の座に坐し、女尊マーマキー
(我母・自分の母という意味では
なく女尊の名前)と接吻した
姿で現れてくるであろう。~
(中有界で次々に現れる仏尊体
の中で中心的な尊体は、このように
女尊を懐に抱き接吻した形で二体
で現れます。そしてこの三日目では
二人の尊体のまわりを、また四人
の尊体が囲んで現れて、合わせて
6体出現します。)
~虹と明りと光線の奥から全部で
合わせて六体の御仏の姿が
現れるであろう。
感受作用の集まり(受蘊じゅうん・
人間を構成するといわれる五蘊
の一つ)からできている、
根底から清浄な黄色の光-すべての
ものの平等なことを理解する知恵
(平等性智)-は黄色に輝き、
いろとりどりの宝飾によって飾られ
明るく清澄であって、目を開いて
直視することができないほどの
眩しさで汝の面前に近づいてくる
であろう。この黄色の光は
ラトナサムバヴァ如来男女両尊の
心臓から発して、汝の心臓を
めがけて直視することができない
ほどの眩しさで射してくる
であろう。
(中有界で先に出会う48体の
寂静尊が心臓から発していて
それでも悟れないで次に出会う
恐ろしい形相の忿怒尊58体は
脳から発すると表現されている
事に注目して欲しいのです。
つまり心臓より脳の方が劣位
にある証拠とも言えると
思います。)
その時に汝は慢心(おごり)
のために、この畏怖させ怖気
づかせる黄色の光を恐れ、
おびえる気持ちを起こして
逃げようとするであろう。
そして人間界の青色の怖気
づかせないほどに微弱な薄明り
の方に、汝は喜びの想いを
生じて近づこうとするであろう。

(ここから先の太字の箇所が、
いろんな尊体が出現した
それぞれの時に共通する
表現で、解脱の真髄にあたる
ものです、特に後半の悟りの
方が重要です。)
 しかしその時に汝はこの
恐ろしいばかりに輝く、明るくて
清く澄みきった黄色の光を
恐れてはならない。
《これは叡知である》と覚る
(さとる)べきである。
これの上に汝の動きをなんの動き
もしないようにのんびりとさせて
放置させるべきである。
この黄色の光に対して敬慕と尊崇
の気持ちを寄せるべきである。
 またこれを《汝自身の意識自体の
現れである》と覚る(悟る・さとる)
ならば、特別に敬慕と尊崇の気持ちを
寄せることがなくても、また祈願を
唱えなくても、すべての仏の身体と
光明が汝と一体となって溶け入り、
汝は仏となることができるであろう。

(要するに怖じ気づかせるほどの
眩しさを放つ黄色の光も、尊体たち
も全て自分自身の意識が出現させた
ものであるという悟りを得れば
解脱できるという事です。これが
単に神や仏にすがればなんとかなる
という我々の宗教一般に対する
考え方とは異なるところで、死者の書
が、いかに死者のための解脱の方法を
具体的に示しているかの証拠となる
部分です。) 

もしもこれを《汝自身の意識自体の
現れである》と覚ることができない
場合には、
《これはラトナサムバヴァ如来の慈悲
の光明である。帰依申し上げます》
という敬慕の気持ちを持って祈願
すべきである。
これはラトナサムバヴァ如来の慈悲の
光明の鉤針であるので、敬慕と尊崇の
気持ちを寄せるべきである。
(やはり覚る事ができない通常の人は
よりどころなく不安な中有界の状態で
絶対的な他者の存在を求めてしまう
ものなので、尊体に帰依するという
次善の策を取らせるわけです。
ただこの次善の策の方法は、本当の
悟りを得たわけではないので、
尊体自身に自分がなるという
イメージを持たなければ、また
次の段階でのチャンスに進む
事になります。)

 人間界の青色の怖気づかせない
ほどに微弱な薄明りの方に喜びを
抱いてはならない。
これは汝の激しい慢心(おごり)
によって蓄積された習癖を作る力
(習気・じっけ・つまり
ボディマインドのマトリックス
の事)からできあがっている、
捨てられるべき光の道である。
これに執着するならば、汝は
人間としての境涯に再生して
生・老・病・死の四つの苦悩に
悩まされ、その後も輪廻の境涯
に留まってしまい、解脱する
ことはできないであろう。
これは解脱の道を妨げる邪魔
ものであるので、これに眼を
やらずに慢心(おごり)を
捨て去るべきである。
これに執着してはならない。
求めてはならない。
黄色に輝くかの光に敬慕の
気持ちを寄せるべきである。
ラトナサムバヴァ如来に心を
向けて、以下の祈願の言葉を
唱えるべきである。
《ああ、私が激しい慢心のために
輪廻し彷徨って(さまよって)
いる時に、すべてのものの平等
なことを理解する知恵(平等性智)
の明るい光の道へと、
ラトナサムバヴァ如来がお導き
くださいますように。女尊
マーマキーが背後から支えて
くださり、恐ろしいバルドゥの
難関を越えさせてくださいます
ようにお祈りいたします。
正しくて完全な仏の境地に
お連れ下さいますように》
と強く敬慕の気持ちを寄せて
この祈願の言葉を唱えることに
よって、ラトナサムバヴァ如来の
心臓の中に虹の光となって
溶け入り、南方のシュリーマット
という仏国土(極妙国)において
サムボーガ・カーヤ(報身)を
得て仏となるであろう』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

言うまでも無いでしょう。
中有界で解脱を得るための鍵は
全ての現出された光や尊体が
自分の内なる意識から現れたもの
《汝自身の意識自体の現れである》
と覚る事だったのです。

結局全てとしての全知・万能の
ワンネスを自分自身だと理解
すれば、死後解脱する事で
至福の極楽浄土に行ける
というわけです。

つまりワンネスの状態こそが
極楽浄土で仏になるという事と
同じ意味だという事です。

もちろん全知・万能のワンネス
(仏)になればじっとして
いなければならないのではなく、
望み通りにどんなものにでも
なれて、どんな経験も可能に
なるという事です。

これは肉体にしばられたマインド
であった自己が、死によって解放
されたからこそ可能だという
事です。
もちろん生きている間にも
マインドを解除すれば、解脱も
可能ではありますが、通常の人には
非常に困難な事です。

ただ悟りを得た行者や僧侶、そして
臨死体験やアヤフアスカの服用
体験をした人などは、やはり稀に
この解脱を果たす事ができる
ようです。仏陀もその一人という
事。

さて臨死体験といえば、絶対意識
のワンネスの境地に達した
アニータ・ムーアジャニさんの
実例が、まさに解脱を意味して
いるとわかりますので、再掲
してみましょう。

「拡大した領域での気づきは、どんなに
説明しようとしても、言葉では言い表せ
ません。その明快さは驚くばかりでした。
「宇宙は理にかなっていた!」と、私は
理解しました。
さらに、どうして自分が癌になったのか
とうとうわかったのです。私はその瞬間の
すばらしさにあまりにも夢中になり、
しばらく病気の理由について考えられな
かったのですが、やがて、深く探ってみる
ことにしました。
そして、そもそもどうしてこの世に生まれて
来たのかも理解できるように思えました。
自分の真の目的について悟ったのです。
「どうして突然、すべて理解できたんだ
ろうか?」私はそれが知りたいと思いま
した。
「誰がこの情報を与えてくれたんだろう?
神様かしら?それともクリシュナだろうか?
それともブッダ?キリスト?」
その時、「神は存在ではなく、存在のあり方
なのだ。そして、私は今、そのような存在の
あり方をしている」という悟りが得られ、
その感覚に圧倒されたのです。

“出典:「DYING TO BE ME」
アニータ・ムーアジャニ著 
           hay house 刊
邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

太字で強調したようにアニータさんが、
神様やブッダクリシュナなどが自分自身
そのものであると悟ったわけですが、
これこそが死者の書で繰り返された
全ての現出された光や尊体が
自分の内なる意識から現れたもの
《汝自身の意識自体の現れである》
と覚る事と同一の意味で、解脱を
果たす事につながるわけです。

そして解脱を果たしたアニータさん
だからこそ、全知・万能のワンネス
の意識を獲得したからこそ、末期癌
の致命的な状況の自分の身体に
再び宿り、完治できるという奇跡の
ような事をしてのけたわけです。

死者の書では、この悟りが得られない
場合には、現出した仏尊体にひたすら
祈願するように言いますが、そもそも
他者として絶対的な存在をイメージ
させる事は、むしろ悟りへの道を
遠ざける事になると思います。

次回は、そのあたりについて、
また繰り返される死者の書での
パターンから得られる、さらなる
真理について取り上げようと
思います。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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チベット死者の書から読み取れる真理の共通点その1「五感の中で聴覚が最もレベルが高い」


これまで、五感で捉えられない現実
という視点から、真実を探求する
というテーマで、いろいろ記事を
書いてきました。

そして死後の世界を理解するのに
臨死体験や前世記憶、そして
過去生体験の数々のエピソード
からも、いろんなヒントを得てきて
まとめの記事も書いてます。

そして今回チベット死者の書の原典訳本👇

「原典訳 チベット死者の書」
  川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫

を読んで、これまで研究で得た知識が
間違っていなかった事を、確認できた
ので、それを一つ一つ記事にして
いこうと思ったわけです。

さてあの超心理学のユングが、座右の
書としていたというこの本について
紹介しているサイトから引用させて
いただきますね。

『』内が引用で、~が中略です。


私達は何処から来て何処に向かうの
でしょうか、死後の世界は
どうなっているのでしょうか、
その答えを出してくれる経典が
「チベット死者の書」なのです。

仏教の教えに精通して瞑想修行に
秀でている者であっても、
死の瞬間から始まる想像を絶する
体験が始まったら、あまりの
壮大な世界に恐れおののき、
日頃の修行成果も忘れて、
本来なら解脱に至れるチャンスも
逃し、人間界に転生する方法も忘れ、
三悪趣と言われる低い世界に堕ちて
しまうことがあるのです。

死者の書の由来

チベット密教の祖師である
パドマサンバヴァ(8世紀)が
霊的な啓示を受けて書き出した
「チベット死者の書」は正しくは
「深遠なるみ教え、寂静尊と
憤怒尊を瞑想することによる
おのずからの解脱」と言い、
弟子のイェシェツォギェルに
よってガムボタル山に
埋蔵したとされる「埋蔵経」
です。

埋蔵経とは末法の世になって
仏法が滅びても、仏法が必要な
時代になれば発掘されて
世に広まるという経典の
ことです。

現在でも枕経として詠まれる
チベットで死者が出ると今でも
死者の枕元で四十九日の間師僧
であるラマによって毎日詠まれる
チベット死者の書は、実用的な
経典として使われており、
死者を解脱に導く方法、或いは
解脱できなくても良い生まれ
変わりに導くための方法を
説いています。

死者は家族の居る場から離された
別室に安置され、ラマ僧に枕経の
儀式の全てを任せます。

死者は死後に五感である
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を
徐々に失くしてしまいますが、
その中でも耳から聞く聴覚は
死後も機能し続けるとされるので、
死後に枕経を続けるのです。

亡き人は死後も人の声を聞いて
いるということですが、
自分からは声を出せないのです。

家族の泣き叫ぶ姿や声は亡き人の
解脱を妨げますので、静かな部屋で
ラマ僧による儀式は厳粛に
行われます。

“出典:
チベット死者の書-死後の
世界の詳細と解脱、転生法
」”

チベット死者の書は、死者の霊魂
レベルの意識を解脱させるため
あるいはそれがかなわくても
良い生まれ変わりに導くための
答えとなる書という事です。

この記事では、この後も死者の書の
概要について説明が続きますが、
それは次回にご紹介します。

今回は死後、死者の五感は失われて
いくけれど、聴覚は働き続ける
という事について、注目して
いただきたいと思います。

死者は、聴覚が働き続けるために
ラマと呼ばれるチベットの僧侶が
死者の意識を解脱させるために
死者の書を49日の間、聴かせ
続けるという事です。

さて五感の中で、聴覚だけが
働き続けるという事は、肉体に
囚われるための五感のうち
霊的なレベルに最も近い感覚は
つまり聴覚だという事になり
ますね。

つまり五感の中で、聴覚が一番
レベルの高い感覚であるという
事になりますが、その事は
すでに以前に記事にしています。

なぜ聴覚が最もレベルが高いかと
言えば、感知する周波数が低い
領域だからなのです。

なんのことかわからない方も
多いと思うので、その記事を
再掲しますね。
わかりにくいところは修正・加筆して
おきます。


現在、スピリチュアルな世界では、ほとんど
全部といっていいくらい、高い波動が
高い意識につながるという事を、普遍的な
真実のように語られています。
しかし私は、長年の研究から、低い波動の
方が高い意識につながるという事を突き止め
て、その理由を記事にしてます。
アイク氏が、アヤフアスカを服用して、究極
の絶対意識領域に到達した時に、内なる声が
゛「振動するものは全て幻想」だと言うの
を聞いたと語っています。
つまり波動がゼロの状態こそが。最も高い
意識につながれるとしいう事になると
理解したわけです。
事実、脳波もゼロになり肉体も離脱した
意識状態である、臨死体験者の方の証言
の多くが、「覚醒した」とか「これまで
とは比べ物にならないくらい多くの事が
わかった」と証言しているのも、その波動
ゼロの状態が大きく関係していると思われ
ます。

(肉体を離れたという意味では、死者も
当然その状態になっていて、臨死体験者
の方々と同様、意識はほぼゼロの
波動の領域にある事になります。

ただし、臨死体験者の中には、地獄を
垣間見たとか、単に真っ暗な世界だった
という人達もいて、一様に覚醒体験を
しているわけではないという事も
わかっています。
そして臨死体験者の証言で、「あの世に
持っていけるものは心と知識だけ」と
いうものがありますが、結局
死者の書で解脱できずに、また
悪いカルマ(因縁または業)や
死んだ後の意識の生み出す怖れ
などによって、畜生界や地獄界に
生まれ変わる場合があるというのも
生前の心の状態や本来の意味での
知識次第だという事になるわけ
です。
そのような意識は、ゼロの波動と
ごくわずかな周波数の中間にある
というわけです。
これを「死者の書」では、生と生の間に
あるバルドゥ(中有界)に本人が
存在しているというわけです。

ただ中有界に意識がある間は、ほぼ
ゼロの波動に近いというだけで
肉体に意識がある状態より、はるかに
レベルが高い状態にはあるわけです。
ただし、生前悪い行いや悪い心で
満たされた意識にとっては、その
状態は、居心地が悪く、自ら意識
のレベルの低い状態の世界での
生まれ変わりになりやすいという
事になります。

居心地の悪い状態というのは
死者の書にありますが、中有界で
悪い因縁を持つ意識は、地獄から
の使者のような恐ろしい存在
次々に出遭う事になる事などを
言うわけです。)

つまり波動ゼロに近づく方が、意識が
高いという理解になり、より低い波動
が、高い意識となるという事を説明
しているわけです。

そしてまた今回の記事では五感の中では
最も低い波動を、幅広い範囲で捉える
聴覚が、五感の中では最も高いという
事を紹介しています。

超古代の真実編の記事でも
ご紹介していますが、古代日本語が世界の
共通言語だったという事がわかり、また
日本語が最も意識の高い日本人を
生み出すのに最適だという事をご紹介
しています。そしてまた、この意識の高い
日本語の周波数(波動)は、世界の言語の
中でやはり低いのです。
このことから波動の低い日本語が、世界で
最も意識の高い民族の一つである日本人の
ベースにあるのにも納得がいくというわけ
です。
この事は今回の記事の終盤に書かれて
います。

さてこのように高いレベルの聴覚ですが、
これもツイッターで重要な情報をどんどん
伝えてくれる鈴木たかさんの情報では、
現在11億人もの人たちが難聴になって
いる恐れがあるという統計結果をツイート
してくださってます。

これもまた「誘導」という面もある
でしょうが、人類を高い意識へ導くための
聴覚が現在危機的状況にある事は確かです。

できればヘッドホンでデジタルの音楽を
聴くよりは、生演奏か、レコードを
ステレオで聴くという方が、聴覚のため
には良いようですし、抑揚を大切にした
会話、そして自然の音に耳を傾けるなど
聴覚を大事にする習慣を身につけたいもの
ですよね。

さて低い波動の方が、意識のレベルが
高いというテーマに戻ります

脳波では、まさに低い波動、つまり低い
振動数の方が、意識レベルは高くなり
ます。
そしてまた視覚領域が恐ろしいほどに
高い波動のレベルなのに対して、聴覚の
領域は、視覚領域にくらべてかけ離れて
低いのですが、物に干渉して遮られる
のは、振動数の高い方なのだという事を
思い出していただきたいのです。
たとえば家の壁によって、家の中は見る
事ができませんが、家から流れる音楽は
壁をすり抜けて聞こえてきます。
つまり物質の干渉で遮られる事がない
のです。もちろん高い音の方が遮られる
ので、低い音がよく響いてきます。
これは振動数の低い音の方が、より壁
などの物体の干渉に遮られる事がないと
いう事を示しているのです。
つまり意識レベルが高いという事は、より
一体感が高まるという事ですが、物質に
より分離されているように捉えられるの
は視覚領域の方で、聴覚だと物質に遮られ
にくいため、より一体感を感じる事ができる
という事なのです。
まだピンとこない人のために放射線の例も
あげてみましょう。とてつもなく高い波動
(振動数)である放射線の中でもアルファ線
は、物に遮られやすく届く距離はとても短い
のですが、アルファ線よりずっと低い波動
(振動数)のガンマ線は、物に遮られ
にくく、かなり遠くの距離まで届く事に
なります。

つまり高い波動の方が、物質の干渉を受けて
狭い範囲にしか影響を及ぼさないという
事なのです。そして低い波動どころか、
波動(振動数)がゼロの真空が、宇宙の
ほとんどを占めていて、その領域は
宇宙全体にゆきわたっています。
つまり宇宙全体との一体感というのは、
波動が低い方がより、感じられるという
事なのです。

以上のような事ででも低い波動(振動数)の方
が意識レベルが高いという事がイメージ
できると思います。
さて視覚領域より極端に波動(振動数)の
低い聴覚領域についての元記事が以下になり
ます。

視覚という現実はとても小さな世界   
五感のレベル編その2

では、視覚というものがどれほど
いいかげんで、しかも世界のほとんどが
見えていない状態なのかを詳しく説明
しましたが、今回は聴覚について説明して
いきたいと思います。
何度も引用させていただいている下の
画像をご覧ください。

“出典:「Madstone Mystery Labs. Inc
様”

このように視覚領域の範囲というのは、
とても高い振動数で単位が10の15乗
近辺にあるという事です。
その範囲を表すと400兆Hz~800
兆Hzなのでとても高い振動数だという
事がわかりますね。
(Tはテラという単位で兆という意味
です)
そして聴覚は10~20,000Hz
なので、これは視覚領域に比べて
はるかに低い振動数で、脳波の振動数
(眠らない状態で8~26Hz)
にとても近い領域である事がわかり
ます。
つまり思考や感情に近い振動数を感知
できるのが、この「聴覚」という事に
なります。
(しかも範囲は違っても視覚の範囲が
同じケタなのに対して、聴覚は4ケタ
にまたがっているので、視覚領域の
範囲がやたら狭い事もわかります)
なぜ振動数が高い視覚領域よりも、
振動数の低い聴覚領域や思考などの
方が、レベルが高いかというと、実は
宇宙全体の中で、振動する波動領域は
0.4%以下なのです。
あとは、ダークマターやダーク
エネルギーなど振動0の状態のものが
大半なので、宇宙全体の感覚に近いのが
当然振動0に近い、低い振動数の領域
というわけなのです。
宇宙は真空だとすでに最初の記事で説明
したように、根本的には振動=0が、
真実の世界で、意識はその領域にもちろん
あります。太古から賢人たちの教えに
あったように物質こそ幻想で、意識こそが
実体なのです。
ほとんど全てのスピリチュアリストや
意識の高さを説く人が、間違えているの
がこの部分です。
意識は振動しません。つまり高い波動
つまり(高い振動数)が高い意識レベル
というのは完全に真逆が正しいのです。
アイク氏も絶対意識領域で、内なる声に
よる「振動するものは幻覚」という
言葉を聞いたといいます。まさしく
高い波動ではなく、波動のない状態
が最高の意識であり、高いレベルの
意識は、より低い波動(低い振動数)
なのが正解だという事です。
だから低い脳波になればなるほど意識
レベルが高くなるわけです。
よく意識レベルの高い人のまわりに、
高い波動があると計測されるのは、意識
が高い状態であれば、振動0の真空から
無限のエネルギーを生み出せるので、
身体のまわりに、高い波動が創造される
わけです。しかし、意識は肉体にあるの
ではありません。
身体のまわりに高い波動を生み出す時の
意識は、身体より高次元のレベルにある
という事で、すでに物質の世界で感知
できない領域(これも単に狭い五感の
領域で感知できないというだけの事です)
にあるという事なのです。
このことは私の真理探究の成果の最も
核にあるもののうちの一つなので、
これから何度も、丁寧に説明させて
いただきたいと思います。

さてこれまでご説明してきたように高い
意識レベルは物質世界には囚われていま
せんし、全体が一つとして認識されます。
逆に視覚は、物質が存在し、それが世界
の構成物の主体のように錯覚し、全ての
見える対象を別々のものとして捉えます。
これを分離の感覚といいます。
つまり視覚は、高い意識レベルとは真逆
の意識に囚われてしまう感覚だという
事なのです。
そして今度は聴覚ですが、聴覚は視覚で
あれば壁に遮られるはずのもので
あっても、音は壁を通して伝わりますし、
外からは見えない家の中からでも人の
声やテレビの音、音楽などは、外でも
聞こえたりします。
つまり聴覚は物質の制約を受けにくい
ものであるといえるのです。
もちろん壁などの障害物のおかげで、
音量などは干渉を多少受けますが、
視覚のように物質に完全に遮断されたり
はしません。
波動が低くなればなるほど、物理的世界の
影響が少なくなるという事なのです。
だから意識や感情も物質である肉体から
離れた状態で、存在しているという事
なのです。
そして低い音の方が、遠くまで伝わります。
たとえば、家から音楽の音が聞こえてくる
とします。離れれば離れるほど、低い音
しか聞こえなくなるのがわかるはず
です。
たとえばカーステレオをガンガン鳴らし
ながら爆音を響かせて過ぎ去る、やんちゃ
そうな車から聞こえるのはメロディーでは
なく、低い音であるビートだけですよね。
いつもドンドンと音がなっているだけ
なので、ちっとも曲らしくなってません。
爆音も低い音のものほど遠くから聞こえて
きます。
つまり低い振動数である、低い音の方が
遠くまで伝わるという事なのです。

宇宙は一体で、振動0状態がほとんど
なのだから、低い振動の方が一体感を
味わえるし、さらに遠くまで伝わると
いう事なのです。
(ただし爆音やカーステから聞こえる
音は、ちっとも一体感を味わえ
ませんが、それは金属音や音楽の
音色に問題があるためです。)

このように聴覚や脳波の振動数に比べて
視覚の振動数を比べれば、その差が
歴然となって、真理への理解が深まる
という事なのですが、みなさんは、
振動数ではなくて、視覚領域は波長の
方で表示されるのを目にされて
いると思います。(波長は、振動数と
反比例する単位です)
もちろん視覚の振動数のケタがあまり
にも大きくなるので、波長の単位の方が、
わかりやすいからという考え方もあり
ますが、それでは振動数で表される
聴覚や脳波と比較検討できない事に
なってしまいます。
真理を深く追求するためには、それぞれ
を比較して理解を深めるのが当然なのに
大衆向けに提示される公式の科学や
教育は、そういう事には目を向け
させようとしていません。
こういう事も誘導の一つなのです。

しかし上の画像では、視覚領域と
聴覚領域の振動数を比較できるように
なっているので、ようやく理解できる
という事なのですが、なかなか見つける
事は容易ではありませんでした。

これで聴覚の捉える振動数の領域が
脳波に近い事で、高い意識レベルには
音楽がとても重要だという事もわかると
いうわけなのです。
実際、感動的な音楽はハートチャクラを
開き、高い意識次元を感知する能力が
高まります。
そしてまた言葉により、DNAが影響を
受けて書き換えられていくという事も
DNAの驚異の力編のまとめと再考
その1

で説明させていただきました。
つまりわれわれが高い意識レベルを発揮
させるためには、言葉による暗示も効果
的なのです。
私たち日本人の意識レベルというのは、
世界でもかなり高いという事で有名
ですが、その証拠の一つが以下にもあり
ます。


“出典:「eiken」様”

この図を見れば一目瞭然、日本語の方が
圧倒的に振動数が低いですよね。
つまり意識レベルが高いのは、日本語の
方だったという事なのです。
もちろん日本語での暗示の方が、高い
意識レベルに通じやすいという事なので
みなさん日本語を大事にしましょうね。
そういえば、いろんな国が「カン高い」
なー。やはり日本語よりもかなり振動数
高そうですね(^^)
もちろんそのおかげで、アピール力も
あるとは思うのですが、じゃあハートに
響く方は?となるとまた見方が変わる
とは思います。

またその高い意識レベルに通じやすい
聴覚に有効な音楽については、また別
の記事で詳しく書かせていただきます。

また五感については、視覚ももちろん
ですが、味覚や嗅覚や触覚も物質レベル
に囚われやすい感覚なのでやはり聴覚
よりもレベルが低くなります。
高い意識レベルになる臨死体験者は
視覚や聴覚は働いても、味覚や嗅覚
や触覚は全く働いていないという
報告が大半です。

さてとても長い記事を少し修正・加筆
などをさせていただいて、再掲させて
いただきましたが、聴覚が五感の中で
最もレベルが高いという事については
わかっていただけたと思います。

つまり肉体を離れて間もないつまり
最大49日の間は、死者の聴覚が
働き続けるので、チベットの僧侶
ラマが、死者を解脱に導くために
この死者の書を語って聴かせるという
わけです。

さてもちろん世界中の死者が、
チベット死者の書にあるような
中有界の体験をすると
解釈しなくても良いのです。
チベットの代々受け継がれた
信仰心は、大きな想念界を
築きあげていると想定できる
ので、死者の書が記された土地の
人々の死後の世界観が、やはり
死後の中有界にも反映される
からです。

解脱というのは、もはや肉体の
マトリックスに囚われる事なく
自在な意識を獲得し、時空を
超えた、本来のワンネスである
状態になるという事で、私が
ブログで再三最高の意識・境地と
位置づけてきた絶対意識
になるという事で間違いない
でしょう。

死者の書では、解脱をする事は、
仏になるという表現をしています
ので、仏とは仏教では、全知・万能
つまりワンネスの至福・大愛の存在
だという解釈なので、解脱とは
絶対意識となる事で、間違いないと
思います。

さてアニータさんが臨死体験中に
死者の書にあるようなパルドゥの
世界を、軽々と通過して、絶対意識
になる場合もあるという事です。

ただアニータさんが、戻れたのは
ほぼ仮死状態であった自分の身体に
生命の元型エネルギーがまだ
残っていたからだという事です。

この生命の元型エネルギーを
死者の書では、「生命の風(ルン)」
と呼びます。
このエネルギーは我々になじみの
あるエーテル体と同様だと考えて
良いと思います。

さて死者の書のような死後の
世界観を持った死者は、
死者の書にあるような想念界に
入るわけですが、その世界観を
持たない人々は、当然別の
想念界の領域に死後入るわけです。

真理を得るためには、あらゆる
死後の想念界に見られる
共通要素を解読していく事が
肝要だというわけなのです。

それを死者の書解読の記事
としてシリーズ化しようと
思っているのです。

さて今回は聴覚についてでした。

臨死体験を詳しく本にした
エベン・アレクサンダー氏は
地獄に近いような状態の
泥の中と思しき領域
から天界に、上昇する時に
聞いた事もない美しい旋律に
導かれたと語っています。

こちらですね。
「自分が何であれ、ここにいるわけには
いかない。ここを出ていかなくてはなら
ない。
出るといっても、どこへ?
その時だった、それを自問していると、
上方の暗がりから何かの姿が現れた。
冷たさのない、暗さとも死とも無縁の、
それらの正反対を表すもの。私が一生を
かけて説明しても、こちらへ近づいてきた
存在の美しさを表現することはかなわない
だろう。
 だが、それを試みてみよう。~
~闇の中から何かの姿が現れた。ゆったりと
回転しながら、金色がかった絹糸のような
白い糸を燦々と放射している。
光に照らし出され、周りの闇が崩壊し
始めた。
初めて聞く旋律も聞こえてきた。それは
「生きた」音色だった。どんな音楽も
かなわないほど豊かで美しい、妙なる
調べ。純白にきらめく光が下へ降りて
くるにつれて、しらべはいっそう強くなり
、永劫にわたって聞き続けた気がするあの
単調で無機質な音がかき消されていった。
光はぐんぐんこちらへ迫ってくる。~
~やがて光の真ん中に、別の何かが出現
してきた。~
~そのことに気づいたとたんに私は上昇し
始めた。猛烈なスピードだった。ヒュッと
音を立てて開口部をくぐり抜けると、見た
こともない別世界が広がっていた」
    
    ~引用終了~
“「」内全て出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

これは、泥のような世界から天界のような
高次元へ導かれる様子が描写されて
います。

やはりエベン氏も臨死体験でいったん
中有界のような領域に入り込んでいる
わけです。
この中有界で働く聴覚や視覚は、ラマが
死者に聴かせている時に働く聴覚とは
次元が異なります。

この中有界では、見えているものが
同時に聞こえているものでもある
ので、泥のような世界から抜け出す
のに、生きている光の旋律に
導かれたという事なのです。

とにかく豊かで美しい、聞いた事も
ないような生きた音色というのが
次元を上昇させるきっかけに
なっているわけで、いかに聴覚と
音楽が、大事な要素かわかって
いただけるかと思います。

また臨死体験や臨死共有体験
(死に行く人と看取る人達が
同時に意識の変容による異次元
の領域を体験する事)でも
共通要素として音楽を聴くという
ものがあります。

これも過去記事より引用しておきます。

「今回の臨死共有体験の共通要素は、
「音楽が聞こえる」というものです。
これは多くの臨死体験者にも共通する
事で、これも肉体から異次元に意識が
移行する時の特徴の一つだということ
です。
音楽というのは、五感で感じるものの
なかでは、最も高次元にあたるもので、
我々の多くは視覚に囚われがちですが、
それはむしろ、物質次元に囚われやすい
感覚なのです。
この点については、またじっくり説明
させていただきたいと思いますが、聴覚の
方が、高次元を察知しやすい感覚なのです。
ピタゴラスの紹介のところでも説明
させていただきましたが、彼は断食と呼吸法
の40日間の実践を経て、高次元の意識に
達し、ついにエジプトの学校に入ることを
許されました。そののち高次元の意識を
得ていたピタゴラスが、音階を発見し、
宇宙からの音楽である、「天球の音楽」を
聴いたというのだから、いかに高い意識が
音楽と密接に関係しているかわかって
いただけるかと思います。

では臨死共有体験の音楽が聞こえると
いうエピソードを、またムーディ氏の
著書から引用させていただきます。

“臨死共有体験にはまた、音楽を聞いた
という証言がよく聞かれる。死につつある
者も、またそばで付き添う者も、同時に
その音色を聞くことがある。
多くの人が音楽を聞いたという場合もある。
 死の際に音楽が聞こえたというこの現象
には、幾つかの型がある。一つの型は、
かつて私がメリーランド州でインタビュー
した、ある女性の証言に見られるような
ものである。彼女は夫の臨終の場で音楽を
聞いたという。以下は彼女の言葉である。

 「夫は昏睡状態で、人工呼吸器に
つながれていました。しかし私は、臨終の
時がそんなにも早く来るとは思っていま
せんでした。夫とともに私は病室で夜を
あかしたのですが、翌朝、私が目覚めた
5時30分に、夫は息を引き取りました。
それは夫の両親が病院に到着した直後
でした。
 夫が息を引き取る少し前、私は病室の
隅で、いすに腰かけていました。疲れ
果てていました。すると突然、ベッドの
周囲にたくさんの人がいることに気づいた
のです。まるで部屋が大きなステージで
あるかのようでした。人々がたくさん
集まっています。
 夫はベッドにいましたが、突然病室の
天井のあたりから、きらきらした光が
降りてきました。その時です、音楽が
聞こえたのは。
 私は『静かにして!』といって、耳を
澄ませました。音量が大きくなるにつれ、
その光も大きくなり、夫の上のあたりに
来ました。その音楽は私がそれまでに
聴いたことのない、非常に美しい、
巧みなものでした。
 またきらきらした光と連動していて、
私は音楽をあたかも目でみているよう
でした。音色の一つ一つが見えるかの
ようで、教会のハンドベル演奏を聴いた
ときのような感情を持ちました。
この上なく美しく、すばらしい音色でした。
 そんなとき、看護師が部屋に入って来て、
私の腕にふれて言ったのです。
『ご主人は亡くなられました』と。
夫はあのきらきらした光に触れられたとき、
息を引き取ったのです。」

(このエピソードは、エベン氏の
臨死体験中と酷似していますね。
ただしこの夫は、エベン氏のような泥
の世界を通過する事なく高次の領域に
行けたようです。
つまり光の旋律に導かれて・・・)

つぎに19世紀の研究家ガーニー・
マイヤーズ、およびポッドモアが書いている
実例をみてみよう。彼らは、リリーという
少女の家族にインタビューした。家族は
みな、リリーの死の数日前から、その死後
にわたり音楽を耳にしたという。
リリーの父は、部屋に満ちたその音楽は、
「イオルス琴(風で鳴る琴)のやわらかい、
また野性的な調べのようだった。」と
述べている。また母はこう述べた。
 「年配の看護婦と私のおばが、様子を
見に部屋に入って来ました。夫も一緒で、
みなリリーと部屋にいたのです。
私は台所に行っていました。・・・・・
そのとき同じイオルス琴のようなあの音楽
が聞こえました。部屋にいた3人全員が
聞き、また私も台所で聞いたのです。」”

“出典:「臨死共有体験」
レイモンド・ムーディー/ポール・ペリー著
 ヒカルランド刊”

このような音楽体験はこの本にもある
ように、臨死共有体験だけでなく、臨死
体験にも多くみられるものです。
また取り上げますが、エヴェン・アレク
サンダー氏は、著書の中で、臨死体験中
になんども音楽を聴き、またそれは目で
見えるものでもあったといいます。
ここでの見える音楽というのは、視覚が
優れているという意味ではなく、高次の
意識では目の視覚は働いていません、
もちろん肉体の機能が停止している
アレクサンダー氏についても同様です、
それではなぜ音楽が見えていると証言
しているのかというと、高次の意識の
世界では、五感は全て一体のものに
なっているということなのです。
ただ、五感の中でも物質的感覚のより
強い嗅覚や味覚はほとんど働きません。
とにかく、今回は音楽が異次元世界へ
の移行の時に経験する重要な特徴である
ことを紹介しました。」

音楽と聴覚が非常に大事だという事が
いくつものエピソードで裏付けられて
いますね。

かの偉大なギリシャの哲学者プラトンは
「音楽は、あらゆる芸術と呼ばれるもの
の中で、最もレベルの高いものだ」と
言い遺しています。

まず今回は、チベット死者の書から
読み取れる大事な要素の一つとして
五感の中では聴覚が最も重要である
という事でした。

まだまだ貴重な要素がありますので
一つ一つ記事にしていこうと思い
ます。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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臨死体験研究の先駆者ムーディ氏の過去生体験「貴族だって楽じゃないよ・・・という過去生」


幼少の頃に、前世の記憶が
残っている事例と違って、成長した大人
などが、「退行催眠」をかけられる事に
より、過去世とおぼしき記憶を意識的
に「体験」するという事例をこの
シリーズではご紹介しています。
よくわからないという方は
前世だけでなく、何度も繰り返す輪廻転生の
証明か?退行催眠で体験する過去生とは?

をご覧になってくださいね。

この記事は、
臨死体験研究の先駆者ムーディ氏の
過去生体験「今度はライオンの餌に!」

の続編になります。

今回もレイモンドムーディー氏が
退行催眠中に「体験」した9つの人生
の続きをご紹介します。

「」内が引用で、~が中略の意味です。


「  貴族としての死
 私は美しい住居にいた。夕方で、大理石の
壁はいくつかのオイル・ランプの黄色い
光で照らされ、きらきら輝いていた。
私は古代ローマの白いゆったりした上着
(トーガ)をまとい、今日の柔らかいソファ
のような長椅子に横たわっていた。私は
40代で、重労働をしない貴族の
しなやかな体つきをしていた。
 私は眠くなるほどの完璧な自己満足の
中にひたっていた。目の前には、15歳に
なる黒髪の息子がいた。息子はバルコニー
に立ち、下の光景を見ながら、しだいに
恐怖の表情を浮かべて言った。

「お父さん、どうしてこの人々はここに
押し入ろうとしているのですか」
私は、こうしたことは以前にもあって
心配の必要はないと思っていた。

「息子よ心配はいらない。兵士たちが
守っているのだから」

「しかし、お父さん、あんなに多くの人々
が詰めかけています!」

息子がいうので、私は立ち上がり、
バルコニーに行って様子を見た。数人
の兵士たちが、怒れる群集を押し返して
いたが、あまりに大勢なので対処しきれ
ないようだった。
息子がああいうのも無理のないことだ。
息子は、私のあわて方を見て、ますます
そう思ったようだった。
 生の記憶はそのあたりで途切れた。
記憶が切れたのは、怒れる群集の手に
かかった直後だったように思う」

これは、前回ご紹介したこの一つ前の
人生が、ローマ人に囚われて、ライオン
のえさになってしまった事の反動で、
今度はローマ人となって生まれ変わった
というわかりやすい人生になっています。
ですが、満足した生活も、やはり最後
には暴動の人々の手にかかって殺されて
しまうという悲劇として終わってしまった
ということなのです。
こうしてろくな事がない人生続きの
ムーディー氏の過去世ですが、9つの人生
で幸せなものだといえるものは、一つも
ありませんでした。
そのような過去世を持つムーディー氏の
今生は、なんと何千万部も売り上げる
ベストセラー著作家として大成功するの
だから、まさにこの人生のために過去世の
体験があったのではないかと思える
くらいの大逆転ですよね。

さて抜粋で取り上げる最後の過去世を
ご紹介しましょう。

「 中国人画家
過去世における私の最後の生は、中国人画家
だった。女性の中国人画家である。
私は回顧の中で、少女時代と青春時代を
すばやく通り過ぎ、そののち画家としての
幾つかの場面を思い起こした。ときに
キャンパスの視点から自分を見つめ、絵筆を
キャンパスに軽くたたきつけるように描く
感覚をも感じ取った。
 この生の幾つかの場面は、断片的だが
詳しく覚えている。ある日、通りの真ん中で
私が友人と話していると、明るい光が突然
私たちを照らした。一体何だと思った私たち
は、近くに住む賢人のところへ行き、見た
ことを話した。彼は当惑していたが、
そのような光を見たと報告してきたのは
私たちだけではなく、ほかにもいるという。
ただそれが何かは彼にはわからなかった。
 他の場面では、私は年老いたおばに
会うために、大きな石造りの家に出向いた。
60代くらいの彼女は私を可愛がって
くれて、私の到着を待ち望んでいた。
灰色の髪をうしろで編み、綿のシャツと
ズボンという姿で玄関先に立っていた。
 次の場面は、その生の最後の日だった。
私は貧しく、一つのベッドとストーブ、また
絵の具を置く狭いスペースがあるだけの
小さな家に住んでいた。そこは街の安全な
地区ではなかった。夜、若い男が家に
やって来て、私を縛りあげた。物質的なもの
は何も盗まなかったが、彼にとって何の価値
もないものを取り上げた。彼は私の命を
奪ったのだ。
 私は死んだ瞬間、自分の体から抜け出た
のがわかった。
私の命を奪ったその男の姿が下方に見えた。
彼は私の遺体の上に立ち、誇らしげな様子
をしていた。なぜ彼が、私のような年老いた
女を殺したいと願うほどに思いつめたのか、
そのわけを知りたいと私は思った。
だが体の外に抜け出た状態で私は彼に
話しかけたが、その声は届かなかった。
記憶はそこで消失した。」

これが目覚める前の、この過去世体験の中で
一番現在の人生に近い体験というだけ
あって、記憶が詳細に残っていたようですね。

他の過去世の記憶はどちらかというと死の
直前の印象的な場面が多かったわけですが、
この人生では、わりと人生のダイジェスト
のような体験が記憶されているようですね。
その場面もいくつかは詳しく覚えていて、
友人と話をしている時に突然明るい光に
照らされたという経験をしたようですが、
これはおそらくプラズマの光であろう
と思われます。時空のゲートや異次元の
ゲートが開いた時や、時空のゆがみが
生じた時にも見られる状況で、これは
神秘メッセージの
「超常現象と電磁界異常編」で詳しく
取り上げていますのでよろしかったら
またご覧になってくださいね。
他にもその光を見た人がいたという
事は、かなり広い範囲かまたは強力な
プラズマ現象があったのだろううと
思われます。
ただこのときの画家であるムーディー氏
には直接何も起こっていないようで
したね。
しかし詳しく振り返る事のできた人生も
最後は、老女になってから殺されたと
いう悲劇で終わったようです。
やはりここでも臨死体験をして、肉体を
離れた視点からの状況と、その時に
生きている人への声が届かないという
次元に移行していた事の描写があり
ます。
これらの過去世は、全て臨死体験や
死後の意識の存在、肉体を離れた意識
の存在、目がなくても「見える」こと
などあらゆるこれまでの研究成果を
裏づけてくれていますね。

最後に退行催眠から戻ってきた時の
ムーディー氏の状況を引用しておき
ます。

「デンホルムは私の隣に座りながら、
私を催眠状態から覚まし、「現世」に
私を戻そうと努力していた。
「現世」とは、以前の私なら考えも
しなかった言葉だ。しかし今ではその
意味がよくわかる。
 退行催眠を経験する前、私は今の
人生だけが現実で、いわゆる過去世
といわれるものは幻と思っていた。
しかし、私は今や、催眠療法士の椅子
に腰かけながら、自分が様々な過去世
を実際に経験したのち現世にいること
を感じていた。
私は過去世があることを、ほとんど
信じかけていた。」

“以上「」内全て
出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

このあとムーディー氏は、それまでの
臨死体験の本とは、またテーマの異なる
過去世についての本を出されます。
邦訳をされていませんが、原著を私は
持っていますので、またご紹介して
いこうと思っています。

「COMING BACK A Psychiatrist
Explores Past-Life Journeys」
という本です。

やはり実体験というのは、特に実感と
して信じやすくなるものだという事
ですね。私もこれまで、金縛り、
空中浮遊体験、体外離脱などを経験
してきましたし、予知や覚醒夢なども
何度も経験していますが、やはり
そういう事も研究へのモチベーションに
つながっているのだと思いました。
そういえばうっすらと、古めかしい
大きな家の縁側で、泣いていた赤ん坊の
体にいて、その後それを上空から眺めて
いる夢を見た記憶がありまが、これも
過去世なのか、うっすらとした記憶
すぎてわかりません。

さてムーディ氏の9つの過去生の
エピソードは以上ですが、
次回からは、あらゆる過去世を研究する
事になったムーディー氏の成果である、
過去世体験の共通事項について、ご紹介
したいと思います。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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