チベット死者の書の解読第五弾!臨死体験や対外離脱との共通点と違和感について


この記事は
チベット死者の書4「ちっぽけな自分」
という認識では解脱は不可能という事が、
臨死体験者の報告で確信できる!

の続編です。

これまでチベット死者の書を
ご紹介しながら解説してきましたが、
基本的にそれをうのみにするという
姿勢ではありません。

第一、いろんな仏が順番通りに
やってくるというのが、そもそも
ない事なのだろうなというのが
感想です。

ただし、死者の書にあったように
死者は死後しばらく聴覚は働き
続けている(それゆえラマ僧が
読経で死者に聞かせている
という事です)ので、催眠効果
と同じ作用が働いている可能性が
高いのです。

つまり死者の書を読経する
ラマ層の言葉を霊的領域で
聴けるという死者は、いわば催眠
効果で、そのイメージを取り込む
事もできるので、その場合
は、ラマ層のイメージするように
順番通りに仏尊体が、現れるのを
死者が目にする、またはイメージ
として捉えるという事はあり得る
と思います。

催眠効果についての記事から参考
になるものを取り上げて
おきましょう。

催眠術とは意識をジャック(乗っ取り)
して一体化するという事だった!

記事より


バーゲンシュティッヒア(引用注:ドイツ人
医師)は超常現象にまったく関心がなく、
催眠下で「透視能力」を発達させた患者の話
などいっさい信じていなかった。しかし、
これが偶然であり得るかどうかを調べるだけ
の度量は有していた。
驚いたことに、彼女(引用注:患者の一人
マリア・デ・ジェロルド)は疑いようの
ないサイキックをあらわした。
マリア・デ・ジェロルドは、催眠術をかけ
られた人間は術師の思考や感覚を共有できる
という、サー・ウィリアム・パレットや
ピエール・ジャネらの見解を裏付けた。
パレットはかつて、自分の手を炎の上に
かざすと催眠術にかけられた少女が顔を
しかめ、砂糖をなめると微笑することを発見
した。マリア・デ・ジェラルドは、次のよう
に断言している。「深いトランス状態に
はいっているあいだ、私の五感はすべて
閉ざされる。ただ閉ざされるだけでなく、
催眠術師のほうに転移される。私は彼の
耳が刺された痛みを感じ、彼の舌にのせら
れた塩や砂糖を味わい、彼の耳に近づけた
時計の音を聞くことができる。そして
彼の指にマッチが近づけられると、私も
火傷(やけど)をしそうに感じるのだ。」
 催眠状態で目を閉じている彼女には、
もちろん何も見ることができない。
しかし、バーゲンシュティッヒアが自分を
見るよう命じると、彼女はまず彼の立って
いるところに影のようなものを感知し、
それからごくふつうの映像を見た-しかも
それは、彼が彼女の背後に立っていようと
変わりがなかった。
    (中略)
奇妙なことに、マリアはバーゲンシュ
ティッヒアとの距離が遠いほど、強く彼を
感知した。
    (中略)
 さらに不思議なことに、彼女は、自分の体
と彼の体が発光性の「電気的」性質を帯びた
「紐」によってつながれていることに気づく
ようになった。シルヴァン・マルドゥーンも
投影されたアストラル体(引用注:霊体の
ようなもの)が同種の紐によって肉体と
つながれていたことを語っているし、
アストラル体投影を体験した者でこれに
言及している者も多い(全員ではない)。
つまりマリア・デ・ジェラルドのアストラル
体は、催眠下でパーゲンシュティッヒァの
のものと接続されていたのであろうか。

“出典:「サイキック」
       コリン・ウィルソン著
   荒俣宏監修・解説 梶元靖子訳
           三笠書房刊 ”

もちろんその通りです。彼女の見た催眠術
師と接続されている電気的性質を帯びた紐
は、プラズマの事です。このプラズマは、
生命のある間肉体に宿っているもので、
それが亡くなった患者から抜け出る白い
光る雲の事です。これは魂と呼んでもいい
と思います。
つまり彼女の見たレベルというのは、
プラズマのレベルで、催眠術師と自分が
一体になっているという事です。
もともと潜在意識のレベルでは意識は一体
なので、催眠術師とマリアの意識が連結
されるのは当然可能なのですが、トランス
状態にある彼女が、その連結をプラズマの
紐として感知できたのはとても興味深い
ですね。】

要するに催眠術というのは、被催眠者の
脳波が睡眠状態になる事で、左脳が
休止するので、五感で遮断される事
なく、肉体を超えた領域での知覚のみ
働いている状態です。
なので、体外離脱や臨死体験のような
状態になっているので、まわりの
ものとの一体感が得られる状態に
あるという事です。
その知覚に催眠術者が主体的に入り
込んでいくので、被催眠者は、
催眠術者の言う事を受け入れ、また
また催眠術者が体感するものまで
知覚するようになるという事なのです。

睡眠状態は、脳波が低くなる事によって
催眠術者の言っている事を受け入れ
ますが、死者の場合は、もちろん脳波が
ゼロになっているので、ラマ僧と、
より一体になる事ができて、その
読経の内容や、ラマ僧のイメージを
そのまま感じ取る事ができるように
なっているという事です。

なので、ラマ僧が唱えるように、仏尊体が
順番に表れるのを知覚する事ができる
可能性も高いという事です。

こうなるとやはりこの読経は、
死者に解脱を導くためのものではなく
例え来世に生まれ変わるとしても
仏教を信じる魂として生まれて
くるように仕向けるためのものである
と観る事ができてしまうという事です。
なんせ、解脱のための言葉とは、
毎日最初に仏尊体が現れた時に、
それが死者自身の内側から出て来た
ものだとわかるのであれば、解脱を
するというその、簡単な一言だけです。

ワンネスの理解のないような一般の
人にはなんの事やらわからないはずです。

で理解のない人にはただひたすら、
仏尊体にすがるように説いて
いる事で毎日の読経を終えているので、
次の日には、仏尊体にすがるように
言われた事だけ強く印象に残したまま
、ラマ僧の読経を聞く事になるわけ
です。

これは解脱に導くためのものではないと
読み込んでいけばわかるものですが、
素直にうのみにするような人達には
そう思えない人も多いのでしょうね。

ただ死者の書には死後、人がどのような
領域にあるか、解脱のためには、
どのように理解すれば良いかのヒント
があるので参考にしているわけです。

さて、死者の書は、14日目まで
寂静尊の神群と憤怒尊の神群が
次々に現れ、さきほどの説明通り
のパターンを繰り返すのですが、
それでも解脱できない場合は、
とうとう生まれ変わり、つまり
再生のコースに死者が行きかける
のを阻止するための読経が行われる
わけです。

それを胎の入り口を閉ざす方法
というのですが、胎とは受胎の
事で、母体に魂を宿らせるのを
阻止して輪廻転生を防ごうという
事です。

もちろんこの受胎は、人間で
あるとは限らず、畜生と呼ばれる
動物や様々な生物の可能性が
あるという事です。

まあもちろんこれも額面通りに
受けとる事はないと思います。

基本的に人の魂が、時間という
マトリックスに囚われたまま、
再生するとしても、たいていの
場合、人間として生まれ変わる
と思います。
というのも、死後の領域でも
人生の記憶が鮮明に残って
いるからです。

これは臨死体験で得られる
報告と臨死共有体験という
臨死状態にある人のそばに
いる人が、死に瀕した人の
そばで、その人の人生を
共に回顧するという報告の
ものがあります。

こちらが参考になるでしょう。


臨死共有体験には、死んだ人と
「人生回顧を共にする」「人生回顧を
共有する」という、目を見張る体験が
含まれることが多い。地上で歩んできた
全人生を、パノラマを見るように、共に
概観したり、とくに重要な場面を回顧
させられたりする。
近年の臨死体験研究協会の調査に
よれば、通常の臨死体験者たちの約23%
が人生回顧の場面を経験したとしている。
以下はみな、そうした人生回顧の典型的な
例である。

「私が病室で体外離脱すると、やがて私の
目の前に、自分の人生の回顧が始まりま
した。私は教育にたずさわり、多くの人を
教えるようになると告げられました。
そして今まさに私はその仕事をしてい
ます。」(スティーブ、62歳、
心筋梗塞患者)

「私はそのとき、自分の人生の良かった
点だけでなく、失敗や間違っていた点なども
見せられました。」(ジェンナ、56歳、
自動車事故)

「私は自分の人生のすべての重要な場面を
見せられました。私の誕生から、初めての
キスまで。両親との確執の場面もです。私は
自分がどんなに利己的だったのかがわかりま
した。
そしてどのようにすれば本当の自分を取り
戻し、変えられるかも知りました。」
(ドナ、19歳、自殺未遂)

これらは、通常の臨死体験中の人生回顧
だが、そうしたものと、臨死体験中の人生
回顧は異なる面を持っている。というのは、
、死にゆく人に付き添うなどしている
ときに人生回顧をした人々自身は、臨死
状態にないということである。
にもかかわらず、死にゆく人の人生回顧の
場面を共有する。
そうした臨死共有体験中の人生回顧を
言葉で言い表すならこんな感じになる。
「私は、亡くなったばかりの夫とともに、
大きなスクリーンのようなものの前に
立っていました。すると夫の過去の人生
がそこに映し出されたのです。幾つかの
場面は、私がそれまで全く知らないもの
でした。」
たとえば、かつてサン・ディエゴの
ある女性が、10代の息子の病床で
起こったことを私に話してくれたことが
ある。
息子は、糖尿病の合併症のために死に
かかっていた。息子が死んだとき、彼女
は、その病床の周囲に展開された息子の
人生の各場面を見た。
彼女によれば、映画のように展開さ
れるその各場面のただ中には、自分も
立っているように感じたという。
以下は彼女自身の記述である。
(中略)
「私の15歳になる息子が亡くなったとき、
私は病室で息子と共にいました。息子は
小さいときから糖尿病をわずらい、その
重荷を背負ってきました。その世話も
あって、私はいつも息子とともに生きて
きました。
息子が息を引き取ったとき、私はその手
をにぎっていました。そのとき命が息子
から出るのが感じられました。電気の
流れのようにと言ったらいいでしょうか、
あるいは脈打つ感じで出た、といった方
がいいかもしれません。
部屋は、一瞬にしてすべてが形を変えて
見えました。また一転してその病室に
強い光が満ちました。その光は、自分で
見たことのない人には到底想像もつかない
ような明るい光でした。
病床の周辺に、息子がその短い人生で
なした様々な事柄が、映像のようになって
現れました。息子はそれらの映像を見て
いました。喜びの表情を浮かべながら。
(中略)
光の中で、息子と私は人生回顧の映像に
接しました。細かな事柄に至るまでです。
わたしが長く忘れていたような場面や、
私が全く知らなかった場面も多くありま
した。
たとえば、息子が自分の部屋でひとり
『アパッチ砦ゲーム』を使って遊んで
いた姿や、息子が友人たちと電話で話し
ていたときのことなどです。
(中略)
その人生回顧は、閃光のように、ある
いは放電のような感じで次々に展開して
いきました。
それは言葉ではうまく表現できない、
言語に絶するものでした。
そのとき私は40歳でした。今は62
歳です。しかしあの体験以来、あたかも
すでに100年は生きたような感覚です。
それを悲しく思っているのではなく、知恵
の面で100年分は成長した感じなの
です。
(中略)
私が死ぬとき、また息子に再会するとき
には、きっともっと多くのことを知るように
なると思います。
それまでは、たとえわからないことが
あってもこの地上にいて、他者を愛し
仕えつつ、人生を歩むのが私の勤めで
あると思っています。」”
“出典:「臨死共有体験」
レイモンド・ムーディー/ポール・ペリー著
ヒカルランド刊”

結局死後の領域でも、人としての鮮明な
記憶、しかも生きている時とは比べもの
にならいないほどリアルで、さらに
関わった人の心の中、その人たちの
視点や気持ちなども全て記録されて
いるというのです。

これで別の生命に転生するという
事は、たぶんないだろうと思います。

つまりこれも輪廻転生を恐れさせる
ための宗教色の強い脚色だと
思いますね。

なぜ恐れさせるかというと、その恐怖
から逃れるために、絶対的な仏に
対して、さらにすがろうという意識が
強まるからという事です。

さてチベット死者の書には、貴重な
知識が読み取れる事が多いのですが、
やはり死者が霊的領域に移行した時
に、生きている間よりも、超人的な
種々の能力を備えているという事。

これは数々の臨死体験者も異口同音
に報告している事です。

たとえばこちら
臨死体験者アニータさんの言葉
『私は身体の五感ではなく、まるで新しい
感覚を手に入れたように限界のない
知覚を使っていました。
それは通常の能力よりもはるかに鋭く、
360度が見渡せて、自分の周囲を完全に
認識できました。
驚嘆すべきことのようですが、それが普通に
感じられたのです。
もはや身体の中にいることのほうが、制限
された特殊な状態であるように感じられま
した。
その世界では、時間も違うものに感じられ
ました。私は全ての瞬間を同時に感じて
いたのです。
つまり過去、現在、未来の自分が関係する
あらゆることを、同時に認識していました。
さらに、いくつかの人生が同時に繰り広げ
られているのを感じました。』
“出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

別の臨死体験者の言葉

・・・あらゆるものが最初から、私の
誕生も、祖先も、子供たちも、妻も、
すべてが同時に現れた。私のすべてが、
周りにいる全員のすべてがわかった。
彼らが今考えていることも、その当時
考えていたことも、以前起きていた
ことも、今起きていることも、
なにもかもがわかった。時間という
ものはなかった。連続した場面も
なかった。距離や時代や、時間や
場所による制約もなかった。私は
望みの場所のどこにでも、しかも
同時に居ることができた。』
“出典:「ハイジャックされた
地球を99%の人が知らない」
   デーヴィッド・アイク著
    本多 繁邦訳
       ヒカルランド刊”

で死者の書ですが、死後二週間以上も
経ってからようやく、大事な事を
諭していきます。


これまでに胎の入り口を閉ざすための
深遠な正しい教訓(おしえ)は
たくさん説かれてきた。これらの
お導きによって、能力の高い者・
中間の者・劣った者の区別はなくて
誰でも解脱できないことはないはず
である。なぜかといえば、バルドゥに
おいてはすべての者が生前よりも
次のように優れているからである。

まず第一に、バルドゥにおける意識
は、汚れてはいるが超能力(神通力)
があるからである。導師がなにを
言っても死者には聞こえてしまう。
(引用注:汚れているというのは
当然物質的な汚れではなく、解脱
レベルよりは、意識が低い状態に
ある事をいいます。
ただ死者にとっては、生前よりも
ずっと清廉な意識となっている
ので、自覚的には汚れてはいない
という事になります。)

第二に、生前において視覚や聴覚
に欠陥があっても、この死後の
時にあってはもろもろの感覚器官
は完全である。なにを言われても
理解できる。

(引用注:臨死体験者の報告に
よると自分自身も迎えにきた
親族も、生前の最も若々しい
姿をしているとの事です。)

第三に、常に恐怖とおののきに
打ち負かされ、《どうしたら
よいのだろう》と念じているために
気持ちが他に散ることがない。
そこで導師である私がなにを
言っても聞き、これを理解
することができる。

(引用注:これが大きな間違い
であろうことは、臨死体験者の
数々の報告が裏付けています。
基本的に身体にいる時には
存在していた、恐怖や苦痛、
苦悩などのネガティブな感情
とは無縁になっているうえに
気が散るどころか、あらゆる事を
同時想起できているので、導師
の言葉だけを聞いているわけ
ではありません。
これも宗教色の強い脚色部分
でしょう。
そして導師がなにを言っても
聞いて、理解できるというのなら
これまで二週間以上も解脱の意味
さえ理解できていない状態を
どう弁解するのでしょうね。
実際この胎の入り口を閉ざす方法
で、解脱の意味をようやく
丁寧に説明しはじめている
のですが、だったら最初にそれを
言えよという事です。
とにかくずっと、仏にすがれ
という事だけは、毎日丁寧に
言って聞かせていたわけです。
解脱をさせたいから説いている
と言いながら、解脱の理解の
ための説明が後回しというのは
どういう事なのでしょうかね。)

第四に、意識がよりどころとする
身体を持たないので、なにに対して
意識が集中された場合でも、直接に
そのものに到達することができる。
そこで意識が容易である。
記憶力が九倍も明晰になるので、
生前に愚鈍であっても、この時には
カルマン(業)の影響力によって
意識はだんだんに明晰度を増す。
なにを教えられてもそれをすべて
心に描くことができる能力(功徳)
がそなわっている。

以上のような点で、バルドゥに
おける死者の意識は生前よりも
優れた能力がある。』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

まず記憶力が九倍もというのは
単なる死者の書による着色
ですね。
まず測られていないのは明らか
です。
実際どのようにして測るか
想像してみてください。
無理でしょ?
要するに、歴史的な書物で、多く
の人に支持されているもの
だからとうのみにする必要は
ないということです。

ただ理解力がずば抜けているのは
間違いないので、解脱について
より詳しく説明すれば、容易に
解脱できるわけです。

なのに、二週間以上も経ってのちに
ようやく胎の入り口を閉ざす方法
として、解脱についての詳しい
説明がなされるというわけですが
次のようなものです。


「しかしそれによっても胎の入り口を
閉ざすことができずに汝が胎に入ろう
とするならば、さらに〈ものは実在せず
、幻のようなものである〉という教訓
(おしえ)によって胎の入り口を閉ざす
べきである。すなわち次のように念ず
べきである。
《ああ、これまで父母=御仏男女両尊・
黒い雨・大暴風・大音響や、それに
恐ろしく脅かす忿怒尊、その他さまざまな
姿が現れてきた。これらの存在はすべて
その本質が幻のようなものである。
どのように現れてこようとも実在しない
ものである。これらのすべてが実在
しない。虚妄であり、陽炎のような
ものである。常にあるものではない。
不変なものではない。こんなものに
愛着してなんになろうか。敵意を
もってなんになろう。無いものが有る
ように見えているのである。これらの
すべては、私自身の心が現れでたもの
なのである。心それ自体が幻のように
もともと存在しないのである。

(引用注:この場合の心とは、日本人
が思うような心ではなく、囚われた
ボディマインドのような認識または
知覚の事を言います。
日本人の心とは中心に愛を持つ時点で
究極のワンネスの意識につながるので
これは永遠不変に存在するものです。
それとこの場合の私自身とは、死者
本人の事です。導師が本人に念ず
べき事を語っているという事です。)

外からこれらのものが来るのだと
したら、どこから来るのだろうか。
どこにも存在するものではないので
ある。私は以前にはこのことを理解
できずに、無いものを有ると考えて
いた。実在しないものを実在すると
考えていた。幻のようなものを
実在だと執らわれていた。それで、
この時に至るまでの間、輪廻し
彷徨ってきたのである。今また
ここで、これらが幻であることを
覚らないならば、長い間さらに
輪廻し彷徨って、さまざまな
苦悩の泥沼にはまりこむことは
確実である。
 今こそこれらすべてが夢の
ようなものであると覚らなければ
ならない。幻のようなものであり、
反響(こだま)のようなもの
であり、ガンダルヴァ城(蜃気楼)
のようなものであり、陽炎のような
ものであり、鏡の面に映る月の
ようなものである(八喩・はちゆ)
と覚らなければならない。たとえ
ほんの僅かの時間でもこれらの
もの実在性があることはない》

(引用注:このように唱える
ように諭すのですが、まあ今まで
実在となっていたものが幻である
という丁寧な説明は良いとしても、
それで一般の人間がわかるもの
でしょうか?まあもちろん私の
記事による真空の説明も難解だと
言われる事もあるので、なかなか
解脱の理解をイメージさせるのは
難しいものです。ただこれまでの
二週間以上もの間、さらっと
これらのものは自分が投影させた
ものであると覚れるならば解脱
できるであろうなどとさらっと
言われた時よりかは、丁寧な
解脱のための説明だと思います。
期待したいのは、死後のこの
バルドゥつまり中有界においては
死者の理解力が、生前よりも
ずば抜けて高い事ですね。)

〈絶対に実在ではなく、虚妄な
ものである〉と、精神集中を
行って心に決めて動揺しない。
そのようにすれば、これらの
ものを実在であると執らわれる
考えは消えていくであろう。
このように心の内に確固とした
信念を持つならば、我があると
執らわれる考えは退いていく
であろう。このように、〈これら
のものは虚妄である〉と心の底
から覚るならば、かならず胎の
入り口は閉ざされるであろう。』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

二週間以上も、仏尊体へすがり
ついて祈るようにとばかり強調
されてのち
ようやく胎の入り口を閉ざす方法の
四番目として、解脱するための説明が
比較的丁寧に語られます。

ですが、それまで順番に仏尊体が、
あたかも実際に現れたかのように
説いておきながら、全ては幻でしたと
今さら言われても、すぐに納得できる
ものでしょうかね。

全て、本人の心の内から出てきた
幻影であるというのは、良いのですが
心さえも無いというので、余計に
混乱すると思います。

心が、囚われたマインドのような
ものだとしたら、幻影だとしても
良いと思いますが、ワンネスの愛に
通じる心は、日本人の解釈としては
究極の意識につながるもので、
それこそは実際に存在するものだと
言えます。

つまりワンネスの意識は、日本語の心
にも通じるし、どちらも幻などでは
なく、むしろ永久不変に存在するもの
だと言って良いのです。

このワンネスの意識の事を、仏教では
究極の仏だとしている
わけですので、
それと一体になる事、つまりワンネス
の意識そのものになる事こそが、解脱
だという事になるわけです。

解脱のための説明にしては、心(意識)
さえも幻というのでは、死者も理解
不能になる恐れがありますし、実際に
適切な説明ではないと思います。

全てが内側にあり、全てを創造・消滅
させ得る、究極のワンネスの意識は、
幻などではなく、唯一確かに実在する
ものだという事を知り、それが自分
自身でもあるという事を、悟れば
解脱して、ワンネスの意識そのものに
なれるという説明の方が、すっきり
納得しやすいのではないでしょうか。

いつもありがとうございます(*^_^*)

人間の真の偉大な力編

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現実自体を変えられるというイメージで会話した二人が、実際にそのような場面に遭遇する!


この記事は、
現実自体を変えられる驚異の超常能力!
驚きの世界を現出させた奇跡の
少女の実例

という記事の続編です。
まだお読みになっていない方は、
今日再投稿しましたその記事を
ご覧になってから、この記事をお読み
くださいね。

前回の現実自体を変えられる能力
という記事は、私たちが日々確実に
機能していると思い込んでいる
現実感覚がどれほど確かなものか
考えさせられる実例でした。
実際に私たちは、目の前にある
ものが、絶対的な現実であるといい
切れるのか?これまでご紹介した
超常現象や臨死体験事例などは、
私たちが、現実のほんの一部しか
捉えていない事を示唆してくれる
ものでした。
その私たちの現実感覚をまたしても
揺るがす事例をご紹介しましょう。
幼少の頃からポルターガイストなど
の神秘体験とともに育った、
マイケル・タルボット氏の著書から
引用させていただきます。
これは先日の記事でご紹介した
森を出現させる少女の実例の
あとに続いた部分です。

「一九七五年、ミシガン州立大学の
四年生だったとき、私もこれと同様の
、現実感を根底から揺るがすような
深遠な体験をしたことかある。
そのときわたしは、ある教授と
レストランで夕食をともにしながら、
カルロス・カスタネダのさまざまな
体験の哲学的な意味について語りあって
いた。特に話題になっていたのは、
『呪術師に成る』(二見書房、一九七四)
の中でカスタネダが述べていたある
出来事だった。
ドン・ファンとカスタネダは、ある精霊
を探し求め、夜の砂漠を行くのだが、
そこでふたりは仔牛のような外見であり
ながら、狼の耳と鳥のくちばしをもった
生き物に遭遇する。その生き物は体を
丸め、断末魔の苦しみにあえいでいるか
のような叫びをあげていた。
 最初はカスタネダも恐怖に駆られるが、
自分の目にしているものはとても現実
ではありえないと自分自身に言い聞かせる
と、彼の視覚は変化し、この死にやく
精霊が、実は地上に落ちた木の枝が風に
震えている姿であることを悟る。
カスタネダは勝ち誇ったようにこの生き物
の真の姿を指摘するのだが、いつものように
この年老いたヤキ・インディアンの
シャーマンはこれを頭ごなしにこきおろす
のだった。カスタネダに対し彼はこう
言った。
この木の枝は、力に満ちていたときには
実際に死にゆく精霊だったが、カスタネダが
その存在に疑いをもった瞬間、それは木の枝
に変容してしまったのだ、と。しかし、
ドン・ファンはこのどちらも現実であること
には変わりがないとも強調する。

教授との話の中で、私は二律背反的な現実が
どちらも現実として存在できるという
ドンファンの主張にはどこか惹かれるものが
あり、この考えによって多くの超常現象が
説明できるような気がしてならないと
言った。
この話をしたすぐ後に私たちはレストランを
出たのだが、晴れわたった夏の夜だった
ので、ちょっと散歩でもしようということに
なった。
話を続けながら、私は前を歩いている数人の
グループに気がついた。耳にしたことのない
外国語で話していて、騒がしく声を上げて
いたので、かなり酔っているように見えた。
また、そのなかの女性のひとりが緑色の傘を
もっていたが、雲ひとつない夜空だったし、
雨が降るとも聞いていなかったので、なにか
変な感じがした。
 私たちは、ぶつからないように歩くペース
を落としたのだが、そうしているうちに、
突然この女性は手にした傘をぶんぶんと
乱暴に振り回しはじめた。傘は空中に巨大な
円を描き、ぐるぐるまわるその先端は、
何度か私たちの鼻先をかすめそうになった。
私たちは、歩く速度をさらに落とした
ものの、このパフォーマンスは私たちの
注意をひくためのものであることが明らか
になってきた。そして、私たちの視線を
自分の行為にしっかりと釘付けにしたこと
がわかると、彼女は両手でこの傘をもち、
頭の上にかざすと、私たちの足もとに
投げつけてきたのである。
 いったいなぜそんなことをするのか
不思議に思いながら、私たちはふたりとも
あっけにとられてその傘を見つめていたが
、次の瞬間、目をみはるようなことが起き
はじめた。
この傘が、まるで消えかかっている
提灯の炎のように「明滅する」としか言い
表しようのない状態になったのだ。
そしてセロハンをくしゃくしゃにしたとき
に出るような、バリバリという音をたて
ながら、目を奪われるような色とりどりの
まばゆい光を発すると、先端が曲がりだし、
色が変化して、灰色がかった茶色の
ふしくれだった棒きれにその姿を変身
させてしまったのである。
私はただ呆然として、しばらくは口も聞け
なかった。教授のほうが先に口を開き、
明らかにショックを受けた静かな声で、
たしかにこれは傘だと思ったのに、と
言った。
何か尋常でないものを見ましたかと
聞くと、彼女(引用注:教授が女性
だという事です。)はうなずいた。
ふたりでそれぞれ何が起きたかを書き
とめてみたが、内容はぴたりと一致
していた。
違いらしい違いと言えば、教授の
ほうは、傘が棒きれに変容したとき、
「ジュージュー」という音がしたと
書いていたことだが、これもセロハン
をくしゃくしゃに丸めるときの音と
そうひどく異なっているとは言え
なかった。~
~教授も私も、傘の不思議な変身に
完璧に目を奪われてしまい、やっと
落ち着きを取り戻して何かたずねよう
としたときには、すでに彼女らの
姿はどこかに消え去っていた。
いったいなぜこのような事件が
起こったのかはわからないが、ただ
ひとつ言えるのは、カスタネダの
同様の体験を私たちが話し合って
いたことと関係があるのは明らか
だという点だけだろう。」

“出典:「投影された宇宙」
    マイケル・タルボット著
      川瀬 勝 訳
         春秋社刊 ”

これは現実自体を変えられる超常能力 の記事
でご紹介した事例に似た事例を、著者で
あるマイケル・タルボット氏自身が、
体験した事を紹介しているわけですが、
まさに幻覚のようにも見えますが、
本人達にとっては明らかな現実であった
というわけです。
これは催眠効果に似ていなくもないよう
に思われる方もいるかも知れませんが、
私たち自身が、一種の催眠効果で、現実
を捉えているともいえるわけです。
この事は、「五感にもレベルがあります」
シリーズの一連の記事をご覧になれば、
よくわかっていただけると思いますが、
要するに、とてつもなく狭い領域の
五感の感覚が、現実の全てのように錯覚
しているのは、我々自身が催眠状態に
あると言い換えてもかまわないからです。
つまり我々は、感覚のみで現実を把握して
いるので、現実だと感じられたという事
であれば、それもまたれっきとした現実
であるという事なのです。

我々は五感の現実を共有しているから、
やはり確固とした現実感覚を持って
いるのですが、それは、あくまでも狭い
五感の領域の範囲内での事です。
その感覚からして、これはあり得ない
と思えても、この事例もやはり複数の
人間のれっきとした共有感覚なのです。
つまりこのケースを現実だといっても、
共有感覚という意味では、確かなもの
だといえるわけなのです。
つまりわれわれが、前回と今回のような
超常現象的な現実を共有すれば、または
それを感じられるか理解できれば、
やはりれっきとした現実であるという
事になるというわけです。

今回の記事のような事例を見て、私たち
は、現実についてもっと感性を広げて
捉えるようにしなければならないという
事がいえると思います。
というのも、このマイケル・タルボット氏
と教授が、カルロス・カスタネダの幻覚の
ような現実の体験について、語り合って
いた後で、散歩をしている最中に似た
ような現実に直面したという事に大きな
意味があるのです。
しかも、そのマイケル・タルボット氏ら
二人の遭遇したものが、やはり最終的に
似たものに変容してしまったというところ
まで似ているのです。
カスタネダの体験では、化け物のような
姿をしていた獣が、木の枝に変容して
しまったのに対して、タルボット氏の
方は、まばゆい光を発していた傘が、
ふしくれ立つた棒きれに変容したと
いう事ですが、この木の枝とふしくれ
だつた棒きれは、あまりにも酷似して
いますよね。
つまりタルボット氏の会話を聞いている
はずもない通行人が、カスタネダの体験談
と同じ様な現象をしてみせるというのは、
単なるシンクロを越えたつながりがある
事も示しているのだろうという事なの
です。
まるで、高次の存在が、真実を
タルボット氏に教えるために、その
ような現実を創造してみせたようにも
見えるし、またタルボット氏と教授が
共有している大いなる一つの自分が、
カスタネダの体験談に見合う現実を
創りあげたのだという見方もできます。

私たちは、現実についてこのような
あらゆる事例をひもといていく事で、
固定観念や先入観をどんどん取り払って
いくべきなのだろうと思います。

またマイケル・タルボット氏自身、
このような超常現象に会いやすい人物
だという事を説明しておられますが、
それについては、また続きの記事に
書かせていただきます。

ではまた(^^)/

いつもありがとうございます(*^_^*)

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現実自体を変えられる驚異の超常能力!驚きの世界を現出させた奇跡の少女の実例


これまで、ホログラフィックな現実の
仕組みや、古来から多くの賢人や術者に
よって未来を創造する「視覚化」という
能力に関する事など、貴重なヒントを
数多く与えてくれているマイケル・
タルボット氏がまた、驚くべき超常能力を
発揮できた少女の実例を、著書に書いて
おられるので、引用させていただきたい
と思います。
まずは、現実全体を変える超常能力と
いうものについてのタルボット氏の
鋭い見解からです。

「」内がすべて引用で、~は中略です

「 現実全体を根こそぎ変えてしまう

ある意味で、物質化現象は、現実に関して
私たちがもっている常識的な見方を最も
激しくゆさぶるものだと言える。という
のも、念力のような現象までなら現在の
私たちの世界観の中になんとか取り込め
ないことはないものの、何もない空間から
物体を創造するとなると、世界観の基盤
そのものをゆるがすことになるからだ。

ところが、精神ができることは、それだけ
にとどまらないのである。これまで見て
きたものは、奇跡といっても現実の
「一部分」に関わっているにすぎない。
たとえば、念力を使って物をあちこち移動
させる(物理的法則)、火に対する耐性を
もつ、物質化させる(血液、石、宝石、
灰、栄養素、涙)などである。
しかし現実が切れ目ない全体性である
とするなら、なぜ奇跡は現実の一部分に
しか関わっていないように見えるの
だろうか?
 奇跡が精神のもつ潜在能力を示す例で
あるなら、この問に対する答は、当然
つぎのようなものになる。

すなわち、私たちは世界を部分に分けて
見るように深いレベルでプログラム
されているから、ということだ。

(引用注:これこそが太古の昔に
月のマトリックスで我々のDNAに
プログラムされた事の一つです。
視覚はまさにその分離した世界を
現実全てのように見せるトリック
としても働いています。

そして今でもその分離・分割の
ための洗脳プログラムは、支配層に
よって実行され続けているのです。

彼らが戦後3S政策の一つスクリーン
で、我々を視覚的現実に誘導して
きた中に映画、テレビ最近では動画
などがあり、アイドルなども
そのために有効だという事に
なります。)

これはつまり、もしそのような
プログラムがそれほど強くなく、世界を
ちがった見方で見ることが可能ならば、
奇跡もまたちがったものになるという
ことを意味している。そうなると、
現実の一部分が変容するような奇跡の
例よりも、現実全体が変容する例を
もっと多く目にすることになるはず
なのだ。
実はそういった例もいくつか存在して
はいるが、それはまれであると同時に、
現実に対する私たちの常識的な見方に、
物質化現象よりもさらに深刻に挑戦
してくるものなのである。」

さすがに本人も、少年時代にポルター
ガイストなどさまざまな超常能力を
発現させたマイケル・タルボット氏は
、視点が非凡なのがわかりますね。
超常能力の発揮だけでも、私たちには
充分な奇跡に思えるものですが、

さらに高いレベルの見方を提示して
くれているという事です。
確かに、我々がよく目にし耳にする
超常能力のほとんどが、現実の一部分
にしか、関わらないものが多いです
よね、そこに目をつけたのが、
タルボット氏の見解というわけですが、
その理由が、とても納得のいくもの
でした。

私たちの意識は、確かに物事を部分
的に分割して見るように、習性づけ
られているといえます。そのため、
超常現象も部分的な影響力しか
持てないという事です。これは真理
だと思います。なぜなら私たちは、

まさに全意識が本来の姿なので、
可能性を限定させる力は自分の中に
こそあると理解できるからです。

そして五感の感覚は、物事を分割して
見る事にこそ適しているものです。
特に視覚が。
五感にもレベルがあります その2
視覚の死角について
という記事を
ご覧になれば、理解の助けになると
思います。

このように私たちは、生まれる時点で
物事を分割的にみるような意識に
制限されますが、その制限から解放され、
現実を全体として意識するようになれば
制限された能力も解放され、超常能力も
発揮できるようになるという事なの
です。
そして我々が現実を全体として見る
意識が、さらに高いレベルになれば、
現実そのものを変える超常能力も発揮
できるという事なのです。
そういう例を、タルボット氏が取り
上げてくれているという事なので、
見ていきましょう。

「ワトソンがそのような例を示して
いる。インドネシア滞在中に、彼は、
この種の力をもつもうひとりの若い
女性に出会っている。その女性の
名前はティアといったが、前述の
アリン(無意識のうちにポルター
ガイスト現象を引き起こした少女)
とは異なり、彼女の力は無意識
レベルのサイキックな才能の表れでは
ないようであった。それは意識的に
コントロールされており、ほとんどの
人の内部に眠っている「力」に、
ティアが生まれつきのつながりを
持っていたことから発しているもの
だった。
ティアはひとことでいうなら、
完成途上のシャーマンだったのだ。
ワトソンは彼女のこの特異な能力を
何回か目のあたりにした。奇跡的
治癒を行うのも目撃もしたし、一度は
~彼女が自分の精神の力を使って
モスクの尖塔を発火させるところさえ
目にしている。
 しかし、ティアの最も凄まじい
力を見せつけられたのは、ケナリの
林の木陰で、彼女がひとりの少女に
話しかけているところに偶然出くわ
したときのことだった。遠くから見て
いても、ティアのしぐさから、彼女が
なにか大事なことをこの子供に伝え
ようとしていることがワトソンにも
わかった。ふたりの会話は聞こえな
かったが、ティアがいらついている
様子だったことから、これがうまく
伝わっていないことが見てとれた。
やっと何か思いついたらしく彼女は
不気味な踊りを始めたる
 ワトソンは、彼女が木に向かって
手をさしのべるのを我を忘れてじっと
見つめていた。ほとんど動きらしい
動きをしていないように見えたが、
その微妙なしぐさにはなにか催眠的
なものがあった。それから彼女は、
ワトソンに強烈な衝撃を与え、狼狽
させることをしたのである。
彼女は、その林を一瞬のうちに全部
消滅させてしまったのだ。
(引用注:ここびっくりするとこ)
ワトソンが述べているように、
「ある瞬間ティアはケナリの林の木陰
で踊っていたのに、つぎの瞬間、彼女は
目を刺すような明るい陽射しの中に
ひとり立っていたのである」。
 数秒ののち、彼女はふたたび林を出現
させた。少女が跳びあがって木々に手を
触れながら走りまわっていた様子から、
ワトソンはこの子も同じ体験をしていた
ことはまちがいないと思った。だがティア
の魔術はまだ終わったわけではなかった。
こんどは、この林を数回にわたり消したり
出現させたりしてしまったのである。
ティアは少女とふたりでくすくす笑い
ながら、手に手をとって小躍りしてこの
神秘を楽しんでいた。
ワトソンはただその場を静かに去って
いったが、頭の中はぐるぐると回って
いた。」
“出典:「投影された宇宙」
    マイケル・タルボット著
      川瀬 勝 訳
         春秋社刊 ”

これは、まさかの超常能力ですね、
一体どのような力が働いたのか、
簡単に仕組みは説明しにくいで
しょうが、ティアという少女が、
現実全体を確かに根こそぎ変えた事
は事実でしょう。誰かに催眠効果を
もたらした結果などというケチな
ものではなく、遠くで覗いていた
だけのワトソン氏まで、はっきりと
林が消えたのが見てとれたのです
から、本物でしょう。しかも、林を
消したり出現させたりを数回に
わたり実現させてみせたのだから、
完全にお手上げですよね。

つまり、彼女には、全体として
一つである本来の世界と意識的に
つながることが先天的にできていた
ということなのでしょう。
もちろん我々も意識のレベルさえ
上がれば、同様の事ができるという
事でもありますが、まさか実例として
これだけ鮮明な現実の変え方があった
というのは、本当に驚くべきことです
よね。

そうだこれでも、ティアという少女が
かなり範囲の広い催眠効果をもたらした
のではないかという、懐疑的また否定的な
人がおられるかも知れませんね。
その方々のために、つけ加えておきま
しょう。

私たちの現実感覚こそ、五感に囚われた
集合意識による限定された「想像上
または脳内現象的な」ものだという事
なのです。それは確かな意識的な現実
だともいえますが、無限にある現実の中
のとてつもなく範囲の狭い、特殊な一部
だという事です。

だからそんな特殊な一部の現実を基準に
しなければ、ティアの出現させた現実も
また確かな現実のうちの一つだという事
なのです。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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人生よりリアル!?な過去生体験の全特徴と臨死体験の特徴は多くの点で一致する!


この記事は
神秘体験を科学する4
過去生体験で病が改善される理由とは?

の続編です。

これまで過去世の特徴をムーディー氏
の著書から引用して取り上げて
きましたが、
今回は、残りの二つを取り上げた
のちに、これまでの記事で紹介させて
いただいた、過去世体験の特徴を
全て列記して、また臨死体験などの
特徴と融合させてみます。

「」内が引用で、~が中略の意味です。

「特徴11
 退行は繰り返すことで、
        よりしやすくなる

一般的に言って、退行の努力を数多く
すればするほど、人はより深く過去世
経験へ入っていくことができる。
繰り返すことで退行は上達し、被験者
は過去世でより自然にふるまい、
くつろぐことができる。
現世でのストレスや、気をそらすような
要因等により、催眠状態になかなか
入れない人もいる。だが繰り返して
いくと、やがてたやすく退行催眠の状態に
入れるようになる。」

これは、自分の顕在意識が、退行催眠の
状態を受け入れやすくできるようになった
という事で、いわばその領域に意識を
移行するためのゲートができたという事
なのだと思います。
やはり、そういう経験を妨げているのは、
いかに日常意識、物質的な意識に囚われて
いるかが大きい事を示しています。
それが何度も経験を繰り返していくうちに
邪魔な日常意識が、逆にそのような領域
を現実のものとして、認めるようになり
むしろ退行催眠に入るのを助けるように
働き始めるという事だと思われます。

「特徴12
過去世のほとんどは平凡である
過去世へ退行した人は皆、自分がかつて
ナポレオンだったとかクレオパトラだった
とか言う、と多くの人は思っている。
しかし、私が催眠によって過去世へ退行
させた被験者の中に、自分がかつてその
ような歴史的有名人だったという人は
ほとんどいなかった。むしろ、そこに
現れた彼らの過去の人生は、その時代に
おける、ごくありきたりの平凡なもの
だった。~
~彼らは退行していった過去世で戦う
一兵士に過ぎなかったことを知って、
失望することが多いのである。」

これは、過去世体験という言葉に便乗した
人たちが、確かに前世での有名人を
どんどん乱発していった時代があって、
人々に前世にあらぬ希望を持たせて、
逆にイロモノ扱いされるような事態に
なったことがありましたから、よくぞ
真実を語ってくれましたといいたいですね。
そんなに世の中にたくさんクレオパトラが
前世の人がいては不自然ですからねー。
それに多くの輪廻転生は、魂のレベル向上
のために、前世でのネガティブな体験を
克服しようとして、やってくるので、
それほど良い人生ではない事の方が多いの
です。良いレベルに達した人は、人生より
も幸福なレベルの意識次元にいく事が、
多いのです。ですがもちろん人生を楽しみ
に戻ってきたり、ある使命感を持って転生
するような人がいる事も事実です。

さてこれで全部の過去世の特徴を引用させて
いただいた事になりますが、ではもう一度
列記させていただきましょう。
もちろんこれも抜粋の引用になります。

「特徴1.
過去世体験の多くは視覚的である

特徴2.
出来事を受け身的に経験する

特徴3.
光景になつかしさを覚える

特徴4.
どの人が自分かわかる

特徴5.
過去世の感情の中に置かれる

特徴6.
過去世の光景は、自分の両目からのものと
第三者的視点の両方になる

特徴7.
退行経験はときに現世の問題を反映する

特徴8.
退行経験により精神の安定が期待できる

特徴9.
退行経験により肉体の病が改善される
ことがある。

特徴10.
退行は時間的順序よりも、それが持つ意味に
従って進んでいく

特徴11.
退行は繰り返すことで、よりしやすくなる

特徴12.
過去世のほとんどは平凡である」
“出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

やはりこの過去世体験というのは、実際に
自分の意識が霊的な領域に入り込む事で
臨死体験と同じ様に肉体から意識が離れて
いる事を示しています。
そして臨死体験が、自分の人生をもう一度
鮮明な画像で見直す「人生回顧」を
する時と同様に、過去世体験も鮮明な
画像で、過去世を見ているという事なの
です。
どちらにも共通していえるのは、とても
鮮明な映像で、しかも平面的でなく、
まるで自分がそこにいるかのような3Dの
立体映像のようなものであるといいます。
これは私たちの日常の記憶というような
あいまいなものではなく、霊的な領域では
確かな現実として、まだそのまま存在して
いるといえるものです。しかも肉体に
ある時のような目を通しての視点だけで
なく、第三者の視点で客観的に見る事も
できる場合も多いようです。
臨死体験もそれは同様で、
臨死体験の場合は360度の自由な視点を
獲得するという証言も多くあります。

またどちらも実際に体験しているかのよう
であるといいますし、過去世体験の場合は
苦痛や苦しみなどの肉体的または感情など
も、リアルに体験するようです。
臨死体験の場合は、自分の人生に出てくる
登場人物の立場での感情や意識を体験
できるという点では過去生体験と共通
していますが、体感として特に苦痛や
苦しみなどは、むしろ感じないという点で
違いがあります。
それは過去生体験が、まだ肉体に
意識がつながっている状態なのに
対して、臨死体験では肉体からいったん
意識が解放されるから、体感が
得にくくなるからだと思われます。

これらの事は、私たちの現在の人生よりも
いかに霊的な領域の方が確かで、さらに
現実的な体験であるのかを物語っても
います。
そしてまた過去世体験でも、人生回顧でも
同様に、自分の心の問題に関する事を
特にクローズアップして経験するようです。
それは、霊的な領域にある高次の意識の
存在(光の存在であったりもします)が、
本人の魂に対して、大事な事に気づかせて
くれているようでもあるのです。
その事が、臨死体験や過去世体験をした
のちに、本人が前向きに人生を生きる事が
できるようになる事が多くなる原因や
きっかけになるようです。
これらのように過去世体験と臨死体験には
共通する点が多くみられますが、上に
列記した過去世体験の特徴には、特有に
みられるものもあります。
たとえば、特徴3の光景になつかしさを
覚えるというものです。これは過去世
では、現在の人生と全く違う環境や役割
違う性別であるのにもかかわらず、これが
自分の人生であるという確信があり、
体験している光景になつかしさを覚える
ことが多いのです。
これは過去世体験が、自分の魂としての
実際の過去の人生経験だという事の証明
にもなります。
また特徴7の退行経験はときに現世の問題
を反映するというのも、魂が転生によって
意識をレベルアップさせようとしている事
を示唆しているものとして捉えれば納得の
いくものとなります。

このようにあらゆる超常体験はつなげて
理解していくと、真理を把握していくのに
おおいに役立つと思います。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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神秘体験を科学する4過去生体験で病が改善される理由とは?


この記事は
神秘体験を科学する3過去生では
第三者からの視点も別の場所からの
視点も得られる!

の続編です。

今回は過去生体験で、精神的な
安定や体質改善が得られるという
過去生体験の特徴を取り上げ
ますが、これまで観てきたように
過去生体験は、完全じゃないに
しても、ワンネスとしての
自己体験なので、通常の意識を
超えた能力がしばしば発揮
されます。

これまで何度も取り上げて
きた、アニータさんの究極の
ワンネス体験では、彼女が
重篤の末期癌であったにも
かかわらず、完治できると
意識して、実際跡形もなく癌
が消失してしまったという
実例があります。

つまりワンネスの意識レベル
は、究極のものでなくても
意識の浄化に役立ち、本人
の精神や身体を改善させる事
ができるのです。

過去生体験では、ワンネスの
意識に少しでも近づく事が
できている事の証明でもあります。

では今回もムーディ博士の著書より

「」内が引用で、~が中略です。
「」外は私の見解です。

「特徴8
退行経験により精神の安定が期待できる

長年のうっ積した感情から解放され、
気持ちが晴れ晴れとした状態に至る
ことを、精神医学用語で「カタルシス」
という。カタルシスに至った者は、
ストレスがやって来る場合にも新たな
見方をして乗り越え、つらい社会に
あっても必要な気分転換をはかれる
ようになることが多い。
 こうしたカタルシスが、過去世への
退行経験をした被験者によく起こる。
たとえばある青年は、弟に対する
苦々しい思いから離れられないで
いた。弟だけがいつも両親からかわい
がられ、いろいろ買ってもらっていた
からである。
この青年は催眠の中で、南米の
ジャングルに住む民族の老人だった
過去世の自分へと退行した。
 その生で、彼はある年上の女性に
出会った。青年によれば彼女は、過去世
における彼の弟だという。もちろんこの
女性の顔形は、現世における彼の弟には
全く似ていない。彼女が弟の過去世の姿
だと知ったのは青年の直感だった。 
その過去生で、じつは老人(のちの青年)
は、その女性(のちの弟)に頼りきって
生活していた。女性は全く献身的に老人
の世話に明け暮れていたのだ。それを見て
以降、青年は弟に対し新たな愛情を感じる
ことができるようになった。こうして
青年は、安定した心を取り戻すことが
できたのである。

過去世において弟は自分に対し、全く
献身的に奉仕してくれた。だから現世
では、今度は自分が弟に奉仕する番だ。
青年は過去世への退行経験ののち、弟に
自分の気持ちを伝えた。以来、彼ら兄弟は
仲良くなり、親しく新しい関係へ入った
のである。
 私の被験者たちは皆、退行経験の中で、
自分の現世の問題と交差するなんらかの
出来事や状況に接している。それは
ときに、他人にとってはドラマチック
なものではない。
しかし当人にとっては、「あの光景を
見て以来、私は大きく変わりました。」
と言えるような事柄なのである。」

占星術でもこのカタルシスというのは、
よく使われるコンセプトですね。
占星術のエネルギーの場合、その
カタルシス(浄化)を起こすために、
ネガティブなエネルギーとして現れる事
が多いように思います。それは、もしか
したら自分の魂の追体験のような
エネルギーなのかもしれません。
肉体に宿る時点で、魂は過去の自分の
体験を肉体に投影するので、それが天体
のサイクルのエネルギーとリンクした時
に現実として表現され、それが結果的
にこの過去世体験と同じ効果を生むの
ではないかと思います。
しかし、なぜネガティブなもので
なければならないかという疑問は残り
ますけどね。
しかし、このように効果的に過去世体験
により、現世での精神的問題が解決される
というのは、ある意義のある結論へと
導いてくれます。つまり過去世につながる
ような意識の状態では、自分を保護して
くれる存在かまたは自分自身の高いレベル
の意識が、その問題解決のために、意図的
にその解決となるシーンへと意識をいざ
なってくれるというものです。つまり
囚われた日常の意識には、その手をさし
のべるには、なにがしかの壁がある
と考えられるわけなのです。
そして意識が過去世レベルにいける
ような、魂の本来の意識に戻ったなら
ば、そのような存在または高度な自己
意識の助けを受ける事ができるという
事です。

「特徴9 退行経験により肉体の病が
        改善されることもある

 まれにだが、被験者は過去世への退行経験
により、肉体の病が劇的に改善されたという
ことがある。全く解消してしまった場合すら
ある。
 たとえば、私がリサと呼ぶ女性は、重い
頭痛によく悩まされていた。検査をしても
異常(たとえば腫瘍など)は見いだされ
なかった。彼女はまたもう何年も前に、
カフェインやアルコールを含む飲料を
一切断っていた。頻繁に起こる頭痛に対処
するには、毎日アスピリン錠を服用する
ほかなかった。
彼女は
「催眠療法をしてくれますか。どんなもの
か経験してみたいの」
と言って私のもとへやって来た。私が催眠
のトランス状態へ導くと、彼女は石造りの
古代都市での苦しい人生へと退行した。
以下は、催眠から覚めたのちに彼女が語った
ことである。

「私はその街に生活していましたが、街は
他国の軍隊によって侵略されようとして
いました。私はトランス状態の中で、彼ら
の軍隊が街に向かって山を下って来る光景
を見ました。強姦と略奪のためです。
 私たちは皆恐れおののきました。敵の
兵士が人々を追いかけ回し、どこを見ても
逃げ惑う人々ばかりでした。
刀剣を手に持った彼らは、人々を切り
裂いていました。
 私は自分自身も見ました。私は若い女性
で、白い服を着ていました。必死に
逃げようとしました。しかし、どこも
敵ばかりで、逃げようにも逃げられま
せん。突然、私は数人の敵につかまって
しまいました。一人が私の腕をつかまえ、
別の一人が私の頭を棍棒でなぐりました。
その痛さといったら信じられないほど
でした。何度かなぐったすえに、彼らは
私を地に投げ捨てました。脳は破裂
しそうで、私はゆっくり死の淵に落ちて
いきました。」

 彼女は現実にその痛みを感じ取って
いた。目を閉じた状態で彼女はソファに
座っていたが、その顔にも声にも痛みが
あふれていた。
あとでこの恐ろしい死の経験について
彼女と話すと、彼女にとってそれは
大きなカタルシスとなったようだ。
過去世での経験を語ることにより、現世
での大きな感情的解放を経験したので
ある。
 退行経験についていろいろ語る中で、
彼女の人生にはストレスや頭痛の種と
なるような、様々な問題があった事実が
明らかとなった。彼女が心の片隅に
追いやって見ないようにしてきた様々な
人生の問題も、退行経験を通して、
ほじくり出すことができた。そうやって
しだいに、彼女は心の問題を解消して
いくと共に、あのひどい頭痛をも解消
することができたのである。
 このような例は、心と体が深く
つながったものであることを、私たち
に再認識させてくれる。」

これは、またとてつもない悲劇を経験
した過去世の追体験のようですが、
その事自体よりも、自分が霊的な存在である
事を、退行経験により実感できた事で
浄化作用が起きたのだろうと思われます。
つまり、過去の人生で、どんな悲劇を
経験していても、それは霊的にはなんの
影響もないという意識レベルを獲得
できたという事なのだと思います。
(霊という存在は、肉体に囚われて転生を
繰り返す魂より高次の存在で、肉体レベル
での経験の影響をほぼ受けません。
ですが、これも自分自身だという事です。
この高次の意識の階層構造というのは、
古来より世界中で、様々な分け方がされて
いるので、また記事でまとめていこうと
思いますが、きっちりと壁で隔てられた
ようなものどうしというわけではなく、
意識レベルの差があるだけで、つながって
いるものとして捉えてさしつかえありま
せん。肉体があり生きている状態でも、
私たちは、魂であり、霊でもあるという
事なのです。)

頭痛があったのは、過去世の肉体レベル
での記憶が魂に刻まれていた事が原因
ですが、魂よりも高いレベルの意識(霊)
にとっては、それを現在の潜在意識が
気づいた時点で、解消するべきものを
言葉でないような方法で手にしたと
いう事なのです。そのような過去の悲劇
的な記憶のエネルギーを解消するために
現在の人生を生きる事になったという事で
その目的を、私たちの日常意識レベルで
なく潜在意識または魂のレベルで気づいた
時点で、そのレベルでの浄化をする事に
つながったという事なのです。
このプロセスには、私たちの日常の意識は
ほとんど関わっていません。全て霊的な
次元と潜在意識での作用だという事なの
です。

これで彼女の重い頭痛も、治ったという
事ですが、それは肉体レベルよりも
このような高い霊的レベルの自分に
アクセスできたからという事なのです。

さて次の特徴をみていきましょう。

「特徴10

退行は時間的順序よりも、それが持つ
意味に従って進んでいく

被験者が、催眠を通し一年間に様々な
過去世へ退行したというような場合
(引用注:ムーディー氏は治療のため
被験者に何度も退行催眠を繰り返す
事が多いというわけです)、その退行
の順番は時間的順序ではなく、むしろ
被験者の心に最も関連しているもの
からになる。
 たとえば、ある男性被験者が、現世
で女性に対する態度のことで幾つかの
経験をしているとしよう。すると退行
していく先の過去世は侵攻的な人生で
あったり、他者への依存的人生で
あったりする。
そういうものが幾つか続くのである。
 退行していった先の過去世の主な
特徴は、過去世での被験者の役割よりも、
むしろ被験者の精神的・霊的な発達に深く
かかわっている。それゆえに、過去世に
退行して被験者の心の問題を解決する
という過去世療法が有効になるので
ある。」

“出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

これも人生の心の問題の解決に大切な
要素のようですね。
ムーディー氏は心理療法士なので、
基本的に被験者・患者の治療という
目的のために退行催眠をしているという
事です。
しかも、これは非常に有効な方法である
という事がわかってきたという事ですね。
自分の心の問題を解決するのには、自分
の過去世を経験する事で、解決できる
ようになるという事です。
そして今回の特徴は、過去世体験が、
まさに心の問題を解決するための順序で
進んでいくという事なのですが、催眠
をかけられた本人の霊的なレベルは、
その解決のための最善の体験を、本人に
させようとしているのは明らかですね。
確かにくどくど説明されるより、解決の
ための効果的な体験をする方が、より
本人の実感として、大事なヒントが
得られるという事なのだと思われます。
しかもその経験は、現世での自分の役割
や個性とは違う人生で、自分が精神的
・霊的にレベルアップするために効果的
な人生となるという事なのです。
そしてまた本人にとって必要であれば、
その人生での他者の心なども経験する事
ができて、より心の問題解決に役立たせる
事ができるという事です。
当然これらの経験は、潜在意識への作用と
いう意味で、強く本人に影響を与えるもの
となるという事なのです。

退行催眠による過去世体験は、私たちが
どのような存在であるかについても、
非常に大きなヒントを与えてくれて
いるというわけですね。

いつもありがとうございます(*^_^*)

人間の真の偉大な力編

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チベット死者の書4「ちっぽけな自分」という認識では解脱は不可能という事が、臨死体験者の報告で確信できる!


この記事は
チベット死者の書から読み取れる
真理の共通点その3
「悟りとは二元論的世界からの
脱却だった!」

の続編です。

今回はタイトルには使用しましたが、
チベット死者の書からいったん
離れます。

つまり前回取り上げた2人の
臨死体験者の意識レベルと認識の
違いに焦点を当てて、より
詳しく観ていこうと思うのです。

そのためにチベット死者の書で
記されている、「全ては自分の投影」
と言う認識こそが解脱の条件
という事を、2人の臨死体験者の
体験談から確信し、より深く理解
する必要があるという事です。

まずコアと呼ばれる光に対しては
自分はちっぽけな取るに足りない
存在だと思ってしまったエベン
さんの認識が、解脱を不可能に
してしまい、コアと一体化できずに
下降を始めたという事と、
アニータさんのように、自分が
神や仏陀のような存在であり、
つまりは宇宙そのものだという
認識を得られて、解脱の意識
レベルを獲得したという体験談の
比較を前回の記事から再掲して
おきますね。

「さらに先へ進んでいくと、広大な虚空の
中へ入っていった。果てしない広がりが
続く全くの闇だったが、そこは限りない
安らぎも感じられた。漆黒の闇であるにも
かかわらず、光も満ち溢れていた。すぐ近く
にいる気配のする光の球体、オーブ(たま
ゆらとも言う)の一つが放射している光らし
かった。オーブはあの輝く存在の天使たちが
奏でていた調べと同じように、ほとんど
固形のようで生きていた。~
~私の場合は胎児の「母親」に相当する
ものが、宇宙とそこにあるもの全体の母体、
言い換えれば、神や創造主、根源などと
呼ばれる存在だった。
神の存在はきわめて間近に感じられ、自分
との間にまったく距離がないように思えた。
しかしそれと同時に神が無限に広大である
ことがわかり、それに対して自分がいかに
比べ物にならないほどちっぽけであるかを
思い知らされた。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

この部分が特に重要で、エベンさんの
臨死体験を紹介しようとした理由につながる
ものなのです。
今ここが、エベンさんの到達した意識レベル
の限界を示しているところだからなのです。
彼はこの高次元の意識領域で神のような存在
に会ったという事ですが、それは絶対的な
存在と自分が分離したままの感覚だという事
を示しているのです。
せっかく「神の存在はきわめて間近に感じ
られ、自分との間にまったく距離がないよう
に感じられた。」という意識まで到達して
いるのにあと一歩、そのような絶対的な
意識と一体になるところまでいかなかった
という事なのです。
それまで拡大し続けていた彼の意識が、
ここでストップしてしまう事になる
のです。
ここで絶対意識になれなかったエベンさん
と比較して、それを自分のものとした
アニータさんの意識をもう一度引用
させていただきます。

“「どうして突然、すべて理解できたんだ
ろうか?」私はそれが知りたいと思いま
した。
「誰がこの情報を与えてくれたんだろう?
神様かしら?それともクリシュナだろうか?
それともブッダ?キリスト?」
その時、「神は存在ではなく、存在のあり方
なのだ。そして、私は今、そのような存在の
あり方をしている」という悟りが得られ、
その感覚に圧倒されたのです。」”
“出典:「DYING TO BE ME」
アニータ・ムーアジャニ著 
           hay house 刊
邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

つまり彼女の謙虚な言い回しに惑わされず
に、彼女の説明をそのまま受け取れば、
アニータさんは、自分自身が絶対的な
存在そのものとなったといっていると
いう事なのです。
「えーそんな偉そうなー!」
普通そう思いますよね、その普通の感覚
こそ長年の間人類全体を苦しめてきた
「分離」の感覚なのです。
ここで絶対意識のからくりを説明します
と、アニータさんだけが、本来絶対的
存在だったという事ではなく、我々の
一人一人全員がそのような存在で
あるという事なのです。
つまり「みんな偉い!」のですが、
わかりにくいと思いますので、この宇宙に
おける全てのものは、全体とつながって
いて、またその全体そのものでもある
という事なのです。

実は宇宙の物理的モデルもそういう事に
なるのですが、それについてはまた別の
記事に書かせていただきます。
とにかく残念ながら、絶対的な存在と一体
になれなかったエベンさんは、
「自分がいかに比べ物にならないほど
ちっぽけな存在であるかを思い知らされた」
とあるように分離された小さな存在として
自分を意識することで、その絶対的存在
から離れてしまう事になるのです。
(これに対して、絶対意識に到達した
アニータさんは、肉体に自分を自身の選択
により戻すまで、その領域に留まっていま
した。)
そしてちっぽけな自分という感覚を持って
しまったエベンさんは、絶対意識領域に
留まる事ができず、この後、低次の領域に
下降してしまう事になります。』

究極の意識と一体化できるかどうかの境界
とは? エベンさんの証言その5

さてここからが今回になります。

解脱の認識を得られなかった
エベンさんと解脱の認識を得られた
アニータさんの意識による
体験の世界から、さらに
理解を深める事ができます。

まずエベンさんは、高次の世界を
垣間見る事ができたおかげで、
光から授けてもらった叡智の助け
などもあり
下降してきて肉体に再度宿る
事ができたというわけです。

ただこれも自分の意志で選択した
というより引き戻された感じで、
すでに悟りを開いて、未来の
いくつかのパターンも吟味できた
アニータさんが、もう一度肉体に
宿る事を選択できたのとは、
大違いの意識レベルだという事
ですね。

エベンさんが下降を始めてからの
様子は二つの記事からの再掲に
なります。

エベンさんにとっては、最高次元
というのが、絶対的な光のオーブ
が照らす闇の世界でしたが、
それより下の次元に天界のような
場所があり、それも通過して
下降を続け、最初いた泥の世界にも
降りていきます。


「何かに引っ張られているような気がした。
~私はコアの世界を離れ、来た道を戻って
いた。眼下には大地が広がり、コアの輝く
闇が絢爛とした緑に溶けていった。下方には
、村の人々、木々やきらめく小川や滝が見え
、頭上には弧を描いて飛んでいるあの天使
に似た存在たちが見えた。連れの女性も
そこにいた。コアへの旅の間も、光の球体の
オーブになってずっと私のそばにいたのだ。
いまは再び人間の姿をしていた。~彼女に
会えたことが嬉しかった。彼女の存在に感謝
した。「いろいろなものを見せてあげます。
けれどもいずれは帰ってもらいます。」コア
の闇へ入っていくときに、言葉を使わずに
伝えられてきたメッセージが思い出された。
そして帰るということの意味が、そのときに
なって理解できた。
それは旅の出発地点の「ミミズの目」の世界
を指していたのだ。
再びその暗がりに降りていきながら、高次の
世界に何があるのかを承知していた私は、
もう以前のように狼狽することはなかった。
~泥。垂れ込めた闇。浮かんでは消えていく
無数の顔。上から垂れ下がる動脈に似た
木の根。そうしたものが、もうなんの恐怖
も呼び起こさなかった。自分はその場所
には属しておらず、ただ訪れるだけなのだと
-言葉には頼らずにすべてがわかる方法で-
わかったからだ。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

なんとエベンさんは、コアと一体になれ
ずに分離意識のままだったために、その
自分の意識の重みにより、低次元の
世界へどんどん逆行して、また地獄に近い
ような世界に戻ってきてしまったのです。
ただ、以前よりも意識レベルが高くなった
状態でなのですが、』
光の球体から離れて再び下降する
エベンさん!エベンさんの証言その7

そして次が肉体まで戻る時の詳細です。
エベンさんは、泥地獄のような世界
に戻ってからも、何度も光のメロディ
に導かれて、再上昇したりしていた
のですが、ついにそれが不可能に
なったところからです。


「どんよりしたミミズの目の世界にはまり
込んでいる事に気づくたびに、私は回転する
光体のメロディーを思い浮かべた。それが
ゲートウェイとコアの世界への門を開いて
くれた。・・・
・・・ところがゲートウェイの境界まで
やってきたあるとき、もうそこへ入れないと
いうことを悟らされた。高次元への入場券の
ようなものだった回転する光のメロディー
は、もはや私をそこへは受け入れてくれなく
なったのだ。
~私は悲嘆に暮れ、悲しみを募らせて
ますます暗い気持ちになり、その気持ちは
「実際」に降下するというかたちをとって
体験されることになった。巨大な雲を抜け
ながら、私は下へ向かい続けた。
周囲のあちこちからくぐもった声が
聞こえてくる。~
~私のために祈っていたのだ。
後になって気づいたことだが、その
中にはマイケル・サリバンとその夫人
ペイジの顔もあった。あの時点では
シルエットがわかっただけだったのが、
こちらの世界へ戻って言葉を取りもどして
から、サリバン夫妻であったことが、
はっきりと確認できた。マイケルは
物理的にも、集中治療室で何度も私の
ために祈っていてくれたのだ。
(ペイジは病室には来ていなかったが、
祈りを捧げてくれていた。)
祈りは私に力を与えてくれた。深い悲しみに
沈みながらも何も心配はいらないという
不思議な安心感があったのは、そのおかげ
だったのだろう。
天国は想像主オームの姿で自分と共にここに
ある。蝶の羽根に乗った女性という天使の
姿で、ここにある。それがわかっていた。
 帰路についていた私は独りではなかった。
そしてこれからは、決して独りを感じる
ことはないことも確信していた。~
~井戸を落ちながらどんどん近づいている
下の世界にも、自分には愛しい存在がいる
のだと気がついた。その瞬間まで、その
ことを完全に忘れ去っていたのだった。
 それに気づいた私は六つの顔に意識を
向けた。六つ目の顔が特別に際立って
いた。
それはなぜかとても懐かしい顔だった。
そう感じたときに、だれの顔かはわから
ないまま、恐怖と紙一重の圧倒的な戦慄
が駆け抜けた。自分はあの顔に必要と
されている。私を失えば二度とその傷
から癒やされず、喪失感に打ちのめされて
しまうであろう顔-天国の門が閉じられた
ときの私と同じ悲嘆にくれる顔。
その思いに応えないのは裏切り同然に
なる顔-。~
~それは内から生まれる恐怖ではなく、
六つの顔へのー特に六番目の顔への恐怖
だった。だれかはわからなかったが、
かけがえのない顔に違いなかった。~
~下界へ下りるという危険を冒して
自分のところへ戻ってくるように哀願
している。何を言っているのかは理解
できなかったが、その言葉は私には
下の世界にしがらみがあること、そこに
“足を突っ込んで”きたことを伝えている
のがわかった。
 私は戻らなければならないのだ。
そこには尊重しなければならない関わり
があるのだ。顔がいっそうはっきりと
してくるにつれて、その思いはますます
強くなった。すると顔も、もう少しで
判別できそうなほどになってきた。
 それは少年の顔だった。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

最後の少年の顔は、エベンさんの息子さん
の末っ子の顔ですね。
彼は、とうとう臨死体験から肉体に帰還
してきたのです。長かった。そう、我々
の時間でこの臨死領域は測れないの
ですが、あまりにも詳細にわたって、
エベン・アレグザンダーさんが、体験を
この著書にまとめあげてくれているので、
今まで長い間集め続けてきた、臨死体験の
資料の中でも、圧倒的に詳しい描写
だと思います。
この詳しい描写のおかげで、本当に多くの
真理への貴重なヒントが得られたと思い
ます。このシリーズでそのヒントについて
一つ一つ解説をしていきました。

今回の最後のシーンも、やはりヒントが
つまっていたのです。

臨死体験が私たちの日常の意識と
つながっている事は、先の記事でも
書きましたが、この肉体に戻る描写は、
それがありありと理解できるように
なっています。
かんたんな図式でいえば、意識のレベル
の高さが、そのまま臨死体験での上下の
感覚で、我々の日常の生きている現実
は、臨死体験の(エベンさんの場合の)
最下層であった「泥の世界」から
さらにずーーっと下降していった場所に
あるという事なのです。
しかも悲嘆にくれていたという
ネガティブな意識を伴いながらの下降
だという事です。
なんと私たちが、生きていて肉体に意識
がある間は、そのとてつもなく低い位置
に意識があるという事なのです。
これで、臨死体験者のほとんどが、肉体
に意識がある間の方が、囚われていて、
臨死領域の世界とは比べ物にならない
くらい不自由だと感じたと証言している
事が、よく理解できますね。

ついに生還!身体に戻る描写まで詳細だった    
エベンさんの証言その9

さて、コアの世界の絶対的な光
から叡知を授かったエベンさん
でも、自分をちっぽけな存在
としか認知できなかったために
次元を下降させられて、ほぼ
選択の余地なく、肉体に再度
宿る事になりました。

そしてこれはアニータさんにも
共通する部分ですが肉体にある間
は、制限がかかってしまい、
臨死体験中に得た、貴重な
真理的な叡知を思い出せなく
なっているという事です。

まあそれだけ肉体が悟りを
邪魔しやすいものだと
いう事でもあります。

そして、絶対的な存在を自分と
一体のものとして悟れた
アニータさんの場合は、時空の
全てを俯瞰する事ができ、
別のタイムラインに存在する自分
も認識できたりしました。
そして肉体に戻った場合と、
戻らなかった場合の二つの
タイムラインを認識できて、
そして肉体に戻る事を自分の意志
で、選択できたのです。

分離意識ではなく、全ては自分と
一体のワンネスが真理だと
悟れただけで、これだけ
差があるのかと思うくらいの
アニータさんが肉体に再度
戻るまでの詳細を再掲して
おきます。

まずはアニータさんが、
パラレルワールドを認識
できたシーンから


私は身体の五感ではなく、まるで新しい感覚
を手に入れたように限界のない知覚を使って
いました。
それは通常の能力よりもはるかに鋭く、
360度が見渡せて、自分の周囲を完全に
認識できました。
驚嘆すべきことのようですが、それが普通に
感じられたのです。
もはや身体の中にいることのほうが、制限
された特殊な状態であるように感じられま
した。
その世界では、時間も違うものに感じられ
ました。私は全ての瞬間を同時に感じて
いたのです。
つまり過去、現在、未来の自分が関係する
あらゆることを、同時に認識していました。
さらに、いくつかの人生が同時に繰り広げ
られているのを感じました。
一つの人生では、私に弟がいて、彼を守ろう
としていました。
その弟の本質は、(兄の)アヌープだと
わかりました。
ただし、その人生で、彼は私よりも若かった
のです。
時代や場所は、はっきりわかりませんでした
が、田舎暮らしのようでした。
家具などほとんどないあばら屋に住み、私は
アヌープの面倒を見て、両親は畑で働いて
いました。
 姉として弟の世話をし、家族の食べ物を
確保して、外部の敵から身を守っている
自分をありありと体感している間、その
生活が過去世のものだという感じは
まったくありませんでした。確かに風景は
かなり昔に見えましたが、まるで今ここで
起こっているようだったのです。
時間のあらゆる点を同時に知覚できる
というのは、向こう側の世界での明確な
理解に役立っていましたが、今それを
思い出したり、説明しようとすると混乱
が生じます。
   (中略)
五感の制限により、私たちは時間の一つの
点に集中させられ、これらを一列に
つなげて直線的現実を創り上げている
ように思えました。
さらに、私たちの身体の制限された知覚
が、目で見え、耳で聞こえて、触ること
ができ、匂いを嗅ぎ、味わえる範囲に
閉じ込めているのです。
でも身体的制限がなくなった私は、時間や
空間のあらゆる点と同時に関われるように
なりました。」
    ~引用終了~
“出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

まさに我々の通常の時間の感覚が、根本的に
間違っていることが、この絶対意識では、
よくわかるということです。
時間は全て同時に存在し、またそれを同時
に体験できて、そしてまたパラレルワールド
も存在しているという事が、実感として
理解できたという事です。
私が、これまでの記事で説明してきた
通り、「無限の時間が同時に存在している
という事、そしてパラレルワールドも
無限に存在しているという事」の裏付けが
彼女の実体験でできた事になるわけです。』

肉体的な制限がかかるのは、エベン
さんも同じでしたが、分離意識の
まま留まっていたエベンさんは、
その制限がより強いし、その上
アニータさんのように時間の
真理や、パラレルワールド的
時空体験はできなかったようです。

そしてついに肉体に戻る時の
アニータさんは、やはり
パラレルワールド的時空の認識
を利用して、二つの未来を比べて
自ら選択して肉体に再び宿る事
になります。
エベンさんのように受け身的
でなく、途中の世界もなく
絶対的な認識状態から一気に
肉体に戻れるわけです。
ただし、あまりに素晴らしい
ワンネスの領域にアニータ
さんは、いったん戻らない
選択をしようと思います。

ではその時の描写を観てみましょう。

『アニータさんは、絶対意識領域で、
一体である父との会話を続けています。

改行して途中で入る「」以外の言葉は
私の注釈というか考察です。

「父との対話に言葉は必要なく、互いに
対する理解が完全に溶け合っていました。
父のことが理解できただけではなく、
まるで自分が父になったようでした。
亡くなってからも、父はずっと家族と一緒
にいてくれたことに気づきました。~
ずっと私のそばにいてくれたのです。」

これはとても素晴らしい事です、これまで
かけがえのない人を亡くして、悲しみに
打ちひしがれている人など、みなさんの
そばにちゃんとその人はずっと存在して
くれているのです。

「私は、父の本質が、これまでより
はっきりと自分に話しかけているのに
気づきました。
「アニータ、今はまだここに来るべき時じゃ
ないんだよ。でも私と一緒に行くか、身体
に戻るか、おまえが自分で決めなさい」
「私の身体は重病で、癌に侵されているの。
もうあの身体には戻りたくない。だって
苦しみ以外何もないんだもの。私にとって
だけじゃなくて、ママやダニーに
とっても・・・・。
戻る理由なんか何もないわ」
無条件の愛の状態がこの上なく幸せだった
のは言うまでもありませんが、私は身体に
戻るという考えに耐えられませんでした。
今いる場所に永久にいたかったのです。~」

アニータさんは、他の臨死体験者たちと違い
身体に戻るかどうか、ゆっくり考えて
選択できる状態であったという事です。
たいていの臨死体験者は、突然身体に
戻ったり、光の存在に戻るようにいわれて
これも自動的に戻ってきたりしています。
さすがに絶対意識領域はそれらとはレベル
が違うようです。
確かに昏睡状態に入る前のアニータさんの
身体は末期癌に侵されていて、身体は苦痛
にまみれ、夫や母の苦しむ姿を見るだけ
だったので、戻りたくない気持ちはよく
わかりますが、ここで絶対意識領域なら
ではの感覚が、アニータさんに訪れます。
なんと異なる時間軸の未来が同時に見えた
という事です。

「このあと起こったことを説明するのは、
非常に困難です。
第一に、私が意識を向けたものは何でも、
自分の目の前に現れるような気がしました。
第二に、時間はまったく問題となりません
でした。時間はまるで存在していないかの
ようで、それについて考慮する必要さえ
なかったのです。
 このことが起こる前に、医師は私の臓器の
機能を検査して、すでに報告書を書いて
いました。でも向こう側の世界では、その
結果と報告書の内容は、これから私が
しなければならない決断、つまり生きるか、
このまま死へ向かうかという決断次第だった
のです。
私が死を選択すれば、検査結果には臓器不全
と書かれ、もし身体に戻る選択をすれば、
臓器が再び機能し始めたと記される
でしょう。」

このアニータさんのいう向こう側の世界と
いうのは、自分がいる絶対意識領域の事
で、なんとそこからは、二つの異なる
未来が同時に見えたという事のようです。

「その瞬間私は、「もう戻りたくない」と
決意しました。そして、自分の身体が
死んでいくのを感じ、臓器機能不全に
よる死だと医師が家族に説明している場面
を目にしました。
 同時に、父が私にこう告げました。
「アニータ、おまえが来れるのはここまで
だ。これ以上進んだら、戻れないんだよ」
 物理的な境界ではありませんでしたが、
自分の前に、エネルギーレベルの違いに
よつて区分された、見えない境界がある
のがわかりました。もしそこを渡れば、
もう二度と戻れないのです。身体との
つながりは、永久に切断されてしまい、
私が目にしたように、家族は、悪性
リンパ種による機能不全で亡くなったと
医師から告げられるでしょう。
 無条件の愛と、自分が受け入れられた
感覚はすばらしいものでした。
私は永遠にその状態にいたかったので
、境界線を越えようと思いました。
そこには痛みも、苦しみも、ドラマも、
エゴも存在せず、私はあらゆる生きものと
創造物の純粋な本質に包まれていました。
まさしくすべてが一つであると感じて
いたのです。」

“出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”』

アニータさんの奇跡の回復の軌跡その1
    臨死状態から戻るまで

つまりアニータさんは、解脱の認識を
得ながら、自分の未来つまり
肉体に戻った場合と戻らなかった
場合の二つの別々のタイムラインを
選択できる状態にあり、自分の
意志で肉体に戻ってきたのです。

半分強制的に肉体に引き戻された
エベンさんとは全く違いますね。

そしていったんは肉体に戻らない
選択をしたアニータさんが、結局
肉体に戻る決意に気持ちを変えた
きっかけはなんだったのか、
その答えがこちらです。


「死の方へ歩き続けると決心した瞬間、
私は新しいレベルの真実に気がつき
ました。
自分が本当は誰かに気づき、本当の自分
のすばらしさを理解したので、もし身体
に戻る選択をすれば、病気は急速に治癒
するだろうとわかったのです。それも
何週間や何ヶ月かけてとかではなく、
わすが二、三日のうちにです。もし身体
に戻ったら、医師は癌の痕跡すらも
見つけられないでしょう。」』

これまでご紹介してきた臨死体験の事例
の中でもアニータさんの病気は、最も
深刻な状態で末期癌で、治療のおかげで、
内臓も何もかもがボロボロの状態だったの
です。
もちろん西洋医学では絶対に回復不可能で
アニータさんは、約6週間ほど前、夫を
通じて医師から死を宣告されていたの
です。
「長く持って3ヶ月」だという事なの
ですが、アニータさんがこの臨死状態に
なるのはもっと早くその半分の期間しか
もたなかったという事です。
ですが、アニータさんは、この自分の気づき
があれば、この致命的な末期癌も急速に
治癒するとわかったという事なのです。
なんと自分が宇宙自身であれば、生命力を
取り戻す事も当然可能だと知ったという事
ですね。回復するにしても二、三日で?
しかも癌の痕跡すら見つけられない?

『「一体どうやって」この意外な事実に驚き
、その理由を知りたいと思いました。
その時、身体は自分の内側の状態を反映
したものにすぎないと悟りました。
もし内なる自己が、その偉大さと大いなる
ものとのつながりに気づけば、私の身体
は、すぐにそのことを反映し、病気は急速
に治るでしょう。」   』
“『』内
出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

この場合の内側というのは表現の仕方が
アニータさんの原本とニュアンスが違い
ます。私は原著の方ももっているので、
その内側は「インターナルステイト」
(internal state)
つまり身体の内側ではなく精神的な
内面の世界だという事です。
五感を基準にした私たちの感覚で理解
しようとすると、このような表現に
対して、身体の内側という錯覚を起こし
がちですが、物理的な意味での内側
ではないという事です。

要するに解脱をしたアニータさんの
意識は、自身が全知万能のワンネスと
一体だという事を理解していたので
その万能の意識とともに肉体に戻れ
たら、癌もたちどころに消滅して
いくと自覚できたというのです。

それほど解脱というのは、我々に
とって価値があるという事ですね。

もし解脱をしたら、あらゆる時空を
自在に体験したり、思うままの
「生」を体験する事もできる
でしょう。
解脱してワンネスの意識になった
からといって、じっとしていなければ
ならないという事は全くないのです。

アニータさんは、その解脱の意識を
保持したまま肉体に戻る選択を
しました。

解脱とは、つまり「自分を制約して
いるあらゆるものからの解放であり
無制限の自分とは、全知・万能で
全存在でもあるワンネスそのもの
だという事なのです。

さてアニータさんとエベンさんの
認識の違いが、解脱できるか
どうかの違いに反映されている
事をわかっていただけた
でしょうか?

つまり自分がちっぽけな存在で
畏怖するべき存在が、自分とは
別のものであるというエベン
さんのような認識では、解脱
できず、アニータさんのように
自分は、すでに無制限の存在で
神というようなもののあり方
が自分自身であると理解し、
全てと一体であるワンネスの
境地になれば、それは解脱
できたという事になる
わけです。

さてチベット死者の書に戻り
ますと、やはり解脱とは
全てが自分の投影でしか
ないと悟る事だと教えてます。

こちらです。

「汝がこれらの五仏の叡知自体の
現れを自分の姿にほかならない
と覚った
(さとった)のであるならば、
報身を得て仏となる事ができる
であろうが、そのように悟る事が
できないと解脱できない」
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

つまり全知を司る五仏の叡知が
自分の投影だと知るという事は
自分が全知・万能のワンネス
だと自覚する事であり、それが
解脱の唯一無二の条件だと
教えてるわけです。

この事を聴覚が死後も働く
死者に対して、
毎日のように教えて
聴かせるので、
死者によっては
そのまま解脱できる人も
いると思います。

ただちっぽけな自分を意識させる
毎日の後半の教えは、むしろ
必要ないとも思います。

それがこちらですね。

『五仏それぞれの男女両尊(ヤブユム)
に心を集中して、以下のように
祈願の言葉を唱えるべきである。

《ああ、激しい五つの悪徳(五毒)
のために私が輪廻し彷徨っている
時に、〈四つの知恵が合わさった
明るい光の満ち〉へと、勝れた
御方であり、尊い御方である五仏
がお導きくださいますように。
最高の女尊であるダーキニー
(明妃・みょうひ)が背後から
支えてくださり、不純な六道の
薄明かりの道を脱することが
できますようにお祈りします。
恐ろしいバルドゥの難関を
越えさせてくださり、五仏の
最高で純粋な仏の世界にお連れ
くださいますようにお願い
申し上げます》
とこの祈願の言葉を唱えることに
よって、能力の優れた人は、
これらの幻影が自分自身の現れに
ほかならないと覚り、これらと
不二一体に溶け入って、仏と
なることができるのである。』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

たぶんこのように毎日の教えの
後半に、「ちっぽけな自分」
としての祈願を唱えさせれば
どうしても、自分自身の投影が
祈願している対象の崇める
べき対象の五仏だとは認識
できないと思うのです。

なので、悟れる人は、その祈願を
する前に、ワンネスとしての
自分に気付き、解脱できるので
その後の祈願を唱える必要は
ないという事です。

このあたり、チベット死者の書は
真理の重要なヒントを与えて
くれるすぐれた経典でありながら
宗教の信仰的性質にひそむ
弱点も内包しているものだと
いう結論になります。

私は信仰しているわけではないので
チベット死者の書から読み取れる
真理をどんどん拾い上げていこうと
思うわけです。

最後に再三繰り返される解脱への
ヒントで、どなたでもわかりやすい
死者の書の教えを、引用して
おきます。
ちなみに仏になるとは、解脱できる
という事です。

「現象の世界のすべてのものが
光明と仏の身体をもつて現れて
いる。すべての幻影が光明と仏
の身体をもって洗われている。
これを汝自身の意識のみずからの
輝きであると覚るべきである

みずからの輝きがみずからの
光明や身体と一体に溶け入った
時に、汝は仏となることができる
のである。」
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

つまり現象の世界の全ても
幻影の世界の全ても、自分
自身の投影であり、それを
認識する事こそが、解脱に
つながると説いているわけです。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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神秘体験を科学する3過去生では第三者からの視点も別の場所からの視点も得られる!


この記事は
神秘体験を科学する2過去生で全くの別人に
なったのが自分だとわかる!

の続編です。

では今回も引き続き、
レイモンド・ムーディー氏の著書
からの引用です。

「」内が引用で、~が中略です。

「特徴6
 過去世の光景は自分の両目からのもの
と、第三者的視点の両方になる。

 過去世へ退行中の者は、自分の両目から
見た光景、および第三者的視点からの
光景の両方を経験している。
第三者的視点からの場合、被験者は、
あたかも肉体から離脱した魂がその場面を
見るときのように、自分のいる光景を
別の視点から見ることになる。
 たとえば、ある女子学生が語ってくれた
退行経験によれば、彼女はかつて19世紀
初頭のヨーロッパにおいて男性であり、
馬車の御者をしていた。その過去世へ
退行中、彼女は自分の肉体の目に見える
光景、すなわち御者席に座る自分から
見える馬車の進む道や、馬車の前部などを
見ていた。彼女は馬のおしりや足を見、
また前から来る風などを感じていた。
 しかしそのとき事故があり、馬車は転倒
してしまった。そのとき突然彼女は、光景
を上からながめている自分に気がついたの
である。彼女の下には、めちゃくちゃに
なった馬車馬と、大ケガを負って動かない
自分の体が見えた。
 また別の被験者は、退行経験をこう
語っている。

 「ルネッサンス時代のような服装をした
男が、道にそって歩いている光景が私に
見えました。そのとき気づいたのは、
その光景を自分の視点から見るだけでなく
、上からながめたり、あるいはその男の
視点から見ることさえできたことです。
私は、自分の視点を切り替えることがで
きました。ちょうどテレビ番組を見ている
とき、カメラが切り替えられて視点が
変わるときのようでした。」 」

この第三者的視点は、ムーディー氏の
退行催眠の時にも度々体験されている
ので、過去世体験において一般的な
能力だと思われます。が、これは
臨死体験者にも共通している能力で
やはり肉体を離れた状態でも視覚は
存在するという事も証明しています。
そもそも過去世の自分の目といっても、
現在の催眠を受けている本人の目は
閉じているのだから、自分の肉体の
目を使ってみているのではありません。
あくまでも過去世の自分の意識としての
視覚だという事です。
後の人は、視点を自由に切り替える事
ができたという事ですが、これも一部の
臨死体験者に見られる能力です。
臨死体験者の場合は、まわりの人の心
とも一体になって、その思考や感情も
読み取る事ができたというケースもあり
ます。
全ては、意識レベルの問題だという事
です。
意識レベルが高ければ、より自在な能力
を発揮できるという事なのです。

「特徴7
退行経験はときに現世の問題を反映する

私が扱った退行実験において、そこに現れた
過去世の出来事や状況は、ほとんどの場合、
被験者の現世におけるジレンマや苦悩に
かかわるようなものだった。
それは通常明らかに見てとれた。
 たとえば被験者のある男性は、現世に
おいて年上のガールフレンドがいたが、
威圧的・支配的態度により、いつもストレス
をかかえていた。彼はどうしようもない状況
だと悩んでいた。催眠の中で彼は、古代中東
のある街で自分が女性だった時代に退行
した。

「私はとても美しい王宮の、ある建物の中に
いました。奴隷たちが出入りし、着飾った
女性たちの世話をしていました。
私は着飾った女性たちの一人でした。
私たちは妾として養われ、誰かに仕えるため
にそこにいたのです。たぶんスルタン
(イスラムの権力者)のためでしょう。
その身分にあることで、きわめて快適な
生活が保証されていました。物質的に
は何不自由ない生活です。しかしその一方、
自由は全くなく、その面では地獄のような
生活でもありました」

 彼のこの退行経験は私の胸を打った。
彼はその過去世で、隷属的な一女性だった
という。私は疑問に思ったが、その後も
彼に退行催眠をかけていくと、理由が
わかった。彼の思いの中では、すべての
女性は隷属的立場にあるのである。だから
現在のガールフレンドが彼に威圧的態度を
とったとき、彼は自分を女性のように
感じたのだ。
 このように、過去世での経験が現世
の状況にかかわっていることは、
きわめて明らかだった。しかしこの
かかわりは、はたで見ている療法士
にはたとえ明らかであっても、当人に
とっては必ずしもそうではない。
これは意外ではない。私たち人間は
往々にして、現在の悩みを無意識の
領域に追いやり、考えないようにする
からだ。
 被験者によっては、現在の状況と
過去世の間に、一見して類似点が見られ
ない場合もある。しかしそれでも、
催眠状態から覚めると彼らは、退行中に
経験した過去世が現世での精神的問題に
非常に関係しているという観念を表明
する。
~このことから、現在の人生の問題は、
過去世で未解決だった心の問題に起因
するのではないか、という考えを持つ
人もいるだろう。退行経験の中に、
現世の問題が色濃く反映される。
それゆえ、退行経験によって現世の
心の問題の解決が可能であるという
のが、過去世療法(前世療法)の
考え方である。療法士は、退行経験を
見極めて問題を探り、解決の道を探る。」
“以上「」内全て
出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

レイモンド・ムーディー氏は、医学・
哲学博士であり、精神科医でもある
ので、患者の心の病の解決になるこの
前世療法というのは、とても有効に
活用されるようになったようです。
そのおかげで、多くの患者の生の声を
聞き、過去世体験というものが、
どんなものかを我々に伝えてくれて
いるというわけですね。
魂が、時間の流れに従って存在して
いる側面もあることから、解決され
ない精神的な問題を抱えたまま、人生
を繰り返す場合があるという事も
わかってきました。そしてこの過去世
療法などは、それらの輪廻転生に
付随の問題そのものを解決してくれる
事が多いという事ですね。
これだったら、誰しも気づいている
かいないかに関わらず誰にでもあて
はまる問題なのではないかとも思い
ます。しかし残念ながら、日本では
メジャーな精神的治療法ではないよう
ですね。もちろん情報の制限による
事が明らかですし、危険な精神病
関連の薬物治療が、精神科の医者に義務
づけられているからでもあるでしょう。
これは、調べればすぐにわかってくる
ことですが、精神病治療薬というのは、
多くの場合、余計に精神を破壊したり、
脳の機能を破壊したり、半身不随など
の絶望的な結末につながる事が、
よくあるので気をつけられた方がいいと
思いますね。
精神病は、むしろストレスの多い状況
から離れるようにするなどの自然療法
やまわりの家人や友人などの愛情や
思いやりが何よりのクスリになるという
事です。それとやはり、このような
過去世治療ができれば、それに越した
ことはないというわけです。
また、右脳開発や、瞑想やヨガなどの
潜在意識の能力開発も当然有効になって
くるということですね。
また過去世の精神的問題が、現在の
人生のそれと共通しているという事は
別の見方もできます。時間の流れに従う
だけの意識という側面だけではない、
無限の我々の意識は、現世での精神的
問題が、退行催眠中に、「同時に存在
している過去世の誰かの人生に転移
される」という事です。つまり過去の
時間はまだ、現在も存在していると
いうのが、パラレルワールドの真実
の世界でもあるので、自分の問題が、過去
の別の人生と同調する場合もあるという事
なのです。
実際パラレルワールドの無限の平行に
存在するタイムラインを、感知できた、
絶対意識レベルでのアニータ・ムーアジャニ
さんは、その考え方を支持しているの
です。
ただ、私はどちらの見方も正しいと思い
ます。私たちは、時間に対しての一方通行
的な流れという感覚の呪縛を抱いたまま、
何度も人生を転生しているというのも
また事実だと思えるからです。
つまり退行催眠で、どういった意識レベル
になったかで、経験のレベルにも差が
できるという事ですね。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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チベット死者の書から読み取れる真理の共通点その3「悟りとは二元論的世界からの脱却だった!」


この記事は
チベット死者の書から読み取れる
真理の共通点その2
「解脱とは輪廻転生のマトリックスからの解放
そしてその鍵とは?」

の続編です。

この死者の書の最初の二週間ほどを
占めるチョエニバルドゥ
(存在本来の姿の中有)での
死者への解脱の導きは、同じ様な
パターンで繰り返されます。

最初の一週間で、前回のような
寂静尊が48体現れます。
そして次の二週間で、恐ろしい
形相をした忿怒尊が52体
現れるのです。

では寂静尊の現れる
一日目から六日目までの
パターンを説明しておきます。

光の種類について

一日目
識蘊(しきうん・意識の集まり)と
空の元素からできている紺青色の
強烈な光と微弱な天上界の
白色の光。

(要するに強烈な光と一体になる
べきで、天上界の微弱な白色の光の
方へ吸い寄せられてはならない
という事です。
天上界なら良いじゃないかと
思われるかも知れませんが、
こちら死者の書の世界観では
仏のいる極楽浄土より格下で
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・
人・天の六道の輪廻の一つと
されています。
つまり天上界であっても六道の
輪廻転生の罠にかかった状態
だというわけです。

もちろん天界や人間界はそれほど
ひどい世界ではありませんが、
それらの世界に生きている間に
学ばす・感謝も忘れて生涯を
終えると低いレベルの六道に
生まれ変わるようになるという
事です。)

二日目
色蘊(しきうん・物質的要素の
集まり)と水の元素からできている
根底から清浄な白色の直視できない
ほどの光と地獄の微弱な煙色の
薄明り。

(仏教界では物質は色と表現
されますが、まさに的確で、実は
我々が物質を認識するのは、視覚
によるところが大きく、視覚は
色覚領域の光の波長の範囲内のみで
働くので、色の事を物質という
ように表現しても的確というわけ
です。ここでも直視できないほどの
白色の光と一体となるべきで、
微弱な地獄の光に吸い寄せられて
はならないと教えられます。
しかし天上界から次は人間界の光
の誘いかと思いきや、いきなり
地獄界の光が誘いに来るのは
怖いところですね。
三日目は前回取り上げましたが
比較のためにまとめておきます。)

三日目
受蘊(じゅうん・感受作用の集まり)
と地の元素からできている
根底から清浄な黄色の直視できない
ほどの光明と人間界の青色の微弱な
薄明かり。

(毎回について思うのですが、
一日目から天上界、翌日の地獄界
そして三日目の人間界、それぞれ
の光に執着して、そこで転生の
コースへ行ってしまったら、
ラマ僧の死者の書の読経は、終わる
のだと思いきや、そうではなく
ずっと続けられるのかも
知れません。たとえ六道の輪廻の
コースに行っても、解脱して
いなければ、何度もチャンスが
与えられるという事なのだとも
思えます。

しかし解脱した日があれば、
突然その日を持って読経が終わる
のでなければ、チャンスを与える
ための読経は必要ないはずです。
そこのところは、詳しく資料が
欲しいところですね。

まあそもそも順番通りに光と
尊体が現れるというのは、
自分としてイメージしにくい
ものです。

ただチベットの人々が何世代もの
間信仰してきた死後の世界観の
想念界が形成されているなら、
そういう順番の現れ方を、本人
の内側でイメージで実現させる
かも知れないとは思います。

そしてこれは別の記事でも書こう
とは思いますが、死者の意識が
まだ本人の亡骸と通じる場に
存在しているのなら、ラマ僧が
イメージする世界を死者の意識と
共有する事は可能なのだと
思います。

これは以前取り上げた催眠術の
記事を読んでいただいていた方には
ご理解いただけるかもしれません。

催眠術とは意識をジャック(乗っ取り)して
一体化するという事だった!

四日目
想蘊(そううん・表層作用の集まり)
と火の元素からできている、根底
から清浄な赤い色の直視できない
ほどの光明と餓鬼界の微弱な黄色
の光

五日目
行蘊(ぎょううん・形成作用の
集まり)と風の元素からできている
根底から清浄な直視できないほどの
緑色の光と阿修羅界の微弱な赤色の
光。

これらの光の種類を私たちは、
覚えておく必要がないのですが、
パターン化されたものを俯瞰する
事で理解を深めていただけると
まとめてみました。

基本的に直視できない光と一体化
すれば良いという事なのですが、
生前の習癖をつくる力
(マトリックスのボディマインド
と同意)の作用により、直視でき
ないほどの光の方を恐れて、六道の
薄明かりの方に執着してしまう人が
大半だという事なのです。

一日目の紺青色の強烈な光の
対しては、悪いカルマン(業)の
力に影響されて、恐れを抱き
逃げ出す
。そして天上界の微弱な
白色の光に執着するだろうが
執着して天上界に転生しては
ならないという。

(天上界なら良いのではないか
と思われるでしょうが、どうやら
天上界に転生すると、次は
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・
人・天の六道に輪廻する事に
なるのでだめだという事らしい
です。
ここで疑問なのですが、人間
として転生してきて、今
解脱のチャンスがあるなら、
当然天上界の生を終えても
そのチャンスがあるはずだと
思います。
もちろん天上界で、新たな
カルマを加えたら、六道の
コースへいく可能性も高まる
とは思いますが、少し矛盾点を
感じるところではありますね。

とにかくカルマを生前に
少なくとも軽減させていないと
その六道への転生のコースに
いきがちになるという事です。

このカルマというのも、
ボディマインド(習癖を作る力)の
一種で前世や過去生が関わっている
ものですが、当然解消可能な
わけです。
良い行いで報いるというよりは
ワンネスの真実に気付いたり、
真実について悟る方が、
そのカルマを解消しやすい
という事ですね。
というのも解脱を妨げるここでの
マインド(習癖を作る力)は
「無知」という事だからです。
知とは、学校で習うような
支配層に都合の良い歪んだ
知識ではなく、本物の知識、
真理や真実についての智の事を
いいます。
なので本来の意味での知識や
知恵というものは、カルマを
解消するのに、非常に有効
だという事です。

カルマを変えられないもの
などという、占術に誘導されると
余計に悟りの解脱から遠ざかる
だけなので注意が必要です。)

二日目の根底から清浄な、直視
できないほどの白色の光に
対しては、「怒り」のために
恐れを抱き逃げだし、
地獄の怖じ気づかせないほどの
微弱な薄明かりの方に近づく
だろうが、執着して地獄界に
転生してはならないという。

(当然地獄界なので、微弱
な薄明かりに執着したくは
ないですよね。でも
怒りのマインドつまり
習癖を作る力を捨て去ら
なければ、執着してしまいがち
になるという事です。

仏教の怒りについての説明👇


イライラしたり、カッとなったり、
むかついたりする怒りの心を、
仏教では「瞋恚しんい」と
いわれます。
全部で108ある煩悩の中でも
最も恐ろしい、欲、怒り、愚痴の
三毒の一つです。

これは、怒りの罪は最も深く、
三毒の中で、怒り以上に
重いものはない、ということです。
三毒の中でも最も恐ろしいという
ことは、煩悩で一番恐ろしいとまで
いわれているのです。』
“出典:日本仏教学院

怒りというマインドは、
私も自覚が、ありすぎる
くらいなので、
つらいところです。
ただ怒りの種類においては、
当然罪深さも変わるし、相手の
事を思ってとかだと、罪も
軽減されるでしょうね。
こういう時怒りは怒りという
言い方で、なんでも一緒と
言う人もいますが、それは全然
違います。
プライドを傷つけられた怒り、
自分の行動を邪魔されたときの
怒り、思い通りにいかない時の
怒り、理不尽だと思うものに
対する怒り、また持続的な怒りや
一時的な怒り、憎しみに変わる
ような怒りや、怒りが変じて
愛しさや情に変わる場合など、
まさに感情も千差万別です。
そうそう怒りという感情は
変化するものという理解も
悟りの一つだと思います。
要するに肉体のあるうちは、完全
に消し去るのは、困難でも
悟っていれば、ふだんから
気をつけるようになるし、死後
解脱するチャンスにも恵まれる
という事です。

ただまあ最も罪深いというなら、
できるだけ怒りのエネルギーを
出さないようにしていきたいもの
ですね。)

三日目の根底から清浄な黄色の
光に対しては、おごり(慢心)
のために怖じ気づき逃げだし、
人間界の怖じ気づかせないほどの
青色の微弱な光に執着しがちだが、
近づいてはならないという。

(おごり・慢心というのも
自覚しにくいものですが、
仏教の三毒に入ってなくても、
死者の書では、解脱を妨げて
しまう大きな要素の一つだと
いう事です。
おごり・慢心もつまりボディ
マインドの一種で、習癖を作る
力だという事です。

感謝を忘れて、謙虚な気持ちも
忘れていると、確かに慢心という
毒マインドを蓄積してしまうので
感謝と謙虚というのは、そういう
マインドを解消するのに役立つと
思います。)

四日目の根底から清浄な赤色の
光に対しては、激しい貪欲
(むさぼり)のために恐れ
逃げ出し、餓鬼界の怖じ
気づかせないほどの
微弱な黄色の光に執着しがちだが
近づいてはならないという。

(貪欲は三毒と呼ばれる煩悩
の一つなので罪は非常に大きい
という事です。

欲なんてものは、対象が広すぎて
さほど罪とも思えないような欲
から、罪深い欲までこれこそ
千差万別で、まさに人間そのもの
といって良い煩悩なので、
消し去るのは容易ではない
ですが、絶対意識で解脱できた
アニータさんなどは、生きている
間の欲は、むしろ称賛されるべき
もので、抑えるべきものでは
ないと言ってます。
もちろんその欲のために他人
から奪ったり、まわりに
迷惑をかけないというのは
大前提なのは間違いないですし、
コントロールできる事を前提と
しています。

またこの貪欲のマインド
(習癖をつくる力)が強ければ、
この餓鬼界の微弱な黄色の光は、
その貪欲でできているらしく、
引き寄せられるのだという。
なるほど、それなら確かに
引き寄せられる人は多くなる
でしょうね。

という事は、これまでの
微弱な光は、みんなマインドの
毒でできているという事
でしょう。

無知・怒り・慢心・貪欲
そしてこの後出てくる嫉妬
(ねたみ)などは、生きている
間にコントロールできるように
しておいた方が良いもののよう
です。)

五日目の根底から清浄な緑色
の光に対しては、激しい嫉妬
(そねみ)のために怖じ気づき
逃げだし、阿修羅界の
怖じ気づかせないほどの微弱な
赤色の方に執着しがちだが、
近づいてはならない。

(三毒のうちの一つ愚痴が
出てこずに、
嫉妬が出てくるわけですが、
むしろ愚痴より嫉妬の方が罪
深い気がします。

嫉妬も千差万別ですが、特に
恋愛・愛憎関係の嫉妬心は、
強烈なレベルに育つ場合が
あるので、この煩悩はなんとか
コントロールできるように
ならないと、解脱は相当困難
だと思います。)

これまで観てきたように、解脱
のために一体化するべき直視
できないほどの強烈な光の数々
に対して、マインド(習癖を作る
力)が強すぎると逃げ出して
しまい、そのマインドでできた
薄明かりの方に引き寄せられて
六道の輪廻に陥ってしまい、
解脱する事ができなくなる
という事です。

ただ解脱のためのチャンスは
まだまだ与えられていて、
とうとう寂静尊出現の六日目
には、寂静尊の中心の五仏が
それぞれの女尊や従属する神々
と強烈な光を伴って、一斉に
現れるというのです。
しかしまた地獄・餓鬼・畜生
阿修羅・人・天の六道の
薄明かりも同時に出現します。
これまでの五日間では
畜生界の光はまだ出て来ません
でしたが、この六日目には
これまでの五つの薄明かりの光と
ともに出現するようです。
ただしややこしい事に畜生界の
薄明かりの光は、この後
の七日目に再登場するよう
です。

さて六日目は解脱のための詳しい
導きもなされるのでそれを
抜粋しながら引用してみます。
五日目までの導きを受けてからの
言葉として始まります。


六日目

このように多数の段階において
導きを受けると、生前の善い行い
の報い(果報)がいかに弱く
少ないものであっても、たとえ
一つのお導きによって解脱に到達
できなくても、また次のお導きを
受けることができる。
そこで最後に到達できないことは
ないのである。
(とはいっても、人の数だけ
輪廻の罠にはまっているという
事なら、解脱できない人は、
とてつもない割合になるはず
ですよね。まあラマ僧の
お導きを受けられなかった人が
世界中に無数にいるからという
事もあるでしょうが。たぶん
世界中の人々の中には、ラマ僧
の導きがなくても解脱できた
人も、これまた無数にいると
思います。)

しかしこのように何回もお導きを
受けても、非常にたくさんの
習癖を作る力(習気・じっけ
ヴァーサナー)に長年の間
結びついていたために純粋な五つ
の知恵(五智)に慣れ親しむ
ことができなかった結果、
悪い習癖を作る力によって
逆戻りさせられてしまう者がいる。

(ここで注目していただきたいのは
習癖を作る力(ボディマインド)
に長年結びついていても、囚われて
いたとしても、五智に慣れ親しんで
おけば、解脱のコースへ行ける
という意味にも取れますね。
五智とは、本来の意味での真理
に対する知恵で、当ブログで
扱っているものです。)

お導きを受けても慈悲の光明の
鉤針にかからずに、光明を
恐れておびえの気持ちを
起こしてさらに下方へと輪廻を
続ける者がいる。

そして六日目には、五仏がそれぞれ
女尊や従属する神々(眷属)を
伴って一斉に現れでてくる。
この時に地獄・餓鬼・畜生・阿修羅
・人・天の六道の六つの薄明かりも
同時に現れるであろう。
 
この時のお導きは、死者の名を呼んだ
あとで以下のように告げる

ああ、善い人よ心を惑わされること
なく聴くが良い。汝には昨日までに
五仏のそれぞれの現出があって、
お導きがなされた。しかし汝は
悪い習癖を作る力のために、
これに対して恐れとおぴえの気持ち
を起こして、今日にいたるまで解脱
できずに残っているのである。

 汝がこれらの五仏の叡知自体の現れを
自分の姿にほかならないと覚った
(さとった)のであるならば、五仏は
それぞれの時に汝の身体に虹の光と
なって溶け入り、汝はサムボーガ・
カーヤ(報身・ほうじん)を得て
仏となったであろう。
しかし汝はそのように覚ることが
なかったので、今日にいたるまで
ここに彷徨を続けているのである。

(さてここに全ての答えがあります、
五仏の強烈な光の叡知の現れを
自分の姿に他ならないと悟るならば
解脱できるし、その悟りがないならば
たとえその後祈りを捧げても彷徨
を続ける事になると言っているのに
等しいのです。
答えがそうならば、なぜ、悟れない者
のために、五仏などに祈願するように
伝えるのでしようか。
一つには、どうしても転生してしまう
のなら、この死者の書の導きを
魂に刷り込んで生まれ来る事が
できて、信仰心の篤い信者になる事が
可能になるからではないかと
思うのです。つまり信者が増える事で
人々が悟りやすい社会を形成する
事ができるという事につながる
というわけです。
どうしてそのように思うかというと
悟りを得るには、ワンネスとしての
自覚が何より大事であると今回も
含めて再三説いておきながら、
他者それも自分よりも絶対的に
優れた仏という絶対的他者に対する
意識を持って祈る事は、むしろ
自分自身から仏が投影されるという
ワンネスの悟りから
意識を遠ざけるだけだから
なのです。
つまりこの事が今回のテーマなので
しっかりと留意していただきたいと
思うわけです。)

今こそ、心を惑わされることなく
見るべきである。
今こそ、五仏すべてが一斉に完成
された姿をとって現れるであろう。
四つの知恵(四智・しち)全てが
一緒になった姿をとって現れる
であろう。
これらすべてが同時に汝に会いに
やってくるであろう。
その事を覚る(さとる)べきである。

(ここで中央・東方・南方・西方
・北方の五方向の仏国土から、五仏
と彼らを取り囲む神々とともに
現れ、また六道のそれぞれの仏尊体
も現れるのですが、その描写は
省略させていただきます。
そもそもこのチベットの死者の書
の世界観そのものは、仏教系の
古派密教のものなので、信者や
その信仰されている土地以外の
人々にとって、絶対的に必要な
ものではないと思われるから
です。
何しろ全て自分自身からの投影
なのだから、解脱するために一体
となるべき存在は、単なる光
でも、仏尊体でも、神でも叡知
そのものであってもかまわない
わけです。
ただし、死者の書には真理を
読み解くヒントが、あらゆる
箇所に見受けられるので、それを
取り上げていってるという
わけです。)

ああ善い人よ、これらの仏の
世界(仏国土)は何か特別のもの
として別に存在しているのでは
ない。
これらの仏の世界は、汝自身の
心臓の四方と中央との合わせて
五方向に存在しているものなの
である。

(当ブログでも、心臓こそが、
高次元のゲートの中心であり
生命エネルギーのセンター
である事。
そしてまたハートチャクラが、全ての
チャクラの中心であるという事を
再三に渡って説明してきましたが、
この死者の書によってもそれが
真実であると裏付けられています。

生命エネルギーのセンター心臓は、
次元間のゲートのハートチャクラだった!

また五方向や五仏や五元素、
五毒など五という数字で
完全な世界観を説明する
死者の書は、次元間のゲート
の役割を持つ五芒星形と
それに内蔵される黄金比の
真理に通じているものだとも
思われます。

宇宙と自然の神秘を解く秘密は
黄金比にあった!支配からの解放へ!

汝の心臓の中からいま、外に
出てきて汝の目の前に現れて
いるものなのである。
またこれらの仏の身体も何か
特別のものから現れたものでは
ない。
汝自身の意識の自然で自由な
働きによって作り上げられた
ものである。
そのようなものであると覚る
べきである。

(ここでもワンネスの世界観
を解脱へのヒントとして説明
しています。
またこの後、五仏の心臓から
四智の合わさった、清く
澄みきった光が、死者の心臓
めがけて差し込んでくる描写
がありますが、それも省略
します。)

ああ、善い人よ、これらもまた
汝自身の意識の自然で自由な
働きから現れたものなので
ある。
何か別の特別なものから生じた
のではない。これらに執着しては
ならない。また、恐れては
ならない。
区別をしない無分別の状態に
放置すべきである。
その状態において、すべての
仏の身体と光明が汝自身に
溶け入り汝は仏となるであろう。

(これもまた、ワンネスの境地
つまり全てのもの・世界とその
全ての構成物は自分自身の投影
であるという事を悟らせる説明
で、これを理解する事によって
悟りを得て解脱できるという
わけです。

ここでやめておけば良いのに
と思うのですが、
このあと、人を欺く六道の
薄明かりの現出の描写を
説明して、それに執着すると
六道の境遇に身体を得て
再生してしまうと脅かす
わけです。

そうならないために、つまり
不純な輪廻の薄明かりに執着
しないために、五仏の叡知の
光に祈願するように、説くの
です。

私からすると絶対的な他者に
祈るという行為自体が、悟り
から遠ざかる要因なのに
どうしても、最後は祈願する
ように導くのです。)

《尊い御方である五如来(五仏)の
慈悲の叡知の光が、私を慈悲で
包み込むためにお越しになった
のである。帰依申し上げます》
という敬慕の気持ちを寄せる
べきである。

(このように自分より絶対的に
上の存在であるように五仏を意識
させる事自体が、ワンネスの認識
から遠ざかる原因になっていると
思うわけです。)

人をたぶらかす六道の薄明かりに
執着したり、貪り求めたりしては
ならない。
五仏それぞれの男女両尊(ヤブユム)
に心を集中して、以下のように
祈願の言葉を唱えるべきである。

《ああ、激しい五つの悪徳(五毒)
のために私が輪廻し彷徨っている
時に、〈四つの知恵が合わさった
明るい光の満ち〉へと、勝れた
御方であり、尊い御方である五仏
がお導きくださいますように。
最高の女尊であるダーキニー
(明妃・みょうひ)が背後から
支えてくださり、不純な六道の
薄明かりの道を脱することが
できますようにお祈りします。
恐ろしいバルドゥの難関を
越えさせてくださり、五仏の
最高で純粋な仏の世界にお連れ
くださいますようにお願い
申し上げます》
とこの祈願の言葉を唱えることに
よって、能力の優れた人は、
これらの幻影が自分自身の現れに
ほかならないと覚り、これらと
不二一体に溶け入って、仏と
なることができるのである。

(たぶん悟れる人は、祈願の
言葉を唱える前に、解脱して
いると思いますし、他者を
意識させるような祈願をしようと
しないと捉える方が自然だと
思います。)

普通の能力の人たちは、ひたすら
一心不乱に祈ることによって、
自分自身の本体を覚って解脱を
達成することができる。
能力の劣った人でも浄化の祈願
にすがることによって六道に
生まれる門を塞ぐことができる。
そして〈四つの知恵の合わさった
光の道〉の内容をよく理解し
〈ヴァジュラサットヴァ
(金剛薩埵・こんごうさった)の
秘密の道〉を通って仏となることが
できる。

(最後の祈願によっても解脱
できない人についても説いて
ます。)

能力の劣悪な人の中でも特に
とりわけて劣った人や、人の世に
生まれたのに仏教の教えの影響力
が及ぶ事がなかった罪人および
誓いを守る意志の弱い人などは、
カルマン(業)によって惑乱
されてしまって、お導きを
受けてもそれで覚ることが
できずにさらに下方へと
彷徨い続けるであろう。』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

さて結局このあともずっと何日も
何日も似たパターンでお導きが
されるのですが、なぜ何度も
続くのかというのが大きな疑問
です。

それは最後に絶対的な他者である
仏尊体に祈るなどのパターンが
同じだから、悟れないで解脱
できずに終わるからだと思うの
です。

最初の方で次のように
解脱のヒントがあったのです。
「汝がこれらの五仏の叡知自体の現れを
自分の姿にほかならないと覚った
(さとった)のであるならば、
報身を得て仏となる事ができる
であろうが、そのように悟る事が
できないと解脱できない」
とはっきり言ってますよね。
なのに最後に自分とは別の者に
対するように仏尊体に祈願する
というのでは、ワンネスの悟り
から自分を遠ざけるだけだと思う
わけです。

そのように絶対的他者として
強烈な光を認識したために、
その光と一体化できなかった
好例がありました。

それはエベンさんの詳細で長い
臨死体験にありましたので
再掲します。

エベンさんの臨死体験には
仏の代わりに天使が出て
きますが、やはり光に遭遇
します。
そしてやはりその光を自分の
投影とは感じられなかったので
悟りを得る事はできなかった
わけです。
ところが、臨死体験中に悟れて
解脱できて、絶対意識状態に
なれたアニータさんは、そういう
絶対的な存在を他者とは思わず、
自分自身なんだと理解できている
という解説もしています。
では以下です。


前回エベンさんが天使のような女性に
導かれて、天界を体験した様子を紹介
させていただきました。
そこでは、五感の感覚は分離したもの
ではなく、一体のものとして感じ
られたという事です。
分離されたものを、対象としてみる
という感覚ではなく、それと一体に
なることで、捉えるという感覚だった
ようです。
またこの天界においても音楽が重要な役割
を担っているという事がよくわかりました。
そして今回は、エベンさんがさらに高い
意識領域に移行する様子をご紹介していこう
と思います。

「」内が引用で、~は、中略です。

「さらに先へ進んでいくと、広大な虚空の
中へ入っていった。果てしない広がりが
続く全くの闇だったが、そこは限りない
安らぎも感じられた。漆黒の闇であるにも
かかわらず、光も満ち溢れていた。すぐ近く
にいる気配のする光の球体、オーブ(たま
ゆらとも言う)の一つが放射している光らし
かった。オーブはあの輝く存在の天使たちが
奏でていた調べと同じように、ほとんど
固形のようで生きていた。~
~私の場合は胎児の「母親」に相当する
ものが、宇宙とそこにあるもの全体の母体、
言い換えれば、神や創造主、根源などと
呼ばれる存在だった。
神の存在はきわめて間近に感じられ、自分
との間にまったく距離がないように思えた。
しかしそれと同時に神が無限に広大である
ことがわかり、それに対して自分がいかに
比べ物にならないほどちっぽけであるかを
思い知らされた。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

この部分が特に重要で、エベンさんの
臨死体験を紹介しようとした理由につながる
ものなのです。
今ここが、エベンさんの到達した意識レベル
の限界を示しているところだからなのです。
彼はこの高次元の意識領域で神のような存在
に会ったという事ですが、それは絶対的な
存在と自分が分離したままの感覚だという事
を示しているのです。
せっかく「神の存在はきわめて間近に感じ
られ、自分との間にまったく距離がないよう
に感じられた。」という意識まで到達して
いるのにあと一歩、そのような絶対的な
意識と一体になるところまでいかなかった
という事なのです。
それまで拡大し続けていた彼の意識が、
ここでストップしてしまう事になる
のです。
ここで絶対意識になれなかったエベンさん
と比較して、それを自分のものとした
アニータさんの意識をもう一度引用
させていただきます。

“「どうして突然、すべて理解できたんだ
ろうか?」私はそれが知りたいと思いま
した。
「誰がこの情報を与えてくれたんだろう?
神様かしら?それともクリシュナだろうか?
それともブッダ?キリスト?」
その時、「神は存在ではなく、存在のあり方
なのだ。そして、私は今、そのような存在の
あり方をしている」という悟りが得られ、
その感覚に圧倒されたのです。」”
“出典:「DYING TO BE ME」
アニータ・ムーアジャニ著 
           hay house 刊
邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

つまり彼女の謙虚な言い回しに惑わされず
に、彼女の説明をそのまま受け取れば、
アニータさんは、自分自身が絶対的な
存在そのものとなったといっていると
いう事なのです。
「えーそんな偉そうなー!」
普通そう思いますよね、その普通の感覚
こそ長年の間人類全体を苦しめてきた
「分離」の感覚なのです。
ここで絶対意識のからくりを説明します
と、アニータさんだけが、本来絶対的
存在だったという事ではなく、我々の
一人一人全員がそのような存在で
あるという事なのです。
つまり「みんな偉い!」のですが、
わかりにくいと思いますので、この宇宙に
おける全てのものは、全体とつながって
いて、またその全体そのものでもある
という事なのです。

実は宇宙の物理的モデルもそういう事に
なるのですが、それについてはまた別の
記事に書かせていただきます。
とにかく残念ながら、絶対的な存在と一体
になれなかったエベンさんは、
「自分がいかに比べ物にならないほど
ちっぽけな存在であるかを思い知らされた」
とあるように分離された小さな存在として
自分を意識することで、その絶対的存在
から離れてしまう事になるのです。
(これに対して、絶対意識に到達した
アニータさんは、肉体に自分を自身の選択
により戻すまで、その領域に留まっていま
した。)
そしてちっぽけな自分という感覚を持って
しまったエベンさんは、絶対意識領域に
留まる事ができず、この後、低次の領域に
下降してしまう事になります。』

究極の意識と一体化できるかどうかの境界
とは? エベンさんの証言その5

という事で、わかっていただけました
でしょうか。
つまり光に出会って、それに比べて
自分がなんとちっぽけな存在で
あるかを思い知らされているよう
では、悟りは得られないというわけ
です。
死者の書にあったように、
遭遇した、直視できないほどの
光を自分自身の投影だと悟れ
なければ、解脱できないのですが、
まさにエベンさんは、その闇に
満ち溢れているような生きている
光が自分の投影だと感じる事は
できずに、絶対的な存在の他者
として、感じてしまい。その上
自分自身がちっぽけな存在と自覚
してしまうのです。

当然二元論的な感覚では、ワンネスの
悟りは得られないので、あとは
悟れないまま次元を下降する事しか
できなかったのです。

これで私が、死者の書で、出会う事に
なる叡知の光に対して、絶対的な他者
のように祈願をするというのは、
それに対してちっぽけな存在である
自分という二元論的な意識を持ち続ける
事につながり、ワンネスの悟りの
邪魔になるだけだという事が
わかっていただけたでしょうか。

次回は、エベンさんとアニータさんが
肉体に戻るまでの詳細な描写を
もとに、悟りを得られた場合と、
悟りを得られなかった場合の認識の
違いを説明していこうと思います。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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神秘体験を科学する2過去生で全くの別人になったのが自分だとわかる!


この記事は
神秘体験を科学する!過去生体験に
共通する要素まとめ第一弾

の続編です。

今回も引き続き、
レイモンド・ムーディー氏が
過去世体験を研究した成果として、
その特徴や要素をまとめておられ
ますので、著書からの引用でご紹介
していきます。

「」内が引用で、~が中略です。

「特徴4 どの人が自分かわかる

過去世へ退行中の自分は、現世とは顔形
も声も異なり、ときには性別も入れ替わり、
また肉体的特徴もまるで違う。しかし
いかに違ったとしても、過去世において
どの人が自分かということは即座に理解
している。生活環境や職業、時代や国など、
すべてが違うような状況であっても、
誰が自分なのかわかるのである。
 たとえば私の大学のある学生は、何百年
も前の過去世へ退行したとき、自分は
そこでトルコに住む商人だったと、非常な
真面目さと確信をもって述べた。
(引用注:この学生はアメリカ人である
と思われます)
また南部の若い主婦は、自分ははるか前、
原始時代にアフリカで戦士だったと言い、
こう叙述している。

「私は突然、黒人の戦士である自分を見い
だしました。木の葉を編んで作ったものを
腰に巻いて局部を隠している以外は、
まったくの裸でした!体中の黒い肌に、
戦闘に備えて極彩色のジグザグ模様などが
描かれ、非常に恐ろしい容貌をしていま
した。
 なぜそのような極彩色模様を描くのか、
今の私にはわかります。現代ではそのよう
にする必要はないでしょうが、過去世の
退行中の私の目の前に、別の黒人戦士が
現れたのです。彼もジグザグ模様などを
体に描いていました。その姿が目の前に
現れると、それはショッキングなほど
恐ろしいものでした。
その模様は接近戦においては、敵に
心理的動揺を与える効果があるのです。」

こうした自己感は、退行催眠から覚めた
あとも残る場合がある。被験者は、自分
は過去世で確かにあの男性、あるいはあの
女性だったという感覚を持ち続ける。
そして事実そうだったのかも知れないの
である。」

ムーディ氏は科学者でもあるので、とても
ショッキングな過去世の体験や前世体験の
エピソードを紹介していても、断定口調を
徹底的に避けておられます。
これは科学者としての立場なら正しい
でしょうが、なんかせっかくのエピソード
に、説得力が与えられないという印象を
持つときもあります。私は科学者でもない
単なる研究家なので、確信を持てる事に
対しては、力強く断定していきます。
つまり、体裁やしがらみを気にする必要が
ないという事ですね。
つまり上の例は、魂としての自分の過去世
の実際の記憶なので、自分がどんな姿や声
性別になっても即座にわかるという事
なのです。
また一つのタイムラインの過去という
事ですが、極彩色をする理由などは、
勉強にもなる一面を過去世の体験が、
もたらしてくれるという事を証明もして
くれています。
余談ですが、だいぶ以前に女子高生の間で
流行っていた「ガングロ」という、顔を
真っ黒にしてケバい化粧をしていた姿は
確かに心理的動揺を与えるのに充分でした
ね(^^)💧あやつらは戦士だったのか?

「特徴5 過去世の感情の中に置かれる

退行催眠を受けた被験者は通常、自分は
過去世での実際の感情の中に置かれたと
述べている。
私自身の退行経験においても、たとえば自分
が過去世で味わった非常な恐怖をその場で
心底感じた。必ずしも恐怖の過去世ばかり
ではなかったことが救いだが、かつて
自分がローマのコロッセウム(円形競技場)
でライオンに飛びかかられ食い殺された
ときの恐怖などは、実際に私を気絶させた。
 こうしたことは、はたで被験者の様子を
見ている催眠療法士にも明らかである。
過去世へ退行中の被験者は、療法士の
目の前で自分の顔に恐怖や怒りをあらわに
したり、悲しみや感動の涙をボロボロと
流したりする。優しい感情から激怒に至る
まで、人間の持つあらゆる感情が、退行中
の被験者の表情に現れる。
こうした感情の現れは、被験者が実際に
大昔の過去世へ退行してその場面を生きて
いるのだという確信を、見ている療法士
にも抱かせる。療法士はそれによって
催眠療法が機能していることを知るの
である。」
“以上「」内全て
出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

この過去世体験での、リアルな感情も、
過去世が自分の魂の実際の経験だと
すれば、とても自然に理解できること
ですね。いったいここまでの状況から、
実際の過去世である事実を認めない
現代の主流の科学の姿勢というものは、
いかに狭くて意固地な感覚なのかを
物語っています。
ここは、重要な視点だと思いますが、
証拠というのは、人間のとてつもなく
狭い五感の領域で確認できるという
だけの事で、それしか信じられないと
いうのでは、まさしく世界のほとんど
を事実として認めていないのに等しい
のです。
なぜなら、世界のほとんどは、人間の
とてつもなく狭い「五感の領域の外」に
存在するからです。
もし本当の世界を知ろうとするのなら、
そのとてつもなく狭い五感の領域以外を
探究するしかないという、単純明快な
真理をわかっていないのが、人類の
ほとんどだという事ですね。

とにかく、魂が過去世で体験した事を
催眠中に実際感情を伴って再体験
しているというのは、時空を越えた
領域にまだその過去世が、現実として
存在したままだという事も示して
いるのです。過去は過ぎ去っていない
、まだ現在の我々とともに、存在
している事も証明している事になります。
これは超常現象とホログラム編の一連の
記事を読んでいただれば、より理解が
深まると思います。

退行催眠による過去世体験の特徴は
まだまだ続きます。続きは次回と
いう事で(^^)

いつもありがとうございます(*^_^*)

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神秘体験を科学する!過去生体験に共通する要素まとめ第一弾


退行催眠という方法で、過去世を
体験するという実例を紹介する
シリーズです。
前世記憶や臨死体験との共通点が
多いので、真理を探究するのに非常に
役に立つ事例だといえます。

今回は、レイモンド・ムーディー氏が
過去世体験を研究した成果として、
その特徴や要素をまとめてくれて
いますので、それをムーディー氏
の著書から引用してご紹介したいと
思います。
その特徴がまた多いので、何回かに
分けてご紹介しますね。

「」内が全て引用で、~は中略の意味
です。

「特徴1 過去世経験の多くは視覚的である

私の被験者らが語ったところによれば、
彼らの過去世経験は視覚的なものが
大部分を占める。ときには臭覚的なもの
や、聴覚的なものもある。視覚的に見えた
光景は、通常の白日夢よりも鮮明でリアル
だという。夢の中に見える光景だと、
ぼんやりしたものが多いが、過去世経験
の場合はそうではない。
また過去世で見える光景は通常、白黒で
なくカラーである。
 以下はそのような一例だ。ある女性が
語ったものだが、彼女は1800年代
末期に男性の農民だったという。

「私は18歳の少年で、荷馬車の後方で
足を投げ出して座っていました。私は
そこにいて、自分の足がぶらぶらして
いる光景を見ました。ほんの5分前の
出来事であるかのように、はっきりと
それを見たのです。
 その生において、私が柵のところで
仕事をしていると、蛇が私の足の近くに
見えました。ぼんやりとではなく、今
この目の前にいるようにはっきり
見えたのです。とっさに私は逃げましたが、
ころんで額を岩にぶつけてしまいました。
痛くて痛くて、催眠から覚めたあとも頭痛
が続いていたほどです。
 また額から流れ落ちる血の感覚があり、
催眠から覚めたあとも、顔に血が流れて
いるように思えたほどです。」

 これは、過去世への退行催眠において、
肉体的感覚が伴うことを示す一例である。
まれに、過去世経験が心象風景のみの形
で起きるときもあるが、感覚を伴わない
光景だからといって、その価値が減じ
られるわけでもない。
心象風景だけであっても、感覚を伴う
鮮烈な光景と同様、感動的で忘れ得ぬ
場合がある。」

まずは特徴の一つ目ですが、とても鮮明な
画像と感覚で体験しているという事ですね。
みなさんに思い出していただきたいのが、
これは臨死体験者の人生回顧と共通して
いるという事なのです。
つまりホログラム的現実は、時間が進んで
いっても、そのまま鮮明な形で残っている
という証拠でもあります。
確かに臨死体験者にとっての人生回顧
とは、自分の人生の「過去画像」に
あたるので、この過去世での画像と同じ
種類のものであることがわかりますよね。
また肉体的感覚を伴うのも特徴的ですが、
これまた臨死体験にも見られるもの
です。アニータムーアジャニさんが、
臨死体験で、別のタイムラインでの
現実を経験した時にも肉体的感触が
あったという事も以前ご紹介しました
よね。
さて次の特徴です。

「特徴2 出来事を受け身的に経験する

 退行催眠における場面や出来事は、人の
願望や思いが現れて映像化されたという
より、過去世自体が持つと思われる。

白日夢だと、自分の願望や思いが夢と
なって現れることが多いが、退行催眠
では、人はむしろその過去世で起きている
出来事を、受け身的に体験する。
 退行経験をしている人は、ふつう出来事
の目撃者であって、出来事の制作者とは
ならない。彼らはよく、自分はあたかも少し
馴染みのある映画を観させられているかの
ような感じだった、と表現する。その良い
例は、私自身の退行経験だろう。
私が中国人画家であった自分の過去に退行
したとき、私はそこで、次の瞬間どんな
出来事を起こそうかと考えていたわけでは
ない。単に映画を観ているときのように、
目の前で起こる出来事を受け身的に眺めて
いたに過ぎない。
出来事が終わると、次の出来事が起こった。
私にとってそれは、巨大なスクリーンに
映し出される立体画像を魅せられているかの
ようだった。すべてが色つきで、細かい
ところまで見えた。私のすることといえば
ただそこにいることだけだった。」

これは、どうしても過去世体験を信じない
人たちのために取り上げた特徴でしょう。
疑う人は、過去世体験が自分の想像による
ものだと信じきっていますからね。
間違いなく過去世経験は、自分の想像や
願望のあらわれではないでしょう。
その2からその4でご紹介したムーディー氏
の過去世体験は、まず想像もできないもので、
しかも悲劇ばかりで、とてもじゃないですが
あれを願望の産物とするのは無理があり
すぎるでしょうからね。

臨死体験者の経験がこれと少し違うのは、
臨死体験者は、人生回顧以外にも、かなり
自由な意識の経験をすることが多く。現在
の自分の世界であらゆる人の心を望みの
ままに経験したり、肉体を離れた状態で
あちこち飛び回ったり、いくつかの次元を
自由に行き来したりしていたと多くの証言
にあります。

一方で過去世体験は、ただ過去世を
受け身的に体験するだけのようですね。
今回は最後にもう一つ特徴をご紹介しま
すね。

「  特徴3 光景になつかしさを覚える
退行して過去世にいったとき、人が往々にして
感じるのは、なつかしさや郷愁である。
 被験者がよく口にする感情は、いわゆる
デジャブ(フランス語で既視感)、つまり
「どこかで見たことがあるな」「どこかで
したことがあるな」という感覚によく似て
いる。この感覚は、なんとなくなつかしい
という漠然とした感覚の場合もあれば、
長く忘れていた出来事を突然思い起こして
ハッとする、という場合もある。
 その一例として、私がニールと呼ぶ
患者の退行経験がある。彼はジョージア
州出身で、サザンバプテスト派キリスト
教徒だが、思いもよらずアイルランドの
修道士の過去世へと退行した。彼は
そこでなつかしさを覚える多くの経験を
している。
なかでも特筆すべきは、もう一人の修道士
と丘の上に一緒にいたとき、老齢の農民と
その妻が強盗たちに殺される場面を遠くに
目撃したことだった。

「恐ろしい光景でした。しかし、それは
私が初めて見る光景ではないように思え
ました。
私たちはそのとき、丘に上って農場を
見おろしていました。すると男たちが
馬に乗って農場へやって来るのに気づ
いたのです。農民の老人と妻が、一体誰が
やって来たのだろうと外に出てきました。
男たちは剣と棍棒で彼らを打ち、襲い
かかりました。そののち男たちは馬から
降り、家を略奪し始めました。
 この光景をトランス状態(催眠中などに
みられる、通常とは異なる意識の状態)で
見たとき、私は驚きませんでした。
むしろ『これはどこかで見たことがある』
という感覚だったのです。恐ろしい光景
ではありましたが、自分が昔見た光景に
思えました」
“以上「」内全て
出典:「生きる/死ぬその境界は
           なかった」
     レイモンド・ムーデイ
      ポールペリー 共著
        矢作直樹 監修
         堀 天作 訳”

このようななつかしい感覚、過去世体験が
魂の実際の記憶だというのであれば当然
のことになります。

なかなか今回も真理につながるようないい
ヒントが得られたような良い実例でした
ね。
また次回も特徴をご紹介していこうと
思います。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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