この記事は
チベット死者の書から読み取れる
真理の共通点その3
「悟りとは二元論的世界からの
脱却だった!」
の続編です。
今回はタイトルには使用しましたが、
チベット死者の書からいったん
離れます。
つまり前回取り上げた2人の
臨死体験者の意識レベルと認識の
違いに焦点を当てて、より
詳しく観ていこうと思うのです。
そのためにチベット死者の書で
記されている、「全ては自分の投影」
と言う認識こそが解脱の条件
という事を、2人の臨死体験者の
体験談から確信し、より深く理解
する必要があるという事です。
まずコアと呼ばれる光に対しては
自分はちっぽけな取るに足りない
存在だと思ってしまったエベン
さんの認識が、解脱を不可能に
してしまい、コアと一体化できずに
下降を始めたという事と、
アニータさんのように、自分が
神や仏陀のような存在であり、
つまりは宇宙そのものだという
認識を得られて、解脱の意識
レベルを獲得したという体験談の
比較を前回の記事から再掲して
おきますね。
~
「さらに先へ進んでいくと、広大な虚空の
中へ入っていった。果てしない広がりが
続く全くの闇だったが、そこは限りない
安らぎも感じられた。漆黒の闇であるにも
かかわらず、光も満ち溢れていた。すぐ近く
にいる気配のする光の球体、オーブ(たま
ゆらとも言う)の一つが放射している光らし
かった。オーブはあの輝く存在の天使たちが
奏でていた調べと同じように、ほとんど
固形のようで生きていた。~
~私の場合は胎児の「母親」に相当する
ものが、宇宙とそこにあるもの全体の母体、
言い換えれば、神や創造主、根源などと
呼ばれる存在だった。
神の存在はきわめて間近に感じられ、自分
との間にまったく距離がないように思えた。
しかしそれと同時に神が無限に広大である
ことがわかり、それに対して自分がいかに
比べ物にならないほどちっぽけであるかを
思い知らされた。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
エベン・アレグザンダー著
白川貴子訳
早川書房刊”
この部分が特に重要で、エベンさんの
臨死体験を紹介しようとした理由につながる
ものなのです。
今ここが、エベンさんの到達した意識レベル
の限界を示しているところだからなのです。
彼はこの高次元の意識領域で神のような存在
に会ったという事ですが、それは絶対的な
存在と自分が分離したままの感覚だという事
を示しているのです。
せっかく「神の存在はきわめて間近に感じ
られ、自分との間にまったく距離がないよう
に感じられた。」という意識まで到達して
いるのにあと一歩、そのような絶対的な
意識と一体になるところまでいかなかった
という事なのです。
それまで拡大し続けていた彼の意識が、
ここでストップしてしまう事になる
のです。
ここで絶対意識になれなかったエベンさん
と比較して、それを自分のものとした
アニータさんの意識をもう一度引用
させていただきます。
“「どうして突然、すべて理解できたんだ
ろうか?」私はそれが知りたいと思いま
した。
「誰がこの情報を与えてくれたんだろう?
神様かしら?それともクリシュナだろうか?
それともブッダ?キリスト?」
その時、「神は存在ではなく、存在のあり方
なのだ。そして、私は今、そのような存在の
あり方をしている」という悟りが得られ、
その感覚に圧倒されたのです。」”
“出典:「DYING TO BE ME」
アニータ・ムーアジャニ著
hay house 刊
邦訳「喜びから人生を生きる」
アニータ・ムーア・ジャニ著
奥野 節子訳
ナチュラルスピリット刊”
つまり彼女の謙虚な言い回しに惑わされず
に、彼女の説明をそのまま受け取れば、
アニータさんは、自分自身が絶対的な
存在そのものとなったといっていると
いう事なのです。
「えーそんな偉そうなー!」
普通そう思いますよね、その普通の感覚
こそ長年の間人類全体を苦しめてきた
「分離」の感覚なのです。
ここで絶対意識のからくりを説明します
と、アニータさんだけが、本来絶対的
存在だったという事ではなく、我々の
一人一人全員がそのような存在で
あるという事なのです。
つまり「みんな偉い!」のですが、
わかりにくいと思いますので、この宇宙に
おける全てのものは、全体とつながって
いて、またその全体そのものでもある
という事なのです。
実は宇宙の物理的モデルもそういう事に
なるのですが、それについてはまた別の
記事に書かせていただきます。
とにかく残念ながら、絶対的な存在と一体
になれなかったエベンさんは、
「自分がいかに比べ物にならないほど
ちっぽけな存在であるかを思い知らされた」
とあるように分離された小さな存在として
自分を意識することで、その絶対的存在
から離れてしまう事になるのです。
(これに対して、絶対意識に到達した
アニータさんは、肉体に自分を自身の選択
により戻すまで、その領域に留まっていま
した。)
そしてちっぽけな自分という感覚を持って
しまったエベンさんは、絶対意識領域に
留まる事ができず、この後、低次の領域に
下降してしまう事になります。』
究極の意識と一体化できるかどうかの境界
とは? エベンさんの証言その5
~
さてここからが今回になります。
解脱の認識を得られなかった
エベンさんと解脱の認識を得られた
アニータさんの意識による
体験の世界から、さらに
理解を深める事ができます。
まずエベンさんは、高次の世界を
垣間見る事ができたおかげで、
光から授けてもらった叡智の助け
などもあり
下降してきて肉体に再度宿る
事ができたというわけです。
ただこれも自分の意志で選択した
というより引き戻された感じで、
すでに悟りを開いて、未来の
いくつかのパターンも吟味できた
アニータさんが、もう一度肉体に
宿る事を選択できたのとは、
大違いの意識レベルだという事
ですね。
エベンさんが下降を始めてからの
様子は二つの記事からの再掲に
なります。
エベンさんにとっては、最高次元
というのが、絶対的な光のオーブ
が照らす闇の世界でしたが、
それより下の次元に天界のような
場所があり、それも通過して
下降を続け、最初いた泥の世界にも
降りていきます。
『
「何かに引っ張られているような気がした。
~私はコアの世界を離れ、来た道を戻って
いた。眼下には大地が広がり、コアの輝く
闇が絢爛とした緑に溶けていった。下方には
、村の人々、木々やきらめく小川や滝が見え
、頭上には弧を描いて飛んでいるあの天使
に似た存在たちが見えた。連れの女性も
そこにいた。コアへの旅の間も、光の球体の
オーブになってずっと私のそばにいたのだ。
いまは再び人間の姿をしていた。~彼女に
会えたことが嬉しかった。彼女の存在に感謝
した。「いろいろなものを見せてあげます。
けれどもいずれは帰ってもらいます。」コア
の闇へ入っていくときに、言葉を使わずに
伝えられてきたメッセージが思い出された。
そして帰るということの意味が、そのときに
なって理解できた。
それは旅の出発地点の「ミミズの目」の世界
を指していたのだ。
再びその暗がりに降りていきながら、高次の
世界に何があるのかを承知していた私は、
もう以前のように狼狽することはなかった。
~泥。垂れ込めた闇。浮かんでは消えていく
無数の顔。上から垂れ下がる動脈に似た
木の根。そうしたものが、もうなんの恐怖
も呼び起こさなかった。自分はその場所
には属しておらず、ただ訪れるだけなのだと
-言葉には頼らずにすべてがわかる方法で-
わかったからだ。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
エベン・アレグザンダー著
白川貴子訳
早川書房刊”
なんとエベンさんは、コアと一体になれ
ずに分離意識のままだったために、その
自分の意識の重みにより、低次元の
世界へどんどん逆行して、また地獄に近い
ような世界に戻ってきてしまったのです。
ただ、以前よりも意識レベルが高くなった
状態でなのですが、』
光の球体から離れて再び下降する
エベンさん!エベンさんの証言その7
そして次が肉体まで戻る時の詳細です。
エベンさんは、泥地獄のような世界
に戻ってからも、何度も光のメロディ
に導かれて、再上昇したりしていた
のですが、ついにそれが不可能に
なったところからです。
『
「どんよりしたミミズの目の世界にはまり
込んでいる事に気づくたびに、私は回転する
光体のメロディーを思い浮かべた。それが
ゲートウェイとコアの世界への門を開いて
くれた。・・・
・・・ところがゲートウェイの境界まで
やってきたあるとき、もうそこへ入れないと
いうことを悟らされた。高次元への入場券の
ようなものだった回転する光のメロディー
は、もはや私をそこへは受け入れてくれなく
なったのだ。
~私は悲嘆に暮れ、悲しみを募らせて
ますます暗い気持ちになり、その気持ちは
「実際」に降下するというかたちをとって
体験されることになった。巨大な雲を抜け
ながら、私は下へ向かい続けた。
周囲のあちこちからくぐもった声が
聞こえてくる。~
~私のために祈っていたのだ。
後になって気づいたことだが、その
中にはマイケル・サリバンとその夫人
ペイジの顔もあった。あの時点では
シルエットがわかっただけだったのが、
こちらの世界へ戻って言葉を取りもどして
から、サリバン夫妻であったことが、
はっきりと確認できた。マイケルは
物理的にも、集中治療室で何度も私の
ために祈っていてくれたのだ。
(ペイジは病室には来ていなかったが、
祈りを捧げてくれていた。)
祈りは私に力を与えてくれた。深い悲しみに
沈みながらも何も心配はいらないという
不思議な安心感があったのは、そのおかげ
だったのだろう。
天国は想像主オームの姿で自分と共にここに
ある。蝶の羽根に乗った女性という天使の
姿で、ここにある。それがわかっていた。
帰路についていた私は独りではなかった。
そしてこれからは、決して独りを感じる
ことはないことも確信していた。~
~井戸を落ちながらどんどん近づいている
下の世界にも、自分には愛しい存在がいる
のだと気がついた。その瞬間まで、その
ことを完全に忘れ去っていたのだった。
それに気づいた私は六つの顔に意識を
向けた。六つ目の顔が特別に際立って
いた。
それはなぜかとても懐かしい顔だった。
そう感じたときに、だれの顔かはわから
ないまま、恐怖と紙一重の圧倒的な戦慄
が駆け抜けた。自分はあの顔に必要と
されている。私を失えば二度とその傷
から癒やされず、喪失感に打ちのめされて
しまうであろう顔-天国の門が閉じられた
ときの私と同じ悲嘆にくれる顔。
その思いに応えないのは裏切り同然に
なる顔-。~
~それは内から生まれる恐怖ではなく、
六つの顔へのー特に六番目の顔への恐怖
だった。だれかはわからなかったが、
かけがえのない顔に違いなかった。~
~下界へ下りるという危険を冒して
自分のところへ戻ってくるように哀願
している。何を言っているのかは理解
できなかったが、その言葉は私には
下の世界にしがらみがあること、そこに
“足を突っ込んで”きたことを伝えている
のがわかった。
私は戻らなければならないのだ。
そこには尊重しなければならない関わり
があるのだ。顔がいっそうはっきりと
してくるにつれて、その思いはますます
強くなった。すると顔も、もう少しで
判別できそうなほどになってきた。
それは少年の顔だった。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
エベン・アレグザンダー著
白川貴子訳
早川書房刊”
最後の少年の顔は、エベンさんの息子さん
の末っ子の顔ですね。
彼は、とうとう臨死体験から肉体に帰還
してきたのです。長かった。そう、我々
の時間でこの臨死領域は測れないの
ですが、あまりにも詳細にわたって、
エベン・アレグザンダーさんが、体験を
この著書にまとめあげてくれているので、
今まで長い間集め続けてきた、臨死体験の
資料の中でも、圧倒的に詳しい描写
だと思います。
この詳しい描写のおかげで、本当に多くの
真理への貴重なヒントが得られたと思い
ます。このシリーズでそのヒントについて
一つ一つ解説をしていきました。
今回の最後のシーンも、やはりヒントが
つまっていたのです。
臨死体験が私たちの日常の意識と
つながっている事は、先の記事でも
書きましたが、この肉体に戻る描写は、
それがありありと理解できるように
なっています。
かんたんな図式でいえば、意識のレベル
の高さが、そのまま臨死体験での上下の
感覚で、我々の日常の生きている現実
は、臨死体験の(エベンさんの場合の)
最下層であった「泥の世界」から
さらにずーーっと下降していった場所に
あるという事なのです。
しかも悲嘆にくれていたという
ネガティブな意識を伴いながらの下降
だという事です。
なんと私たちが、生きていて肉体に意識
がある間は、そのとてつもなく低い位置
に意識があるという事なのです。
これで、臨死体験者のほとんどが、肉体
に意識がある間の方が、囚われていて、
臨死領域の世界とは比べ物にならない
くらい不自由だと感じたと証言している
事が、よく理解できますね。
』
ついに生還!身体に戻る描写まで詳細だった
エベンさんの証言その9
さて、コアの世界の絶対的な光
から叡知を授かったエベンさん
でも、自分をちっぽけな存在
としか認知できなかったために
次元を下降させられて、ほぼ
選択の余地なく、肉体に再度
宿る事になりました。
そしてこれはアニータさんにも
共通する部分ですが肉体にある間
は、制限がかかってしまい、
臨死体験中に得た、貴重な
真理的な叡知を思い出せなく
なっているという事です。
まあそれだけ肉体が悟りを
邪魔しやすいものだと
いう事でもあります。
そして、絶対的な存在を自分と
一体のものとして悟れた
アニータさんの場合は、時空の
全てを俯瞰する事ができ、
別のタイムラインに存在する自分
も認識できたりしました。
そして肉体に戻った場合と、
戻らなかった場合の二つの
タイムラインを認識できて、
そして肉体に戻る事を自分の意志
で、選択できたのです。
分離意識ではなく、全ては自分と
一体のワンネスが真理だと
悟れただけで、これだけ
差があるのかと思うくらいの
アニータさんが肉体に再度
戻るまでの詳細を再掲して
おきます。
まずはアニータさんが、
パラレルワールドを認識
できたシーンから
『
私は身体の五感ではなく、まるで新しい感覚
を手に入れたように限界のない知覚を使って
いました。
それは通常の能力よりもはるかに鋭く、
360度が見渡せて、自分の周囲を完全に
認識できました。
驚嘆すべきことのようですが、それが普通に
感じられたのです。
もはや身体の中にいることのほうが、制限
された特殊な状態であるように感じられま
した。
その世界では、時間も違うものに感じられ
ました。私は全ての瞬間を同時に感じて
いたのです。
つまり過去、現在、未来の自分が関係する
あらゆることを、同時に認識していました。
さらに、いくつかの人生が同時に繰り広げ
られているのを感じました。
一つの人生では、私に弟がいて、彼を守ろう
としていました。
その弟の本質は、(兄の)アヌープだと
わかりました。
ただし、その人生で、彼は私よりも若かった
のです。
時代や場所は、はっきりわかりませんでした
が、田舎暮らしのようでした。
家具などほとんどないあばら屋に住み、私は
アヌープの面倒を見て、両親は畑で働いて
いました。
姉として弟の世話をし、家族の食べ物を
確保して、外部の敵から身を守っている
自分をありありと体感している間、その
生活が過去世のものだという感じは
まったくありませんでした。確かに風景は
かなり昔に見えましたが、まるで今ここで
起こっているようだったのです。
時間のあらゆる点を同時に知覚できる
というのは、向こう側の世界での明確な
理解に役立っていましたが、今それを
思い出したり、説明しようとすると混乱
が生じます。
(中略)
五感の制限により、私たちは時間の一つの
点に集中させられ、これらを一列に
つなげて直線的現実を創り上げている
ように思えました。
さらに、私たちの身体の制限された知覚
が、目で見え、耳で聞こえて、触ること
ができ、匂いを嗅ぎ、味わえる範囲に
閉じ込めているのです。
でも身体的制限がなくなった私は、時間や
空間のあらゆる点と同時に関われるように
なりました。」
~引用終了~
“出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
アニータ・ムーア・ジャニ著
奥野 節子訳
ナチュラルスピリット刊”
まさに我々の通常の時間の感覚が、根本的に
間違っていることが、この絶対意識では、
よくわかるということです。
時間は全て同時に存在し、またそれを同時
に体験できて、そしてまたパラレルワールド
も存在しているという事が、実感として
理解できたという事です。
私が、これまでの記事で説明してきた
通り、「無限の時間が同時に存在している
という事、そしてパラレルワールドも
無限に存在しているという事」の裏付けが
彼女の実体験でできた事になるわけです。』
肉体的な制限がかかるのは、エベン
さんも同じでしたが、分離意識の
まま留まっていたエベンさんは、
その制限がより強いし、その上
アニータさんのように時間の
真理や、パラレルワールド的
時空体験はできなかったようです。
そしてついに肉体に戻る時の
アニータさんは、やはり
パラレルワールド的時空の認識
を利用して、二つの未来を比べて
自ら選択して肉体に再び宿る事
になります。
エベンさんのように受け身的
でなく、途中の世界もなく
絶対的な認識状態から一気に
肉体に戻れるわけです。
ただし、あまりに素晴らしい
ワンネスの領域にアニータ
さんは、いったん戻らない
選択をしようと思います。
ではその時の描写を観てみましょう。
『アニータさんは、絶対意識領域で、
一体である父との会話を続けています。
改行して途中で入る「」以外の言葉は
私の注釈というか考察です。
「父との対話に言葉は必要なく、互いに
対する理解が完全に溶け合っていました。
父のことが理解できただけではなく、
まるで自分が父になったようでした。
亡くなってからも、父はずっと家族と一緒
にいてくれたことに気づきました。~
ずっと私のそばにいてくれたのです。」
これはとても素晴らしい事です、これまで
かけがえのない人を亡くして、悲しみに
打ちひしがれている人など、みなさんの
そばにちゃんとその人はずっと存在して
くれているのです。
「私は、父の本質が、これまでより
はっきりと自分に話しかけているのに
気づきました。
「アニータ、今はまだここに来るべき時じゃ
ないんだよ。でも私と一緒に行くか、身体
に戻るか、おまえが自分で決めなさい」
「私の身体は重病で、癌に侵されているの。
もうあの身体には戻りたくない。だって
苦しみ以外何もないんだもの。私にとって
だけじゃなくて、ママやダニーに
とっても・・・・。
戻る理由なんか何もないわ」
無条件の愛の状態がこの上なく幸せだった
のは言うまでもありませんが、私は身体に
戻るという考えに耐えられませんでした。
今いる場所に永久にいたかったのです。~」
アニータさんは、他の臨死体験者たちと違い
身体に戻るかどうか、ゆっくり考えて
選択できる状態であったという事です。
たいていの臨死体験者は、突然身体に
戻ったり、光の存在に戻るようにいわれて
これも自動的に戻ってきたりしています。
さすがに絶対意識領域はそれらとはレベル
が違うようです。
確かに昏睡状態に入る前のアニータさんの
身体は末期癌に侵されていて、身体は苦痛
にまみれ、夫や母の苦しむ姿を見るだけ
だったので、戻りたくない気持ちはよく
わかりますが、ここで絶対意識領域なら
ではの感覚が、アニータさんに訪れます。
なんと異なる時間軸の未来が同時に見えた
という事です。
「このあと起こったことを説明するのは、
非常に困難です。
第一に、私が意識を向けたものは何でも、
自分の目の前に現れるような気がしました。
第二に、時間はまったく問題となりません
でした。時間はまるで存在していないかの
ようで、それについて考慮する必要さえ
なかったのです。
このことが起こる前に、医師は私の臓器の
機能を検査して、すでに報告書を書いて
いました。でも向こう側の世界では、その
結果と報告書の内容は、これから私が
しなければならない決断、つまり生きるか、
このまま死へ向かうかという決断次第だった
のです。
私が死を選択すれば、検査結果には臓器不全
と書かれ、もし身体に戻る選択をすれば、
臓器が再び機能し始めたと記される
でしょう。」
このアニータさんのいう向こう側の世界と
いうのは、自分がいる絶対意識領域の事
で、なんとそこからは、二つの異なる
未来が同時に見えたという事のようです。
「その瞬間私は、「もう戻りたくない」と
決意しました。そして、自分の身体が
死んでいくのを感じ、臓器機能不全に
よる死だと医師が家族に説明している場面
を目にしました。
同時に、父が私にこう告げました。
「アニータ、おまえが来れるのはここまで
だ。これ以上進んだら、戻れないんだよ」
物理的な境界ではありませんでしたが、
自分の前に、エネルギーレベルの違いに
よつて区分された、見えない境界がある
のがわかりました。もしそこを渡れば、
もう二度と戻れないのです。身体との
つながりは、永久に切断されてしまい、
私が目にしたように、家族は、悪性
リンパ種による機能不全で亡くなったと
医師から告げられるでしょう。
無条件の愛と、自分が受け入れられた
感覚はすばらしいものでした。
私は永遠にその状態にいたかったので
、境界線を越えようと思いました。
そこには痛みも、苦しみも、ドラマも、
エゴも存在せず、私はあらゆる生きものと
創造物の純粋な本質に包まれていました。
まさしくすべてが一つであると感じて
いたのです。」
“出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
アニータ・ムーア・ジャニ著
奥野 節子訳
ナチュラルスピリット刊”』
つまりアニータさんは、解脱の認識を
得ながら、自分の未来つまり
肉体に戻った場合と戻らなかった
場合の二つの別々のタイムラインを
選択できる状態にあり、自分の
意志で肉体に戻ってきたのです。
半分強制的に肉体に引き戻された
エベンさんとは全く違いますね。
そしていったんは肉体に戻らない
選択をしたアニータさんが、結局
肉体に戻る決意に気持ちを変えた
きっかけはなんだったのか、
その答えがこちらです。
『
「死の方へ歩き続けると決心した瞬間、
私は新しいレベルの真実に気がつき
ました。
自分が本当は誰かに気づき、本当の自分
のすばらしさを理解したので、もし身体
に戻る選択をすれば、病気は急速に治癒
するだろうとわかったのです。それも
何週間や何ヶ月かけてとかではなく、
わすが二、三日のうちにです。もし身体
に戻ったら、医師は癌の痕跡すらも
見つけられないでしょう。」』
これまでご紹介してきた臨死体験の事例
の中でもアニータさんの病気は、最も
深刻な状態で末期癌で、治療のおかげで、
内臓も何もかもがボロボロの状態だったの
です。
もちろん西洋医学では絶対に回復不可能で
アニータさんは、約6週間ほど前、夫を
通じて医師から死を宣告されていたの
です。
「長く持って3ヶ月」だという事なの
ですが、アニータさんがこの臨死状態に
なるのはもっと早くその半分の期間しか
もたなかったという事です。
ですが、アニータさんは、この自分の気づき
があれば、この致命的な末期癌も急速に
治癒するとわかったという事なのです。
なんと自分が宇宙自身であれば、生命力を
取り戻す事も当然可能だと知ったという事
ですね。回復するにしても二、三日で?
しかも癌の痕跡すら見つけられない?
『「一体どうやって」この意外な事実に驚き
、その理由を知りたいと思いました。
その時、身体は自分の内側の状態を反映
したものにすぎないと悟りました。
もし内なる自己が、その偉大さと大いなる
ものとのつながりに気づけば、私の身体
は、すぐにそのことを反映し、病気は急速
に治るでしょう。」 』
“『』内
出典:「DYING TO BE ME」アニータ・
ムーアジャニ著 hay house 刊”
“邦訳「喜びから人生を生きる」
アニータ・ムーア・ジャニ著
奥野 節子訳
ナチュラルスピリット刊”
この場合の内側というのは表現の仕方が
アニータさんの原本とニュアンスが違い
ます。私は原著の方ももっているので、
その内側は「インターナルステイト」
(internal state)
つまり身体の内側ではなく精神的な
内面の世界だという事です。
五感を基準にした私たちの感覚で理解
しようとすると、このような表現に
対して、身体の内側という錯覚を起こし
がちですが、物理的な意味での内側
ではないという事です。
要するに解脱をしたアニータさんの
意識は、自身が全知万能のワンネスと
一体だという事を理解していたので
その万能の意識とともに肉体に戻れ
たら、癌もたちどころに消滅して
いくと自覚できたというのです。
それほど解脱というのは、我々に
とって価値があるという事ですね。
もし解脱をしたら、あらゆる時空を
自在に体験したり、思うままの
「生」を体験する事もできる
でしょう。
解脱してワンネスの意識になった
からといって、じっとしていなければ
ならないという事は全くないのです。
アニータさんは、その解脱の意識を
保持したまま肉体に戻る選択を
しました。
解脱とは、つまり「自分を制約して
いるあらゆるものからの解放であり
無制限の自分とは、全知・万能で
全存在でもあるワンネスそのもの
だという事なのです。
さてアニータさんとエベンさんの
認識の違いが、解脱できるか
どうかの違いに反映されている
事をわかっていただけた
でしょうか?
つまり自分がちっぽけな存在で
畏怖するべき存在が、自分とは
別のものであるというエベン
さんのような認識では、解脱
できず、アニータさんのように
自分は、すでに無制限の存在で
神というようなもののあり方
が自分自身であると理解し、
全てと一体であるワンネスの
境地になれば、それは解脱
できたという事になる
わけです。
さてチベット死者の書に戻り
ますと、やはり解脱とは
全てが自分の投影でしか
ないと悟る事だと教えてます。
こちらです。
「汝がこれらの五仏の叡知自体の
現れを自分の姿にほかならない
と覚った
(さとった)のであるならば、
報身を得て仏となる事ができる
であろうが、そのように悟る事が
できないと解脱できない」
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
川崎信定 訳
ちくま学芸文庫”
つまり全知を司る五仏の叡知が
自分の投影だと知るという事は
自分が全知・万能のワンネス
だと自覚する事であり、それが
解脱の唯一無二の条件だと
教えてるわけです。
この事を聴覚が死後も働く
死者に対して、
毎日のように教えて
聴かせるので、
死者によっては
そのまま解脱できる人も
いると思います。
ただちっぽけな自分を意識させる
毎日の後半の教えは、むしろ
必要ないとも思います。
それがこちらですね。
『五仏それぞれの男女両尊(ヤブユム)
に心を集中して、以下のように
祈願の言葉を唱えるべきである。
《ああ、激しい五つの悪徳(五毒)
のために私が輪廻し彷徨っている
時に、〈四つの知恵が合わさった
明るい光の満ち〉へと、勝れた
御方であり、尊い御方である五仏
がお導きくださいますように。
最高の女尊であるダーキニー
(明妃・みょうひ)が背後から
支えてくださり、不純な六道の
薄明かりの道を脱することが
できますようにお祈りします。
恐ろしいバルドゥの難関を
越えさせてくださり、五仏の
最高で純粋な仏の世界にお連れ
くださいますようにお願い
申し上げます》
とこの祈願の言葉を唱えることに
よって、能力の優れた人は、
これらの幻影が自分自身の現れに
ほかならないと覚り、これらと
不二一体に溶け入って、仏と
なることができるのである。』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
川崎信定 訳
ちくま学芸文庫”
たぶんこのように毎日の教えの
後半に、「ちっぽけな自分」
としての祈願を唱えさせれば
どうしても、自分自身の投影が
祈願している対象の崇める
べき対象の五仏だとは認識
できないと思うのです。
なので、悟れる人は、その祈願を
する前に、ワンネスとしての
自分に気付き、解脱できるので
その後の祈願を唱える必要は
ないという事です。
このあたり、チベット死者の書は
真理の重要なヒントを与えて
くれるすぐれた経典でありながら
宗教の信仰的性質にひそむ
弱点も内包しているものだと
いう結論になります。
私は信仰しているわけではないので
チベット死者の書から読み取れる
真理をどんどん拾い上げていこうと
思うわけです。
最後に再三繰り返される解脱への
ヒントで、どなたでもわかりやすい
死者の書の教えを、引用して
おきます。
ちなみに仏になるとは、解脱できる
という事です。
「現象の世界のすべてのものが
光明と仏の身体をもつて現れて
いる。すべての幻影が光明と仏
の身体をもって洗われている。
これを汝自身の意識のみずからの
輝きであると覚るべきである。
みずからの輝きがみずからの
光明や身体と一体に溶け入った
時に、汝は仏となることができる
のである。」
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
川崎信定 訳
ちくま学芸文庫”
つまり現象の世界の全ても
幻影の世界の全ても、自分
自身の投影であり、それを
認識する事こそが、解脱に
つながると説いているわけです。