霊的領域を科学すると真実が見えてくる!東日本大震災で30人の霊に憑依された霊体験をした方から学べた事とは!?


私は当ブログで、目に見えていない世界も
霊的な存在も、現実のものとして存在すると
いう事の裏付けとなる記事をいくつも
書いてきましたが、今回の記事は、私が
研究で得てきた見解を、さらに裏付けて
くれるものとなります。

最近、スナメリオさんから紹介された本が
非常にありがたいもので、こちらになります。

「死者の告白
30人に憑依された女性の記録」

      奥野修司著
         講談社刊

今回の記事はこちらの本の引用が
主体となります。

著者の奥野氏は、この本の以前にも
東日本大震災当時の震災後、多くの
霊体験が報告されていた事をこちらの
本にまとめられています。

今度こちらも読んでみようと
思います。

この奥野氏の信頼できるところは、
本人が超常現象や霊というものを
信じ込んでいるわけでもなく、
その信憑性を主張しようともして
いないところです。

今回ご紹介する本の冒頭にはこう
書かれています。


僕は科学を信じている半面、信じる
ことで成り立つ科学は、宗教とそれほど
違わないとも思っている。

(引用注:実際その公式の科学は、矛盾
だらけの仮説を公式の定理として用いた
ものが多いので、まさに信仰という表現
がぴったりなのです。)

人間も含めてこの世は合理的であり且つ
非合理的な存在だ。

だったら目の前で起こっていることが
確かなら、信じないまでも、まずは素直に
受け止めたいと思う。

かといって、それを他者に求めるつもり
はない。

どうも怪しそうだと思ったらファンタジーの
ように読んで欲しい。読み終わる頃には、
こんな世界もあるんだと、ちょっと
驚いてもらえるはずである。』
“出典:「死者の告白
30人に憑依された女性の記録」

      奥野修司著
         講談社刊”

もの凄く謙虚な物言いですよね。

目の前で起こっていることを素直に
受け止める姿勢というのは、公式の
科学では異端視扱いされる量子物理学の
コンセプト、「コペンハーゲン解釈」と
全く同じ表現ですね。

コペンハーゲン解釈についてはこちら

謙虚であるからこそ、真実味を帯びて
話を聴く気になるという方も多いと
思います。

こういうスタイルは、前世記憶を持つ
子供たちを2000人取材した
イアン・スティーブンス氏と同じもの
で、とても好感が持てます。

前世記憶についての記事がこちら

今回のテーマの憑依という現象と、
前世記憶という現象には、確かな共通点
があるので、この記事を先に観て
おきましょう。


輪廻転生については太古から世界中の
宗教や思想、文化、教えが肯定して
います。

どれほど多方面で認められてきたか
👇の一覧で示されています。


ヒンドゥー教
仏教
ジャイナ教
シーク教
ゾロアスター教
チベット密教
日本の密教
多くの南アジアの仏教の諸派
ピタゴラス学派
オルフェウス教
プラトン主義者
エッセネ派
パリサイ人
ユダヤ教カライ派
ユダヤ人および半ユダヤ人のグループ
新プラトン主義
グノーシス派
中世のユダヤ人のカバラ的神学体系
アフリカの部族
ジャマイカのラスタファリアン
アメリカインディアン
新大陸発見以前の文化
ポリネシアのカフナ
ブラジルのアンバンダの従事者
古代ガリア人ドルイド僧
現代の西洋の神智学者、人智学者
初期の神秘的なキリスト教の一部
また、旧約聖書にも新約聖書にも
輪廻転生は説かれていましたが、
政治的理由から500年代に
コンスタンスチヌス帝によって
削除されてしまったという事実が
あるといっています。 』
“出典:「21世紀の思想の創造
          光の輪
」様”

支配血族が改竄したキリスト教が
転生の否定にまわり、支配層が
中世から支配化におさめる西洋科学
でも転生が認められていないという
事は、真実は真逆が正しく、転生は
真実だという事になります。

(もちろん時間の進行とともにある
マインドのレベルではという事
ですが。)

さてここで繰り返しになりますが。
もう一度肉体に宿る時の意識の
仕組みについて説明しておきます。

私たちの魂という個人の意識は、生命
に宿る時に三つの要素から成り立って
いると考えてます。

つまり親(現人生での体験も含む)と
先祖の全ての体験・記憶と形質の
遺伝子が投影される要素。

そして生命を受けた時の宇宙的天体の
配置も含めた環境による意識エネルギー
と、その時点で受けとった集合意識
という要素。

それと別の時空または前世にある人生
を生きた人格の意識と個人としての
主体的な意識との混成という要素。

(この最後の別の時空または前世
に生きた人格が、生まれてから
強調されて表れる時に、生まれ変わり
として認識されたりもするという
事です。

ただその場合でも親の遺伝子
情報や環境情報とその意識も同時に
宿っている事に変わりはありません。)

これら三つの割合など現時点の私では
わかりませんが、
やはり通常の人は、これら全て
の要素を魂に投影させて、生命を形成
していると、これまでの研究から
理解しています。

とにかく、別の人生に生きた人格も
意識に投影されて生を受けたという
実例が前世記憶という事です。

その前世記憶つまり転生の裏付けとなる
事例に徹底して、厳しい調査を繰り返して
きた科学者で、最も有名で信頼されて
いるのが、イアン・スティーヴンソン教授
という人物です。

この人の凄いところは、徹底した研究の
仕方で、共同研究者たちとともに、その
前世記憶を持った子供を尋ねて
現地までいき、その証言の裏付けを
徹底する事にあります。

なんとそのような事例を2000以上も
集めたというのです。

これは、まさに前世記憶が、れっきと
した真実であるという事を完全に裏付けて
いるではありませんか!

しかし、このイアン・スティーヴンソン氏
の凄いところは、これだけの証拠事例を
集めておきながら、前世記憶が転生を
裏付けるという事を主張してはいない
と明言しているという事です。

なんという謙虚さでしょう。
例の公式の科学とは比べ物になりません。

「一見赤方偏移が遠ざかっている星の動きに
想定できる」という理由だけで、
他の光の屈折などの可能性を
勝手に排除して、そこからの類推で
宇宙の起源とビッグバンをでっちあげて
完全な真実として、喧伝し続けて、
いつのまにか常識にしてしまうような
のが公式の科学の常識・定説として定義
づけられているのです。

とにかくその謙虚で真摯な同氏の著書が
邦訳で出てましてそれが、
“「前世を記憶する子どもたち」
    イアン・スティーヴンソン著
            笠原敏夫訳”
です。これが今私の手もとにあるという
わけですね。

やはりこういった事例に対して、
懐疑的や否定的な人たちのために
物理的な証拠も合わせて見られる事例を
取り上げることにします。

例によって「」が引用で~から~までが
中略です。

「コーリス・チョトキン・ジュニアの事例

 アラスカに住むトリンギットの老漁師
ヴィクター・ヴィンセントが姪のコーリス・
チョトキン・シニアに向かって、自分が
死んだらおまえの息子として生まれ変わる
つもりだ、と語ったことが本例の発端に
なっている。

ヴィクター・ヴィンセントは姪に小さな
手術痕を二つ見せた。

ひとつは鼻柱の近くにあり、もうひとつは
背中にあった。

その痕を見せながら姪に、このふたつの
痕跡と同じ場所にあざがあるから
(来世では)すぐ見分けがつくはずだ、
と語ったのである。
ヴィクター・ヴィンセントは、一九四六年に
死亡した。

その一年半ほど後
(一九四七年一二月一五日)、
チョトキン夫人は男児を出産した。その子は
、父親の名前を襲名し、コーリス・
チョトキン・ジュニアと名付けられた。

コーリス・チョトキン・ジュニアの体には
母斑がふたつあった。母親のチョトキン夫人
によれば、その母斑は、以前伯父の
ヴィクター・ヴィンセントが見せてくれた
手術痕と全く同じ部位にあったという。

私がこの母斑を見たのが一九六二年で
あったがチョトキン夫人の話では、生まれた
時にあった位置からはふたつとも既に離れて
しまっているとのことであった。

とはいえ、ふたつともまだかなり明瞭
であり、特に背中の母斑は印象的であった。

長さ三センチ、幅五ミリほどの大きさで、
周囲の皮膚に比べて黒ずんでおり、わずか
に盛り上がっていた。手術痕が癒えた時の
状況とよく似ており、大きな母斑の両側
の、手術で切開した皮膚を縫合する糸が
あるはずの位置に、小さな丸いあざが確かに
ついていたため、手術の痕に似ているという
印象をますます深めたのである。

 コーリスが一歳一ヶ月になったばかりの頃
、母親が名前を復唱させようとしたところ、
コーリスは腹立たしげに、「僕が誰だか
知っているよね。カーコディだよ」と
言った。

これは、ヴィクター・ヴィンセント
の部族名であった。コーリスが自分のことを
カーコディだと言った話をチョトキン夫人が
ある叔母にしたところ、その叔母は、
コーリスが生まれる直前、ヴィクター・
ヴィンセントがチョトキン一家と暮らす
ようになる夢を見た話をしてくれた。

チョトキン夫人によれば、ヴィクター・
ヴィンセントが自分の息子に生まれ変わると
予言していた話をそれまでその叔母に一度も
したことがなかったのは確かだという。

 コーリスは、二、三歳の時に、ヴィクター
・ヴィンセントの未亡人を筆頭として、
ヴィクターが生前知っていた人物数名を独力
で見分けている。コーリスは、通常の手段
で知ったとは考えにくい、ヴィクター・
ヴィンセントの存命中に起こったふたつの
出来事についても言い当てているという。

また、コーリスはヴィクター・ヴィンセント
とよく似た行動特徴もいくつか示している。
たとえばコーリスは、髪の梳かし方が
ヴィクター・ヴィンセントと瓜ふたつで
あったし、ふたりとも吃音があり、船や海
の上にいることを非常に好み、きわめて
宗教心が強く、しかも左利きだったので
ある。

コーリスはまた、小さい頃から発動機
に関心を示し、発動機を操作・修理する技術
も持っていた。

母親の話では、コーリスは
船の発動機の操縦法を独学で習得したと
いう。コーリスが父親からこの技術を受け
継いだり学んだりした可能性はない。

父親には発動機に対する関心も発動機を
操作する技術もほとんどなかったから
である。」
“「前世を記憶する子どもたち」
    イアン・スティーヴンソン著
            笠原敏夫訳”

まあこれは間違いなく、過去の人生で
老漁師だったヴィクター・ヴィンセント
の霊または意識または魂が、このコーリス
・チョトキン・ジュニアという子に
宿ったといえる事例でしょう。

ただ懐疑派の人は、これは暗示効果だと
いう場合を指摘するかも知れませんね。

ヴィクター・ヴィンセントが、その子を
産むことになる姪に自分がその姪の息子
として生まれ変わるという事を聞いた
姪の潜在意識が、DNAに作用し、その
言葉の内容をその特有の言語として
書き込んだため、それが出産に影響した
という事だとする言い分がありますよね。

ですが、その子が、前世の知人の記憶を
持っていた事、ヴィクター・ヴィンセント
の体験の記憶や何より、性質や特技、
また身体的な癖や行動特性まで同じ
という事になれば、もはやDNAに
書き込まれたという説明だけでは、全く
筋が通らなくなる事になりますよね?

つまりやはりこの場合の結論は、霊や
魂や意識となったヴィクター・ヴィンセント
が、姪の息子の肉体に宿り、生まれ変わった
というものにしかならないと思います。

公式の科学や改ざんされたキリスト教
以外の世界中の宗教や民族、学派が
みんな輪廻転生を実在するものとして
いたという事は、公式の科学の多くが
デタラメであった事が明らかになった
今では、それこそが真実・真理であると
言えると思えますね。

公式の科学の多くがデタラメだという
事についてはこちらのリンク集の一連の
記事で、詳しく取り上げています。

隠された科学的真実編一覧

真理のヒント編一覧

宇宙の仕組み編一覧

超古代の真実編一覧

さて前世記憶が魂の転生のあらわれ
だとしたら、死後、生きている人に
憑依する魂も実在するだろうと
いう事は、イメージしやすいですよね。

さて今回の本の紹介に移りましょう。

内容が豊富なので今回はその第一弾
という事で・・・

引用部分は全て『』内という事です。

この本で取り上げられている、30人に
憑依された人物というのが高村英さんと
いう方で、この方は、生まれつき霊感が強い
というか、霊を日常的に目撃されていた
というのです。

高村英さんの紹介部分から見ていきましょう。
本人は自分が霊能者とか、憑依されたという
感覚もなく、単に現実はそういうものだと
受け止めていたようです。
今回の体験後も自分を霊能者と名乗る
事もなく、その能力を主張しようとも
一切されていません。
若い時分では自分の空想の産物だとも思って
いたようですね。


子供の頃からいつもわたしにはお友達が一人
多かったように思う。

たとえば、お友達のおうちに行った時も
そうです。

お友達のお姉ちゃんが入って一緒に遊んだ
つもりで家に帰り、お姉ちゃんのことを母に
報告すると、「だって英ちゃん、あそこは
お兄ちゃんが2人で、女の子はあなたの
お友達しかいないはずよ」と言われるん
です。

じゃ、一緒に遊んだあの子は誰なのだろうと
思っていました。』

通常の感覚でいくと、霊と言われれば、
まるでこの世に残してきた未練があり、
むしろネガティブな意識の塊のように
捉えてしまうものですよね。

ですが、高村英さん(以後英さんと表記)の
場合は、一緒に何気なく遊んだという
のだから、すごく自然な存在で、しかも
恨みや後悔などとは無縁の存在で
あったという事が観てとれます。


小学校時代のある時、スピリチュアルな
話をわたしと一緒にしていた友達から、
「英ちゃん、もうこういう話をするのは
やめよう」と、いきなり申し訳なさそうに
言われたことがあります。

その友達も、わたしと同じ世界を見ていた
と思っていたのですが、実はわたしの
「空想」に付き合ってくれていたんだと
いう事に気づき、それからは人前で
こうした話はしなくなりました。』

英さんは、このように霊について話を
する時も、自分が霊体験をしている
という自覚はなく、もしかしたら
自分の空想による幻影かも知れない
とも思っていたようです。

大事なのは、英さんが、子供の頃から
自分の霊体験を病気のせいだと
勘違いしたり、空想の産物だと
思ったりしていたのは、本来の
現実について研究をしてきた私の
ような人間でなければ、ごく自然な
事だと思うのです。

そしてだからこそ、自分を宣伝するためとか
世間を欺こうとか、そういう理由で、自分の
エピソードを語っているのではないだろうと
いう事が伝わってきますよね。

英さんは、しかし以前はともかく、多くの
霊体験をしたあとで、確かに自分の観てきた
ものは霊であるという事は理解するように
なったようです。


わたしが最初に死霊を見たのは幼稚園に入る
前だったかと思います。

寒い時期ではなかった記憶がありますが、
トイレに行った帰りに風呂場の前を通ると、
白いワンピースを着た黒髪の女性が立って
いたのです。

もっとも、当時は子供だったのでワンピース
だと思っていたのですが、今から思えば、
あれは真っ白な白装束だったのかも
しれません。

通りすぎたあと、「あれ?」と思って、
もう一度確かめようと風呂場に戻ると
誰もいないのです。

時間がとびますが、中学の時に身内の法事
があってお寺に行きました。

本堂の横にあるお座敷に入ると親戚の人
たちが集まっています。

ふと見ると、奥座敷に亡くなった方たちの
写真がずらっと並んでいました。

家族に「この写真は何?」と尋ねると、
無縁仏になった人やお寺につながりのある
人たちで、写真を飾って供養してもらって
いる人もいるという説明でした。

その時、おじいさんの妹にすごい綺麗な人が
いて、その方の写真もここに飾られて
いるんだよと言われて見せていだきました。

そしたら、なんと幼稚園に入る前に風呂場の
前で見たあの女性だったのです。

写真をひっくり返してみると私と同じ苗字
でした。あれは身内の人だったんだと、
その時初めて知ったのです。』

つまり英さんのおじいさんの妹さんは、
すでに何十年も前に亡くなっていた
という計算にもなるでしょうが、霊となって
死んだ時の姿で、存在していたのを、
英さんがはっきりと目撃していたという
事になります。

なんせ英さんには、生きている人として
目に映っていたというのですから。

ここで、こういう事例に関して、懐疑的な
人も多いかと思いますので、少し説明を
加えさせていただきますね。

みなさんの中で多くの人が夢では、亡くなった
人に会えていたという経験をお持ちでしょう。

私は特に夢を、長くてとても濃密な時間の
実感とともに観ているのですが、すでに
亡くなった人も、完全に生きている時と
変わらず、しかも抱きしめたり、手で
確かめても、その手触りや感触から、
完全に現実にいる存在である事を、
確認したりしています。

しかし、それでも夢が醒めれば、夢の中
での出来事だと、普通の方は、脳内の幻想
でしかなかったと解釈するわけですが、
こういう事を研究している私からすれば、
それは幻想なのではなく、確かな実在
だという事になります。

違いは、起きている時は、強力な五感の
左脳による現実の解釈と、寝ている時に
より活発になる右脳・松果体での現実の
解釈というだけの事です。

左脳の現実がより強固なのは、過去から
未来への一方向への時間間隔があり、
寝る前と起きた時の現実(感覚または記憶)
がつながっているからです。

もし寝る前の現実と、完全に違った現実が
現れたら、誰しもそれを疑うでしょう。

それくらい左脳の時間の連続性の現実感覚は
強固に出来ているのです。

しかし寝ている間には、時間の順序も
五感の感覚も休止していますので、
亡くなった人も、生きている時と同じ
ように、現れる事になるのです。

ですが、こういわれる事でしょうね。

「亡くなった人はこの世にいないわけ
だから、やはりそれは現実ではない」と。

ところが、その「亡くなった人は、この世に
いなくなったわけではない」という事が
真実なのです。

その理由は、私たちは永遠の現在に生きて
いるという事が真実で、周波数のチャンネル
さえ合わせれば、どんな時代のどんな人にも
会える事ができるという事なのです。

その事については、いくらでも記事を
書いてきましたが、こちらの記事も参考に
なるでしょう。

さらにこうも言われるでしょう。

「それでも起きている時には実体がある
けれど、寝ている時には実体がないじゃ
ないかと」

そこが五感の現実感覚の、いわば決定的な
トリックなのです。

私たちはモノという実体のある現実を
生きていて、実体の身体を持っていると
誰しも思っていますよね。

実は、モノ自体、五感の周波数の範囲内
だけでしか存在しないものだという事が
真実だったのです。

その事は、こちらの一連の記事が参考に
なります。

要するに、私たちが五感の現実を疑いようの
ないものとして捉えるのは、同じ五感の
現実を生きている人どうしで、その現実
感覚を共有できているからです。

もちろんその事は、人生を生きる上で
非常に大事な事ですし、そこから情や
あたたかみを感じ合えるという貴重で
かけがえのない体験もできているわけです。

しかし、私たちが五感の現実世界だけ
かたくなに信じて生きているのであれば、
それはその感覚に限定させた支配層の
悪意あるトリックに誘導され、危険な
未来へと向かわされることを止める事が
できないというわけです。

私が五感の領域の外の世界について、
記事を書くのは、そこから解放される
人を増やしていき、そういう人とつながり
支配層の狙いとは、全く違った現実を
創り上げたいと願っているから
というのもあります。

とにかく起きている時の現実感覚も、
単に五感の制限された知覚の周波数の
チャンネルの中でだけのものだと
いう事です。

そして英さんのような非凡なくらい霊的感覚
の豊かな人は、起きている時にも、その周波数
のチャンネルを亡くなった人のいる霊の領域に
合わせる事ができるわけです。

もちろん推測ですが、左脳と同様、右脳や
松果体が、通常の人より発達または、退化
していなくて、起きている時に、霊的な
領域を感知できるように、先天的に
なっているという事だと思います。

霊というと何か、生きている人に憑りついて
ネガティブなエネルギーをもたらすと
思いがちですが、英さんに映る霊は、
通常の場合、非常に自然にふるまって
いたようですね。

もちろん悪霊もいますので、その場合は
生きている人に多大なネガティブ
エネルギーをもたらします。

その事についてはこちらの記事で
取り上げています。

さて英さん自身は、自分のそういう感覚を
どのように捉えてきたのか、続きを
観てみましょう。


他の人には見えないのに、わたしだけに
見える人がいるというのは、小さい頃から
ごく普通のことでしたね。

見えるといっても、オカルト映画によくある
悪霊のように、ぼんやりと浮遊している人形
(ひとがた)ではないのです。

死んでいるとはわからないほどリアルでした
から、見分けがつかない時もありました。

でも学校では普通に過ごしていました。

私の体質を知っている友人は数えるほど
しかいませんでしたが、知られても
気にしない気にされたこともなかったと思う。』

気にされたこともなかったというのは、英さん
自身の感想で、普通はみんな気にするし、
隠れたところでは、噂になっていたのでは
ないかと思います。

ただ英さんを傷つけようとするような悪意
ある友達がいなかったのは、幸運だったと
思いますね。

化け物扱いしたり、腫れもの扱いするような
ケースも、面白がって近づいてくるような
ケースも、世の中にはたくさんあると
思いますので。


ただしょっちゅう心霊現象に出遭うので、
面倒くさいと思ったことは、よくわかり
ました。

妹がカラオケボックスに行って帰って
きた時でした。

そこで、すごく怖い思いをしたと言うのです。

その時、妹の横に女の人がいるのが見えた
ので「それって女の人の声だったでしょ」
と言ったら、母も妹も「なんでわかるの?」
と言うんです。

「だって、連れてきてるじゃない?」
と言ったとたん、母にものすごく叱られ
ました。

それからは、母や妹の前でもそういうことを
言うのはタブーなんだと思って言わなく
なりました。

これは高校時代ですが、部活が終って帰りが
遅くなった日でした。

もう暗くなっていましたね。

靴に履き替えようと思って下駄箱に近づくと、
幼稚園に入る前くらいのスカートをはいた
女の子が、下駄箱の向こうからいきなり
あらわれたのです。

長い髪の毛を揺らして、私の横を通り
過ぎました。

ペタペタとコンクリートの床を走る
音が聞こえましたから、裸足だった
のでしょう。』

ここで霊に関しての、私たちの思い込み
を一つ取り去る必要が出てきたのに
気づいていただけましたか?

彼女は、霊であろう女の子の足音を
コンクリートを踏む裸足の感覚で
聴いたというのです。

それはまさしく英さんにとって
実在のものであった
だろうし、私たちが彼女と同じ
チャンネルでいれば、やはり
実在のものとして捉えると思います。


こんな時間に保護者の呼び出しでもあったのか
と思い、あたりを見回したのですが誰も
いません。

すると階段を上がっていくのが見えたのに、
今度は足音がしない。

その瞬間、これは追っかけちゃ駄目なんだと
気づきました。』

今度は足音がしなかったから、霊だと確信
できたという事なのでしょうが、足音を
している時と、何が英さんの中で変わった
のかというと、保護者の呼び出しが
あったわけでもないのに、こんな時間に
女の子がいるはずがないという思念が
加わったからです。

そうなると、通常の五感の周波数に近く
なり、その女の子の足音が聞こえなくなり、
霊だと確信できて、追いかけるのをやめた
という事です。

このように、彼女の感知する周波数は、
わりと柔軟に変わるものであったよう
です。


当時は、生きている人か死んでいる人か、
見分けられませんでした。

今では死者と生者の違いははっきりわかります。

どこが違うのかと言われても説明が難しい
のですが、勘というか、空気を読むような
感覚でわかるとしか言い様がありません
・・・・。

レンタルビデオ店などに行ったりすると、
すれ違った人が連れていた霊を、わたしが
拾ってしまうこともよくありました。

もっとも霊を拾ったところで、わたしに
何か影響を及ぼすことはなかったし、あの頃
は我流ながらコントロールもできていたので、
自分にとってそれほどリスキーなことでは
なかったのです。

そばにいつも誰かの霊がいるというのが、
当時のわたしには普通の生活でした。』

まあ普通といっても、本人の感覚でした
でしょうし、通常の感覚の人なら、
霊が常にまわりにいるという事自体が
すでに普通ではないと思います。

ただまわりの人たちが、彼女をその事で
騒ぎ立てたり、遠ざけたり、また
おもしろがったり、問い詰めたり
しなかったので、彼女自身は普通に
生活ができていたのだという事でしょう。

まわりの人も大人の対応をしてくれて
いたという事ですね。

ただし大きくなるにしたがって、彼女は
自分に霊能力があることは、自覚する
ようになっていたようです。


学校生活も普通、家庭環境も普通てせした。

霊が見えるというので、霊視して欲しいと
頼まれたことがあります。

どんな霊視だったか忘れましたが、
そのあとで生霊を「除霊」したことも
ありました。

「除霊」といっても、にらみ合いをして、
その人に憑いた霊を引き離すのが
精一杯でした。

もっとも、「除霊」ではあの人たちが
あまりにもかわいそうだから、自宅に
連れ帰って共同生活をしながら、
時間をかけて浄化(浄霊)するような
こともしていました。』

霊能者としての英さんの能力は確かな
ものであったのがよくわかりますね。

もちろん彼女は、そういう自分の
能力を生活の糧にする事もしなかったし、
また誇らしげに吹聴することもなかった
ようです。

そして彼女は霊的感覚だけでなく、運気も
読めるようでした。

『当時のわたしが大事にしていたのは、
今日は、日が悪いから学校に行きたく
ないとか、この時間帯に歩くと良くないから
30分ほど時間をずらそうとか、そういう
ことの方がわたしにとっては重要でした。

「日が悪い」というとなんとなく気乗りが
しない日と思われがちですが、日が悪いと
感じたのに何も対策をとらず、予定通りに
行動すると必ず凶事に見舞われました。

場合によっては、それは死につながり
かねないことでした。

「日が悪い」と感じ取るのは、私にとっては
ネガティブな出来事を回避するためだった
んです。

避けられない日もあります。

そういう時は万全の備えで出かけます。
絶対に駄目な日というのもありますが、
そういう時は学校もさぼりました。』
“出典:「死者の告白
30人に憑依された女性の記録」

      奥野修司著
         講談社刊”

英さんは、霊的感覚とともに、ネガティブ
な運気の流れも読めていたという事
ですね。

今回は、高村英さんというおそらく
仙台在住の方の、ある状況が変わる
までのエピソードをご紹介しました。

ある状況というのは、東日本大震災
です。

つまり安定した電磁界領域が狂い始めた
その時に英さんの普通の生活が
一変したということです。

次回はそのことについて、取り上げて
いこうと思います。

その時の高村英さんの体験が、私たちの
現実感覚を高みに引き上げてくれる
ものであるのは、間違いないと思われる
ので・・・。

ではまた(^^)/

いつもありがとうございます(*^_^*)

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