この記事は
コーワン博士の慧眼「脳は単なる受信器官」
私たちは劣化した脳のフィルターを
通して「ちっぽけな存在」だと
錯覚させられている!
の続編です。
VRゲームと同じように私たちの
現実感覚は世界観ごとプログラム
されてきた!劣化させられた
左脳の思考パターンからの
解放が鍵
で私たちのへの生体プログラムが
五感の制限された認識領域に私たちを
閉じ込めているだけでなく、思考パターン
や世界観もプログラミングしてきた
という事を、説明していました。
前回の記事ではその6番目の
プログラムについて、説明したので
今回は以下の7番目のプログラムに
ついて説明していきたいと思います。
7.より強く、能力の高い存在を
畏怖し敬い、その存在に
従わなければならないという錯覚
現在、日本と日本人だけでなく、
世界中が、ほんの一握りの人数の
支配層血族の意図により、邪悪な
人間家畜牧場ともいうべき、
完全管理支配社会に向けて、着々と
しかし、多くの目覚めた人たちにより
抵抗を受けながらも進行させられている
というのは、全く陰謀論でも、なんでも
ない現実の話だと、理解する人は多く
なってきたと思います。
けれど、私たち大衆が、ほんの少し
しかし確かな意識の変革をするだけで
事態を大きく逆転できるようになると
すればどうでしょうか?
その鍵となる事のが、現在解き明かそう
としている、人類に根底から仕掛けられた
思考プログラムなのです。
今回の7番目の思考プログラムの
解除は、そういう意味で非常に大切
です。
7番目の思考プログラムをもっと
端的にいえば、ちっぽけな自分を
守ってくれる存在への依存心や信仰心
という事です。
最初のテーマ
「依存と信仰は、私たちの人生を
他の存在の意思にゆだねて、
その存在に従う意識を確立させ
本来の万能の意識を放棄させる結果
となる」
現在の私たちが信仰しているものが
宗教だけでなく、公式の科学や
国家権力、公共の電波など、いろいろ
複雑になってきてはいるものの
根底にあるのは、ちっぽけな自分は
何か自分より能力が高く、強い力を
持った存在に依存しなければ
幸せにまた豊かに生きていけない
という依存心とそこから生まれる
信仰心です。
公式の科学や、国家権力、公共の電波
への依存と信仰の持つ危険性については
別記事でまたまとめようと思います。
今回は、太古からある全知全能の神
という存在への依存心と信仰心について
がテーマです。
これが、支配層が太古から人類に
仕掛けた、思考・意識プログラムだと
いう事なのです。
まず絶対的な存在への依存心と信仰心
というのは、本来のワンネスである
私たちの意識にとって、致命的な
分離の概念をもたらす元凶なのです。
本来「全て」のワンネスであるはずの
私たちが、なぜ自分とは別に絶対的な
存在を求めなければならないの
でしょうか?
その根底にあるのは、「ちっぽけな自分」
が生きていくためには、自分より
能力が高く、敬うべき存在について
いかなければならないという依存心
です。
その「ちっぽけな自分」という自己
イメージが、単なる思考プログラム
の幻想でしかないというのは、前回
の記事で説明しましたよね。
ここで、神とは何かについて
おなじみのアニータさんの
言葉を観てみましょう。
「そもそもどうしてこの世に生まれて
来たのかも理解できるように思えました。
自分の真の目的について悟ったのです。
「どうして突然、すべて理解できたんだ
ろうか?」私はそれが知りたいと思いま
した。
「誰がこの情報を与えてくれたんだろう?
神様かしら?それともクリシュナだろうか?
それともブッダ?キリスト?」
その時、「神は存在ではなく、存在のあり方
なのだ。そして、私は今、そのような存在の
あり方をしている」という悟りが得られ、
その感覚に圧倒されたのです。」
“「」内全て出典:「DYING TO BE ME」
アニータ・ムーアジャニ著
hay house 刊
邦訳「喜びから人生を生きる」
アニータ・ムーア・ジャニ著
奥野 節子訳
ナチュラルスピリット刊”
我々は、全知全能の絶対的存在とつながって
いるばかりでなく、意識レベルが究極に
なれば、その絶対的存在そのものになれる
という事なのです。
まあ信仰の篤い方々には到底受け入れられ
ないでしょうが、これは真理だというしか
ありません。
全てが一体であるというのが真実なので、
それであれば自分と分離した存在という
ものがある時点で、矛盾してしまう事に
なるからなのです。
神などの絶対的存在を、意識するように
なった時点から、自分自身の絶対的な
力を、その存在に譲渡する形になります。
なぜなら、そのような力が「ある」のは
その神などの方で、自分には「ない」
という強力な裏の意識が、自分自身の
ものとして、潜在意識に刻み込まれて
しまうからです。
支配層は、私たちが、絶対的な存在である
と意識されてはたまったものでは
ありません。
それでは、私たちを「支配」する事など
永遠に不可能になるからです。
実際本来の私たちは、永遠で不滅の絶対的
な意識なのです。
しかし太古の昔に支配層は、人類を支配し
彼らの糧である、ネガティブエネルギーを
摂取し続けるために妙案を思いついたのです。
神という絶対的な存在がいて、それを
信仰し、その言葉や教えに従っていけば
「永遠の命」や「至福の魂」を得る事が
できると、人々に吹き込んだのです。
もちろん「永遠の命も、至福の意識も」
人々全てに「元からある」ものなのにも
かかわらずです。
宗教が支配層由来のプログラムである事を
アイクが著書でわかりやすく説明して
います。
『
わたしは長い間、宗教はこれまで考案
された中で最大のマインドコントロール
であり、現在までずっとそうだと
言い続けてきた。宗教は人々の心を
かどわかし、互いに戦わせるために
考案されたものだ。さまざまな種類の
〈神のプログラム〉に対する盲目的で
不撓不屈(ふとうふくつ)の信仰ほど、
包括的に人間を奴隷にしてきたもの
はない。ここで「さまざまな」と
いったのは、さまざまな名の、という
意味だが、宗教はすべて同じやり方で
構築された〈プログラム〉だ。
繰り返し現れる要素は、信徒ないし
信者の集団、神があなたに何を求めて
いるかを告げる仲介者(通常は男性で、
僧服を身に着けている)、そして崇拝の
対象としての全能の神(神々)だ。
ほとんどどの宗教を調べても、
この青写真の焼き直しだとわかる
だろう。
それから「本」の存在がある。
すべての導き、インスピレーション、
洞察は「本」の中にだけ書かれて
いる。
それが聖書であれ、コーランであれ、
だ。
(引用注:この「本」、聖書やコーラン
などは、信者が神の代弁者たるものが
記したはずだという信仰心から、
本に書かれている事(教義)を神の言葉で
あると信じ、これらの聖典に従う
事になっています。このあとユダヤ教
やイスラム教など様々な宗教の
阿保らしさについて
アイクが皮肉たっぷりに具体的な実例を
取り上げています。)
~
わたしから観れば宗教とは狂気の一形態
であり、慢性の近視眼で、自由思考の
あらゆる権利を犠牲にするものと定義
されるものだ。わたしはこの章を執筆中
に、超正統派のユダヤ教信者の行動に
関するニュースを読んでいた。彼らは
イスラエル国営のエル・アル航空機に
乗った時に、女性の隣に座るのを拒否
した。それが教義に反し、神はそれを
好まないからという理由だった。
しかし、彼らの神は女も創造した
はずだろう。
調子でも悪かったのかな。助けてくれ、
頭がおかしくなりそうだ。もし女性たちが
席を移動するのを断ったら、この狂信者
たちは、座るのを拒んで通路に立つの
だろう。~
別のユダヤ教の宗派は「危険」で
「トーラーに反する」(トーラーとは
ユダヤ教の聖書、有名な
タルムードとはまた別の文書)という
理由で、女性が高等教育を受ける
ことを禁じようとしたこともある。
以下にあげるのは、ユダヤ教徒が安息日
(シェバト、シャバット、悪魔の日)に
してはならないことのほんの一部
(本当にごく一部)だ-
何かを熱して変化させること(たとえば
パンを焼くこと)、車の運転(火はつける
ことも消すことも禁じられている、
自動車は発火と燃料で動く)、(引用注:
なんとユダヤ教の安息日では、火を
消す事も禁じられているのなら
火事の時は放っておかれるという事
だろうか?安息日の間は、
人々や街が業火に焼かれていても
神の意思の代理であるトーラーの
言葉に従い放っておかれる事になる)
、同じく熱と発火という点から
電気製品、照明器具、ラジオ、
テレビをつけることも、電話の使用も
禁じられている(照明は安息日が始まる
前につけておかなければ、真っ暗な
中で過ごさなければならない)、
接着したり縫い合わされたりミシン目
の入ったものを引き離すこと
(これにはトイレットペーパーや
ペーパータオルを破ることも含まれるー
質問無用だ)。
リストはさらに延々と続く。文字を
書くこと、消すこと、袋を破ることも、
破れ目が文字や単語にかかる場合は
タブーだ。さらに、植物に水をやる
ことも、花を摘むこと、現金を扱う
こと、物に最後の仕上げをすること。
禁忌のリストは耐えがたいほど詳細に
わたるが、~
こんなことを誰が要求しているのだろう。
そう、旧約聖書の神が要求している
らしい。ひどい神だ。~
(引用注:まだまだありますが、省略
しといて、イスラム教の教義に従う
アホらしさについてが以下になり
ます。)
イスラム教過激派は、女性は全身を
黒ずくめの衣服で覆わなければ
外出してはならないと主張する。
ただありがたいことに、目は除外
されている。なんて思いやりだ。
イスラム教の(というよりワッハーブ派
の)公式の「故国」であるサウジアラビア
では、女性は車の運転を禁じられているし
、単独あるいは、許可なしには旅行も
できない。~
父親が、娘が溺れてもライフガードに
救助させないことも知られている。
それを許すとよその男が娘に触れて
しまうからだ。
チュニジアでは、断食月(ラマダン)に
人前で飲食する権利を要求する抗議行動
を行ったが、これに先だって、断食
しない人たちが「公共のモラルを攻撃」
したとして逮捕されている。
ここに挙げたのは、極端な例だし、
イスラム教にはもつと良識ある表現も
多くあると思うのだが、それでも自己
や人生、世界に対する知覚全体は、
子供の頃から繰り返しと強制によって
ダウンロードされた大昔の教義に
命じられたものののままだ。
同じことはユダヤ教、キリスト教、
ヒンドゥー教その他、すべての宗教に
起きている。主要な宗教はすべて大昔の
(それほど古くない場合もある)教義を
基礎としている。
その教義はいったん記録されるか伝統に
組み入れられると、しばしば何千年にも
わたって世の中を支配するルールと
なり、その範疇を超えるものは、すべて
排除されるか糾弾される。
神を喜ばせるために1日に5回跪いて
(ひざまづいて)メッカ(悪魔の立方体)に
向かって礼拝しなければならないと
信じるときに、自由な選択や思考は
どこへいくのだろう。
「ムスリム」とは「服従する者」という
意味だ。
ヒンドゥー教は多くの人から啓蒙的な
宗教だと信じられていて、西欧の
ニューエイジ運動は、ここから
インスピレーションを得ている。
しかしわたしには、これも多くの狂気を
伴った別の専制としか見えない。~
2015年まで、インドとの国境に
近いネパールでは、ガディマイ
(「力の女神」)を崇めるヒンドゥー教
の祭りが5年こせとに行われていて、
スイギュウをはじめ数十万頭以上の
動物が生贄として、殺されていた。
数は、もっと多いという人もいる。
その殺戮を見るためにやって来た
数百万人は、その儀式が悪を終わらせ
、繁栄をもたらすと信じていた。
しかし、それは決して実現しなかったし
、悪を犯して悪を終わらせられるはず
もない。~
(引用注:ここから先、神の吸収する
エネルギーについての説明があります
が、アルコーンやデミウルゴス
というのは、支配層の背後にいる、
または支配層血族に宿っている、
太古からの神々の正体のことを
指します。レプティリアンは
人間の姿と容姿を変換できる
(シェイプシフト)支配層血族やその
配下の、非人類種のことです。)
人間の宗教によって、大量のアルコーン
敵エネルギーという「ランチ」が
共される。
恐怖-神や女神の布教を買うことの恐怖
-を操作することによって、宗教の
知覚的意思を信者に押し付けているのだ。
イスラム教もキリスト教もヒンドゥー
教も、どれも基本的なテーマは同じだ。
神や神々が何を求めているかを
決定し、それから脅し、罪、恐怖、法
さらには処刑によって押し付けらる。
キリスト教には、串刺し公ヴラドが
意気地なし見えるほどの残虐行為、
大量虐殺、進行の共生の歴史がある。
ほぼ2000年の間、多くの人々が
語られることもなく命を奪われ、
破滅させられ、また知覚を制限
されてきた。
(引用注:キリスト教を脅かす危険な
存在を排除するという目的で
行われた魔女狩りや魔女裁判も
残虐なキリスト教の歴史を
物語るものですが、その事はこちら
の記事で取り上げていました。
それでもキリスト教は、今も
世界で推定22億人の人々に知覚の
青写真を供給している。
キリスト教の正体は、バビロニア教会
で、それが血族とともにローマに
移り、そこから、今日のわたたちが知る
キリスト教が誕生した。~
キリスト教が生まれるまでの
数千年にわたって、世界中で語られて
いたものと同じ基本的な物語なのだ。
処女母が救世主を産んだという話は、
聖書以前にも数多くある。~
キリスト教とそれにつながる諸宗教
には、かつてバビロニアやその他の地域
にあった本物を復活させた生贄の祭壇が
あるし、キリスト教のシンボルは人間の
生贄そのものだ。
イエスは「神」の命令で「人類を救う」
ために犠牲になった?
あらゆる「歴史」を通じて、人間の
生贄は、神ないし、神々の怒りを
鎮めて「人類を救う」ために行われて
きた。だとしたら、それはいったい
どんな「神」だというのだろう。
さまざまな「異なる」宗教がつながって
いることは明らかだ。ユダヤ教は
旧約聖書を共有している点でキリスト教
と大きく重なっているし(引用注:
イスラム教も共通聖典として
旧約聖書を位置づけています。
旧約聖書の残虐性については
こちらの記事が参考になります。
イスラム教にはイエス、マリア、
アブラハムといった聖書上の人物が
含まれている。
そう、まさにデミウルゴスと
シュミレーションなのだ。
(引用注:デミウルゴスというのは
支配層血族の背後にいる知的生命体
を神格化した呼び名で、その下に
アルコーンという、デミウルゴスの
意図を実行する存在があるという
事です。どちらも古代にキリスト教
に弾圧して消し去られた、グノーシス
派の文書での呼び名です。
シュミレーションとは、人類に
仕掛けられた仮想現実の事で
これまでの記事で説明してきた
生体プログラムや思考プログラム
によって進行してきたというもの
です)
キリスト教は、イエスを救世主と
信じることによってのみ天国へ行ける
と主張している。そして、イスラム教
は、アッラーの楽園に場所を確保して
くれる唯一の宗教だと主張する。
神に与えられた優位性を信じたが最後
、信じない者は精神的に人間扱い
しなくなり、どんな残虐行為も正当化
できるようになる。それがこれまで
起こってきたことであり、今、現在も
起こっていることだ。狂信者のイスラム
国(ISIS)やイスラエルで、あるいは
不法に占拠されたガザ地区やヨルダン
川西岸地区で起きていることを見れば
わかる。」
“出典:「今知っておくべき重大な
はかりごと」第2巻
デーヴィッド・アイク著
ヒカルランド刊”
原著は、さらに以前ですが、この本
でさえ2019年12/31の
刊行なので、現在はイスラエルに
よるパレスチナ人への大量虐殺が
行われています。
もちろんイスラム側のハマスも
支配層のコントロール側にあり、
いつものように両建ての仕組み
だというわけです。
宗教のプログラムが、世界中で
ほぼ同様なのは、それが太古から
支配層が人類に仕掛けた思考
プログラムの一貫であり、また
生贄を神が必要とするというのも
ほぼ共通するテーマです。
なぜ神が生贄を必要とするのかに
ついては、こちらの記事が参考に
なると思います。
記事より
『
支配層は、悪魔崇拝の儀式
で生贄の恐怖エネルギーを、悪魔的
知的生命体に献上し、彼ら自身も共有
する事によって、その知的生命体を
自身に憑依させて、その知的エネルギー
と悪魔的なエネルギーを得る事ができる
のだという事です。
』
要するにすべての宗教が、古代
バビロニアの悪魔崇拝儀式の
ように生贄を必要とする思考
プログラムにつながっていて、
支配層とその背後にいる非人類種
生命体にネガティブエネルギー
を献上するという仕掛けに
つながっているという事です。
神が生贄を必要とするという事に
疑問を抱き始めた人類のために
様々な宗教が開発され、教義の
ために理不尽な残虐的な行為や
対立、他宗教・他宗派に対する
憎悪や残虐な行為が正当化され
間接的な生贄が、やはり支配層と
その背後にいる非人類種生命体に
供給されるシステムになっている
という事です。
だからこそ大量虐殺や戦争、また
貧困や様々なテロが、人類の歴史で
常に行われてきたという事なのです。
ネガティブエネルギーをもたらす
という意味では、医療による大量
虐殺や、移民による犯罪の横行、
自然災害に見せかけた、気象操作
や人工地震、DEW兵器などでも
破壊殺戮なども、全て支配層に
対する生贄という根柢での仕掛けに
つながっているという事です。
特に今回は宗教での信仰に対する
思考ブログラムについてだったので、
それを解除して、私たちが自分たちの
本来の意識による自由な思考・選択
心を放棄して、理不尽な教義に従う事が
いかに愚かな行為かわかって
いただけたかと思います。
これは理不尽な社会的な思考
プログラム全てについて言える
事ですが、大事なのは私たち
自身の思考や心の声、自由な選択
などを放棄しては、ならないという
事です。
また実際には、全宇宙自身であり全てと
一つである永遠の意識である自分を
ちっぽけな存在であると決定
づけてしまう事につながる
絶対的な他者である
「神への信仰」というものが
どれだけ人類社会の悲劇につながって
きたかをお伝えしたかったという
わけでした。
ではまた(^^)/