チベット死者の書から読み取れる真理の共通点その3「悟りとは二元論的世界からの脱却だった!」


この記事は
チベット死者の書から読み取れる
真理の共通点その2
「解脱とは輪廻転生のマトリックスからの解放
そしてその鍵とは?」

の続編です。

この死者の書の最初の二週間ほどを
占めるチョエニバルドゥ
(存在本来の姿の中有)での
死者への解脱の導きは、同じ様な
パターンで繰り返されます。

最初の一週間で、前回のような
寂静尊が48体現れます。
そして次の二週間で、恐ろしい
形相をした忿怒尊が52体
現れるのです。

では寂静尊の現れる
一日目から六日目までの
パターンを説明しておきます。

光の種類について

一日目
識蘊(しきうん・意識の集まり)と
空の元素からできている紺青色の
強烈な光と微弱な天上界の
白色の光。

(要するに強烈な光と一体になる
べきで、天上界の微弱な白色の光の
方へ吸い寄せられてはならない
という事です。
天上界なら良いじゃないかと
思われるかも知れませんが、
こちら死者の書の世界観では
仏のいる極楽浄土より格下で
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・
人・天の六道の輪廻の一つと
されています。
つまり天上界であっても六道の
輪廻転生の罠にかかった状態
だというわけです。

もちろん天界や人間界はそれほど
ひどい世界ではありませんが、
それらの世界に生きている間に
学ばす・感謝も忘れて生涯を
終えると低いレベルの六道に
生まれ変わるようになるという
事です。)

二日目
色蘊(しきうん・物質的要素の
集まり)と水の元素からできている
根底から清浄な白色の直視できない
ほどの光と地獄の微弱な煙色の
薄明り。

(仏教界では物質は色と表現
されますが、まさに的確で、実は
我々が物質を認識するのは、視覚
によるところが大きく、視覚は
色覚領域の光の波長の範囲内のみで
働くので、色の事を物質という
ように表現しても的確というわけ
です。ここでも直視できないほどの
白色の光と一体となるべきで、
微弱な地獄の光に吸い寄せられて
はならないと教えられます。
しかし天上界から次は人間界の光
の誘いかと思いきや、いきなり
地獄界の光が誘いに来るのは
怖いところですね。
三日目は前回取り上げましたが
比較のためにまとめておきます。)

三日目
受蘊(じゅうん・感受作用の集まり)
と地の元素からできている
根底から清浄な黄色の直視できない
ほどの光明と人間界の青色の微弱な
薄明かり。

(毎回について思うのですが、
一日目から天上界、翌日の地獄界
そして三日目の人間界、それぞれ
の光に執着して、そこで転生の
コースへ行ってしまったら、
ラマ僧の死者の書の読経は、終わる
のだと思いきや、そうではなく
ずっと続けられるのかも
知れません。たとえ六道の輪廻の
コースに行っても、解脱して
いなければ、何度もチャンスが
与えられるという事なのだとも
思えます。

しかし解脱した日があれば、
突然その日を持って読経が終わる
のでなければ、チャンスを与える
ための読経は必要ないはずです。
そこのところは、詳しく資料が
欲しいところですね。

まあそもそも順番通りに光と
尊体が現れるというのは、
自分としてイメージしにくい
ものです。

ただチベットの人々が何世代もの
間信仰してきた死後の世界観の
想念界が形成されているなら、
そういう順番の現れ方を、本人
の内側でイメージで実現させる
かも知れないとは思います。

そしてこれは別の記事でも書こう
とは思いますが、死者の意識が
まだ本人の亡骸と通じる場に
存在しているのなら、ラマ僧が
イメージする世界を死者の意識と
共有する事は可能なのだと
思います。

これは以前取り上げた催眠術の
記事を読んでいただいていた方には
ご理解いただけるかもしれません。

催眠術とは意識をジャック(乗っ取り)して
一体化するという事だった!

四日目
想蘊(そううん・表層作用の集まり)
と火の元素からできている、根底
から清浄な赤い色の直視できない
ほどの光明と餓鬼界の微弱な黄色
の光

五日目
行蘊(ぎょううん・形成作用の
集まり)と風の元素からできている
根底から清浄な直視できないほどの
緑色の光と阿修羅界の微弱な赤色の
光。

これらの光の種類を私たちは、
覚えておく必要がないのですが、
パターン化されたものを俯瞰する
事で理解を深めていただけると
まとめてみました。

基本的に直視できない光と一体化
すれば良いという事なのですが、
生前の習癖をつくる力
(マトリックスのボディマインド
と同意)の作用により、直視でき
ないほどの光の方を恐れて、六道の
薄明かりの方に執着してしまう人が
大半だという事なのです。

一日目の紺青色の強烈な光の
対しては、悪いカルマン(業)の
力に影響されて、恐れを抱き
逃げ出す
。そして天上界の微弱な
白色の光に執着するだろうが
執着して天上界に転生しては
ならないという。

(天上界なら良いのではないか
と思われるでしょうが、どうやら
天上界に転生すると、次は
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・
人・天の六道に輪廻する事に
なるのでだめだという事らしい
です。
ここで疑問なのですが、人間
として転生してきて、今
解脱のチャンスがあるなら、
当然天上界の生を終えても
そのチャンスがあるはずだと
思います。
もちろん天上界で、新たな
カルマを加えたら、六道の
コースへいく可能性も高まる
とは思いますが、少し矛盾点を
感じるところではありますね。

とにかくカルマを生前に
少なくとも軽減させていないと
その六道への転生のコースに
いきがちになるという事です。

このカルマというのも、
ボディマインド(習癖を作る力)の
一種で前世や過去生が関わっている
ものですが、当然解消可能な
わけです。
良い行いで報いるというよりは
ワンネスの真実に気付いたり、
真実について悟る方が、
そのカルマを解消しやすい
という事ですね。
というのも解脱を妨げるここでの
マインド(習癖を作る力)は
「無知」という事だからです。
知とは、学校で習うような
支配層に都合の良い歪んだ
知識ではなく、本物の知識、
真理や真実についての智の事を
いいます。
なので本来の意味での知識や
知恵というものは、カルマを
解消するのに、非常に有効
だという事です。

カルマを変えられないもの
などという、占術に誘導されると
余計に悟りの解脱から遠ざかる
だけなので注意が必要です。)

二日目の根底から清浄な、直視
できないほどの白色の光に
対しては、「怒り」のために
恐れを抱き逃げだし、
地獄の怖じ気づかせないほどの
微弱な薄明かりの方に近づく
だろうが、執着して地獄界に
転生してはならないという。

(当然地獄界なので、微弱
な薄明かりに執着したくは
ないですよね。でも
怒りのマインドつまり
習癖を作る力を捨て去ら
なければ、執着してしまいがち
になるという事です。

仏教の怒りについての説明👇


イライラしたり、カッとなったり、
むかついたりする怒りの心を、
仏教では「瞋恚しんい」と
いわれます。
全部で108ある煩悩の中でも
最も恐ろしい、欲、怒り、愚痴の
三毒の一つです。

これは、怒りの罪は最も深く、
三毒の中で、怒り以上に
重いものはない、ということです。
三毒の中でも最も恐ろしいという
ことは、煩悩で一番恐ろしいとまで
いわれているのです。』
“出典:日本仏教学院

怒りというマインドは、
私も自覚が、ありすぎる
くらいなので、
つらいところです。
ただ怒りの種類においては、
当然罪深さも変わるし、相手の
事を思ってとかだと、罪も
軽減されるでしょうね。
こういう時怒りは怒りという
言い方で、なんでも一緒と
言う人もいますが、それは全然
違います。
プライドを傷つけられた怒り、
自分の行動を邪魔されたときの
怒り、思い通りにいかない時の
怒り、理不尽だと思うものに
対する怒り、また持続的な怒りや
一時的な怒り、憎しみに変わる
ような怒りや、怒りが変じて
愛しさや情に変わる場合など、
まさに感情も千差万別です。
そうそう怒りという感情は
変化するものという理解も
悟りの一つだと思います。
要するに肉体のあるうちは、完全
に消し去るのは、困難でも
悟っていれば、ふだんから
気をつけるようになるし、死後
解脱するチャンスにも恵まれる
という事です。

ただまあ最も罪深いというなら、
できるだけ怒りのエネルギーを
出さないようにしていきたいもの
ですね。)

三日目の根底から清浄な黄色の
光に対しては、おごり(慢心)
のために怖じ気づき逃げだし、
人間界の怖じ気づかせないほどの
青色の微弱な光に執着しがちだが、
近づいてはならないという。

(おごり・慢心というのも
自覚しにくいものですが、
仏教の三毒に入ってなくても、
死者の書では、解脱を妨げて
しまう大きな要素の一つだと
いう事です。
おごり・慢心もつまりボディ
マインドの一種で、習癖を作る
力だという事です。

感謝を忘れて、謙虚な気持ちも
忘れていると、確かに慢心という
毒マインドを蓄積してしまうので
感謝と謙虚というのは、そういう
マインドを解消するのに役立つと
思います。)

四日目の根底から清浄な赤色の
光に対しては、激しい貪欲
(むさぼり)のために恐れ
逃げ出し、餓鬼界の怖じ
気づかせないほどの
微弱な黄色の光に執着しがちだが
近づいてはならないという。

(貪欲は三毒と呼ばれる煩悩
の一つなので罪は非常に大きい
という事です。

欲なんてものは、対象が広すぎて
さほど罪とも思えないような欲
から、罪深い欲までこれこそ
千差万別で、まさに人間そのもの
といって良い煩悩なので、
消し去るのは容易ではない
ですが、絶対意識で解脱できた
アニータさんなどは、生きている
間の欲は、むしろ称賛されるべき
もので、抑えるべきものでは
ないと言ってます。
もちろんその欲のために他人
から奪ったり、まわりに
迷惑をかけないというのは
大前提なのは間違いないですし、
コントロールできる事を前提と
しています。

またこの貪欲のマインド
(習癖をつくる力)が強ければ、
この餓鬼界の微弱な黄色の光は、
その貪欲でできているらしく、
引き寄せられるのだという。
なるほど、それなら確かに
引き寄せられる人は多くなる
でしょうね。

という事は、これまでの
微弱な光は、みんなマインドの
毒でできているという事
でしょう。

無知・怒り・慢心・貪欲
そしてこの後出てくる嫉妬
(ねたみ)などは、生きている
間にコントロールできるように
しておいた方が良いもののよう
です。)

五日目の根底から清浄な緑色
の光に対しては、激しい嫉妬
(そねみ)のために怖じ気づき
逃げだし、阿修羅界の
怖じ気づかせないほどの微弱な
赤色の方に執着しがちだが、
近づいてはならない。

(三毒のうちの一つ愚痴が
出てこずに、
嫉妬が出てくるわけですが、
むしろ愚痴より嫉妬の方が罪
深い気がします。

嫉妬も千差万別ですが、特に
恋愛・愛憎関係の嫉妬心は、
強烈なレベルに育つ場合が
あるので、この煩悩はなんとか
コントロールできるように
ならないと、解脱は相当困難
だと思います。)

これまで観てきたように、解脱
のために一体化するべき直視
できないほどの強烈な光の数々
に対して、マインド(習癖を作る
力)が強すぎると逃げ出して
しまい、そのマインドでできた
薄明かりの方に引き寄せられて
六道の輪廻に陥ってしまい、
解脱する事ができなくなる
という事です。

ただ解脱のためのチャンスは
まだまだ与えられていて、
とうとう寂静尊出現の六日目
には、寂静尊の中心の五仏が
それぞれの女尊や従属する神々
と強烈な光を伴って、一斉に
現れるというのです。
しかしまた地獄・餓鬼・畜生
阿修羅・人・天の六道の
薄明かりも同時に出現します。
これまでの五日間では
畜生界の光はまだ出て来ません
でしたが、この六日目には
これまでの五つの薄明かりの光と
ともに出現するようです。
ただしややこしい事に畜生界の
薄明かりの光は、この後
の七日目に再登場するよう
です。

さて六日目は解脱のための詳しい
導きもなされるのでそれを
抜粋しながら引用してみます。
五日目までの導きを受けてからの
言葉として始まります。


六日目

このように多数の段階において
導きを受けると、生前の善い行い
の報い(果報)がいかに弱く
少ないものであっても、たとえ
一つのお導きによって解脱に到達
できなくても、また次のお導きを
受けることができる。
そこで最後に到達できないことは
ないのである。
(とはいっても、人の数だけ
輪廻の罠にはまっているという
事なら、解脱できない人は、
とてつもない割合になるはず
ですよね。まあラマ僧の
お導きを受けられなかった人が
世界中に無数にいるからという
事もあるでしょうが。たぶん
世界中の人々の中には、ラマ僧
の導きがなくても解脱できた
人も、これまた無数にいると
思います。)

しかしこのように何回もお導きを
受けても、非常にたくさんの
習癖を作る力(習気・じっけ
ヴァーサナー)に長年の間
結びついていたために純粋な五つ
の知恵(五智)に慣れ親しむ
ことができなかった結果、
悪い習癖を作る力によって
逆戻りさせられてしまう者がいる。

(ここで注目していただきたいのは
習癖を作る力(ボディマインド)
に長年結びついていても、囚われて
いたとしても、五智に慣れ親しんで
おけば、解脱のコースへ行ける
という意味にも取れますね。
五智とは、本来の意味での真理
に対する知恵で、当ブログで
扱っているものです。)

お導きを受けても慈悲の光明の
鉤針にかからずに、光明を
恐れておびえの気持ちを
起こしてさらに下方へと輪廻を
続ける者がいる。

そして六日目には、五仏がそれぞれ
女尊や従属する神々(眷属)を
伴って一斉に現れでてくる。
この時に地獄・餓鬼・畜生・阿修羅
・人・天の六道の六つの薄明かりも
同時に現れるであろう。
 
この時のお導きは、死者の名を呼んだ
あとで以下のように告げる

ああ、善い人よ心を惑わされること
なく聴くが良い。汝には昨日までに
五仏のそれぞれの現出があって、
お導きがなされた。しかし汝は
悪い習癖を作る力のために、
これに対して恐れとおぴえの気持ち
を起こして、今日にいたるまで解脱
できずに残っているのである。

 汝がこれらの五仏の叡知自体の現れを
自分の姿にほかならないと覚った
(さとった)のであるならば、五仏は
それぞれの時に汝の身体に虹の光と
なって溶け入り、汝はサムボーガ・
カーヤ(報身・ほうじん)を得て
仏となったであろう。
しかし汝はそのように覚ることが
なかったので、今日にいたるまで
ここに彷徨を続けているのである。

(さてここに全ての答えがあります、
五仏の強烈な光の叡知の現れを
自分の姿に他ならないと悟るならば
解脱できるし、その悟りがないならば
たとえその後祈りを捧げても彷徨
を続ける事になると言っているのに
等しいのです。
答えがそうならば、なぜ、悟れない者
のために、五仏などに祈願するように
伝えるのでしようか。
一つには、どうしても転生してしまう
のなら、この死者の書の導きを
魂に刷り込んで生まれ来る事が
できて、信仰心の篤い信者になる事が
可能になるからではないかと
思うのです。つまり信者が増える事で
人々が悟りやすい社会を形成する
事ができるという事につながる
というわけです。
どうしてそのように思うかというと
悟りを得るには、ワンネスとしての
自覚が何より大事であると今回も
含めて再三説いておきながら、
他者それも自分よりも絶対的に
優れた仏という絶対的他者に対する
意識を持って祈る事は、むしろ
自分自身から仏が投影されるという
ワンネスの悟りから
意識を遠ざけるだけだから
なのです。
つまりこの事が今回のテーマなので
しっかりと留意していただきたいと
思うわけです。)

今こそ、心を惑わされることなく
見るべきである。
今こそ、五仏すべてが一斉に完成
された姿をとって現れるであろう。
四つの知恵(四智・しち)全てが
一緒になった姿をとって現れる
であろう。
これらすべてが同時に汝に会いに
やってくるであろう。
その事を覚る(さとる)べきである。

(ここで中央・東方・南方・西方
・北方の五方向の仏国土から、五仏
と彼らを取り囲む神々とともに
現れ、また六道のそれぞれの仏尊体
も現れるのですが、その描写は
省略させていただきます。
そもそもこのチベットの死者の書
の世界観そのものは、仏教系の
古派密教のものなので、信者や
その信仰されている土地以外の
人々にとって、絶対的に必要な
ものではないと思われるから
です。
何しろ全て自分自身からの投影
なのだから、解脱するために一体
となるべき存在は、単なる光
でも、仏尊体でも、神でも叡知
そのものであってもかまわない
わけです。
ただし、死者の書には真理を
読み解くヒントが、あらゆる
箇所に見受けられるので、それを
取り上げていってるという
わけです。)

ああ善い人よ、これらの仏の
世界(仏国土)は何か特別のもの
として別に存在しているのでは
ない。
これらの仏の世界は、汝自身の
心臓の四方と中央との合わせて
五方向に存在しているものなの
である。

(当ブログでも、心臓こそが、
高次元のゲートの中心であり
生命エネルギーのセンター
である事。
そしてまたハートチャクラが、全ての
チャクラの中心であるという事を
再三に渡って説明してきましたが、
この死者の書によってもそれが
真実であると裏付けられています。

生命エネルギーのセンター心臓は、
次元間のゲートのハートチャクラだった!

また五方向や五仏や五元素、
五毒など五という数字で
完全な世界観を説明する
死者の書は、次元間のゲート
の役割を持つ五芒星形と
それに内蔵される黄金比の
真理に通じているものだとも
思われます。

宇宙と自然の神秘を解く秘密は
黄金比にあった!支配からの解放へ!

汝の心臓の中からいま、外に
出てきて汝の目の前に現れて
いるものなのである。
またこれらの仏の身体も何か
特別のものから現れたものでは
ない。
汝自身の意識の自然で自由な
働きによって作り上げられた
ものである。
そのようなものであると覚る
べきである。

(ここでもワンネスの世界観
を解脱へのヒントとして説明
しています。
またこの後、五仏の心臓から
四智の合わさった、清く
澄みきった光が、死者の心臓
めがけて差し込んでくる描写
がありますが、それも省略
します。)

ああ、善い人よ、これらもまた
汝自身の意識の自然で自由な
働きから現れたものなので
ある。
何か別の特別なものから生じた
のではない。これらに執着しては
ならない。また、恐れては
ならない。
区別をしない無分別の状態に
放置すべきである。
その状態において、すべての
仏の身体と光明が汝自身に
溶け入り汝は仏となるであろう。

(これもまた、ワンネスの境地
つまり全てのもの・世界とその
全ての構成物は自分自身の投影
であるという事を悟らせる説明
で、これを理解する事によって
悟りを得て解脱できるという
わけです。

ここでやめておけば良いのに
と思うのですが、
このあと、人を欺く六道の
薄明かりの現出の描写を
説明して、それに執着すると
六道の境遇に身体を得て
再生してしまうと脅かす
わけです。

そうならないために、つまり
不純な輪廻の薄明かりに執着
しないために、五仏の叡知の
光に祈願するように、説くの
です。

私からすると絶対的な他者に
祈るという行為自体が、悟り
から遠ざかる要因なのに
どうしても、最後は祈願する
ように導くのです。)

《尊い御方である五如来(五仏)の
慈悲の叡知の光が、私を慈悲で
包み込むためにお越しになった
のである。帰依申し上げます》
という敬慕の気持ちを寄せる
べきである。

(このように自分より絶対的に
上の存在であるように五仏を意識
させる事自体が、ワンネスの認識
から遠ざかる原因になっていると
思うわけです。)

人をたぶらかす六道の薄明かりに
執着したり、貪り求めたりしては
ならない。
五仏それぞれの男女両尊(ヤブユム)
に心を集中して、以下のように
祈願の言葉を唱えるべきである。

《ああ、激しい五つの悪徳(五毒)
のために私が輪廻し彷徨っている
時に、〈四つの知恵が合わさった
明るい光の満ち〉へと、勝れた
御方であり、尊い御方である五仏
がお導きくださいますように。
最高の女尊であるダーキニー
(明妃・みょうひ)が背後から
支えてくださり、不純な六道の
薄明かりの道を脱することが
できますようにお祈りします。
恐ろしいバルドゥの難関を
越えさせてくださり、五仏の
最高で純粋な仏の世界にお連れ
くださいますようにお願い
申し上げます》
とこの祈願の言葉を唱えることに
よって、能力の優れた人は、
これらの幻影が自分自身の現れに
ほかならないと覚り、これらと
不二一体に溶け入って、仏と
なることができるのである。

(たぶん悟れる人は、祈願の
言葉を唱える前に、解脱して
いると思いますし、他者を
意識させるような祈願をしようと
しないと捉える方が自然だと
思います。)

普通の能力の人たちは、ひたすら
一心不乱に祈ることによって、
自分自身の本体を覚って解脱を
達成することができる。
能力の劣った人でも浄化の祈願
にすがることによって六道に
生まれる門を塞ぐことができる。
そして〈四つの知恵の合わさった
光の道〉の内容をよく理解し
〈ヴァジュラサットヴァ
(金剛薩埵・こんごうさった)の
秘密の道〉を通って仏となることが
できる。

(最後の祈願によっても解脱
できない人についても説いて
ます。)

能力の劣悪な人の中でも特に
とりわけて劣った人や、人の世に
生まれたのに仏教の教えの影響力
が及ぶ事がなかった罪人および
誓いを守る意志の弱い人などは、
カルマン(業)によって惑乱
されてしまって、お導きを
受けてもそれで覚ることが
できずにさらに下方へと
彷徨い続けるであろう。』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

さて結局このあともずっと何日も
何日も似たパターンでお導きが
されるのですが、なぜ何度も
続くのかというのが大きな疑問
です。

それは最後に絶対的な他者である
仏尊体に祈るなどのパターンが
同じだから、悟れないで解脱
できずに終わるからだと思うの
です。

最初の方で次のように
解脱のヒントがあったのです。
「汝がこれらの五仏の叡知自体の現れを
自分の姿にほかならないと覚った
(さとった)のであるならば、
報身を得て仏となる事ができる
であろうが、そのように悟る事が
できないと解脱できない」
とはっきり言ってますよね。
なのに最後に自分とは別の者に
対するように仏尊体に祈願する
というのでは、ワンネスの悟り
から自分を遠ざけるだけだと思う
わけです。

そのように絶対的他者として
強烈な光を認識したために、
その光と一体化できなかった
好例がありました。

それはエベンさんの詳細で長い
臨死体験にありましたので
再掲します。

エベンさんの臨死体験には
仏の代わりに天使が出て
きますが、やはり光に遭遇
します。
そしてやはりその光を自分の
投影とは感じられなかったので
悟りを得る事はできなかった
わけです。
ところが、臨死体験中に悟れて
解脱できて、絶対意識状態に
なれたアニータさんは、そういう
絶対的な存在を他者とは思わず、
自分自身なんだと理解できている
という解説もしています。
では以下です。


前回エベンさんが天使のような女性に
導かれて、天界を体験した様子を紹介
させていただきました。
そこでは、五感の感覚は分離したもの
ではなく、一体のものとして感じ
られたという事です。
分離されたものを、対象としてみる
という感覚ではなく、それと一体に
なることで、捉えるという感覚だった
ようです。
またこの天界においても音楽が重要な役割
を担っているという事がよくわかりました。
そして今回は、エベンさんがさらに高い
意識領域に移行する様子をご紹介していこう
と思います。

「」内が引用で、~は、中略です。

「さらに先へ進んでいくと、広大な虚空の
中へ入っていった。果てしない広がりが
続く全くの闇だったが、そこは限りない
安らぎも感じられた。漆黒の闇であるにも
かかわらず、光も満ち溢れていた。すぐ近く
にいる気配のする光の球体、オーブ(たま
ゆらとも言う)の一つが放射している光らし
かった。オーブはあの輝く存在の天使たちが
奏でていた調べと同じように、ほとんど
固形のようで生きていた。~
~私の場合は胎児の「母親」に相当する
ものが、宇宙とそこにあるもの全体の母体、
言い換えれば、神や創造主、根源などと
呼ばれる存在だった。
神の存在はきわめて間近に感じられ、自分
との間にまったく距離がないように思えた。
しかしそれと同時に神が無限に広大である
ことがわかり、それに対して自分がいかに
比べ物にならないほどちっぽけであるかを
思い知らされた。」
“出典:「プルーフオブヘヴン」
   エベン・アレグザンダー著
          白川貴子訳
          早川書房刊”

この部分が特に重要で、エベンさんの
臨死体験を紹介しようとした理由につながる
ものなのです。
今ここが、エベンさんの到達した意識レベル
の限界を示しているところだからなのです。
彼はこの高次元の意識領域で神のような存在
に会ったという事ですが、それは絶対的な
存在と自分が分離したままの感覚だという事
を示しているのです。
せっかく「神の存在はきわめて間近に感じ
られ、自分との間にまったく距離がないよう
に感じられた。」という意識まで到達して
いるのにあと一歩、そのような絶対的な
意識と一体になるところまでいかなかった
という事なのです。
それまで拡大し続けていた彼の意識が、
ここでストップしてしまう事になる
のです。
ここで絶対意識になれなかったエベンさん
と比較して、それを自分のものとした
アニータさんの意識をもう一度引用
させていただきます。

“「どうして突然、すべて理解できたんだ
ろうか?」私はそれが知りたいと思いま
した。
「誰がこの情報を与えてくれたんだろう?
神様かしら?それともクリシュナだろうか?
それともブッダ?キリスト?」
その時、「神は存在ではなく、存在のあり方
なのだ。そして、私は今、そのような存在の
あり方をしている」という悟りが得られ、
その感覚に圧倒されたのです。」”
“出典:「DYING TO BE ME」
アニータ・ムーアジャニ著 
           hay house 刊
邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

つまり彼女の謙虚な言い回しに惑わされず
に、彼女の説明をそのまま受け取れば、
アニータさんは、自分自身が絶対的な
存在そのものとなったといっていると
いう事なのです。
「えーそんな偉そうなー!」
普通そう思いますよね、その普通の感覚
こそ長年の間人類全体を苦しめてきた
「分離」の感覚なのです。
ここで絶対意識のからくりを説明します
と、アニータさんだけが、本来絶対的
存在だったという事ではなく、我々の
一人一人全員がそのような存在で
あるという事なのです。
つまり「みんな偉い!」のですが、
わかりにくいと思いますので、この宇宙に
おける全てのものは、全体とつながって
いて、またその全体そのものでもある
という事なのです。

実は宇宙の物理的モデルもそういう事に
なるのですが、それについてはまた別の
記事に書かせていただきます。
とにかく残念ながら、絶対的な存在と一体
になれなかったエベンさんは、
「自分がいかに比べ物にならないほど
ちっぽけな存在であるかを思い知らされた」
とあるように分離された小さな存在として
自分を意識することで、その絶対的存在
から離れてしまう事になるのです。
(これに対して、絶対意識に到達した
アニータさんは、肉体に自分を自身の選択
により戻すまで、その領域に留まっていま
した。)
そしてちっぽけな自分という感覚を持って
しまったエベンさんは、絶対意識領域に
留まる事ができず、この後、低次の領域に
下降してしまう事になります。』

究極の意識と一体化できるかどうかの境界
とは? エベンさんの証言その5

という事で、わかっていただけました
でしょうか。
つまり光に出会って、それに比べて
自分がなんとちっぽけな存在で
あるかを思い知らされているよう
では、悟りは得られないというわけ
です。
死者の書にあったように、
遭遇した、直視できないほどの
光を自分自身の投影だと悟れ
なければ、解脱できないのですが、
まさにエベンさんは、その闇に
満ち溢れているような生きている
光が自分の投影だと感じる事は
できずに、絶対的な存在の他者
として、感じてしまい。その上
自分自身がちっぽけな存在と自覚
してしまうのです。

当然二元論的な感覚では、ワンネスの
悟りは得られないので、あとは
悟れないまま次元を下降する事しか
できなかったのです。

これで私が、死者の書で、出会う事に
なる叡知の光に対して、絶対的な他者
のように祈願をするというのは、
それに対してちっぽけな存在である
自分という二元論的な意識を持ち続ける
事につながり、ワンネスの悟りの
邪魔になるだけだという事が
わかっていただけたでしょうか。

次回は、エベンさんとアニータさんが
肉体に戻るまでの詳細な描写を
もとに、悟りを得られた場合と、
悟りを得られなかった場合の認識の
違いを説明していこうと思います。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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