チベット死者の書から読み取れる真理の共通点その2「解脱とは輪廻転生のマトリックスからの解放そしてその鍵とは?」


この記事は
チベット死者の書から読み取れる真理の
共通点その1
「五感の中で聴覚が最もレベルが高い」

の続編です。

前回チベットの死者の書に、死後
も死者の聴覚が生き続けると
あった事から、五感の中で最も
聴覚がレベルが高いという
これまでの研究成果が、正しかった
という事を確認しました。

今回は、死者の書の最大のテーマ
である解脱と輪廻転生について
再認識できた真理について
解説していこうと思います。

チベット死者の書についての解説の
サイトの続きから


チベット死者の書について
私達が生きているのは「生命の風」(ルン)
と呼ばれる「意識」が体の中にあるか、
外にあるかで決まり、私達の意識が
体の中にあって生きている時を「生」、
意識が外に出てしまった肉体を「死」、
死んで次の生を受けるまでの間の
意識の状態を「中有」(バルド)とし、
「意識」は不滅であることを説きます。

(引用注:そもそも有限である
肉体という感覚こそ、マトリックス
の仕掛けた偽の現実感覚でしか
ないので、意識は、もちろん
真の実体として、不滅で永遠のもの
です。)

解脱とは
解脱とは欲望の源である全ての煩悩から
離脱して、輪廻転生の無い絶対的な
安楽の世界で仏になることです。

(引用注:絶対的な安楽の世界とは
絶対的な至福の状態で、ワンネス
そのものになる事で、これを
仏教では仏になると言うようです。
仏になると言われても、ピンと
来ない人には、全知万能のワンネスの
絶対意識
になるという方が
わかりやすいと思います。
そして多くの人がイメージする
ように仏とは、微笑みながらじっと
してなければいけない存在では
なく、自由自在になんにでも
なれて、どんな事も経験できる
存在になれるという事です。)

釈迦は現世で修行の結果として
解脱して仏になりましたが、
仏教の最終的な目標は仏になる
ことであり、解脱することです。

しかしながら解脱するには
過去世での功徳の積み重ねと
現世での高度な修行が必要なので、
誰もが簡単に出来るようなこと
ではありません。

しかしチベット死者の書では
死者に対してまず最初に解脱する
ように説いています。

輪廻転生とは
輪廻転生とは地獄餓鬼畜生
阿修羅人間の六つの世界
である六道を生まれ変わり死に
変わりを繰り返すことで、
過去世での行いと現世を
生きている時の行いの善悪の
結果によって次の生まれ先が
決まります。

(引用注:仏教では、解脱できなくて
輪廻転生となる場合でも天界に
生まれ変わって、至福の世界に
いけるコースがあるようです。
ただし解脱すると永遠の極楽浄土
にいけるのに対して、天界は
寿命があるという違いがある
という事です。
まあややこしいですが、たぶん
神を崇める他の宗教より、仏教の
方が格上だと印象付けたいからの
コンセプトだと思います。)

チベット死者の書では仏教の
目標としての解脱が
叶わなかった場合に、
次なる手段として輪廻転生での
良い生まれ変わりが実現するよう
説いています。

三つのバルド
チベット死者の書では死者が
経験する三つのバルド(中有)を
説き、次の順で現れます。

☆チカエ・バルド
(死の瞬間のバルド)…
生命の本性であるまばゆい光が
現れる。

☆チョエニ・バルド
(心の本体のバルド)…
最初の七日に寂静尊が四十八体、
次の七日に憤怒尊が五十二体現れる。

☆シパ・バルド(再生のバルド)…
六道の薄明かりが現れ、
良い世界への輪廻転生を目指す。

“出典:
チベット死者の書-死後の
世界の詳細と解脱、転生法
」”

死者が、いずれかのバルドゥにあるのは
最大49日間なので、その間で解脱が
果たされるか、または良い再生が
叶うまで、ラマが死者の書を経として
読み上げ続けるという事です。

原典訳を読んでいくと
どの段階でも再生よりは解脱できる
チャンスがあるのです。

今回は、そのチャンスをものできる鍵
が、原典訳から、明らかに読み取れた
ので、それを解説していきたいと
思います。

まず死者の書では、輪廻転生の
サイクルは、罠であるように
説いています。

私も、ブログで肉体に囚われる
という事は、マトリックス
プログラムに取り込まれる
という事で、罠と同じ意味で
捉えて解説してきました。

しかもそのマトリックスプログラム
は太古にDNAに書き込まれた改竄
プログラムで、支配に都合の良い
ものでした。

その具体的な仕組みについては
こちらの記事が参考になると
思います。
細胞膜は液晶の半導体で、身体は精緻な
バイオコンピューターだった!

そしてそのマトリックスプログラム
の具体的な仕組みは理解されて
いなくとも、死者の書でも、その
理解につながる表現がありました。

それが
習癖をつくる力」(ヴァーサナー)
というものです。

つまりこれが、マトリックス
プログラムを別の表現で示したもの
にあたるわけです。

この習癖とは、繰り返し実行される
マインドの事で、我々が五感で感知
する物質世界こそを現実と思い込み
肉体に閉じこめられたと思い込む
自己の意識だという事です。
この習癖(マインドの習性)こそが
ボディマインドの事なのです。

これを捨てない限り解脱できない
という事は、死者の書では何度も
繰り返されます。

なぜなら死者の書を読み上げる事で
死者を輪廻転生の罠に陥らずに解脱する
ように仕向けるのが目的だからです。

意識が囚われるとはどういう事か
というのを説明しておきますね。

本来我々は、全ての一つ、全知・万能
のワンネスの意識だと再三説明して
きました。

ところがワンネスが、自分の分身を
いくつか創り出し、独立した個の
意識を経験させてみたいという
ところから、意識の世界が広がり
独立した個の意識は、またさらに
自分の分身を創り出して、どんどん
子意識、孫意識、そしてそのさらに先
まで、複雑な意識の世界が生み出されて
いったという事です。

ただ最初の子意識は、もともと
全てとしての一つであった事を
意識できているので、至福の安心感
と無限の愛が中心にある恵まれた
意識なのです。

しかしその意識の分身である孫意識、
さらにその分身の意識となってくると
もはや、ワンネスがもともとの自分
とは、感じられなくなるので、
ワンネスに回帰できるという安心感を
失っています。
そうなると自分という存在が、
消えないかどうかという不安感が、
恐怖心に変わるわけです。

そこで、意識は循環する波動を生み出し
自分が永続的に存続できる安心感を
得ようとするわけです。

循環する波動とは、我々の物理的
理解でいえば二重螺旋を
中心とするトーラスの事です。

しかし安心感を得られたら、それが
結局ワンネスの至福の状態に近づく
事になり、やがて元あった孫意識・
子意識と順に、または一気にワンネス
へと回帰していくのです。

つまりこのワンネスへの回帰こそが
解脱という事なのです。

そして永続的に思える、継続的な
意識どうしが創り上げた世界を
仮想現実と定義できますが、
最終的にワンネスに回帰できる
意識同士の創り上げた世界なので
いわば、望み通りの現実を、
創造できたわけです。

これが太古の地球にも存在した
黄金時代というものになります。

さてしかし、最終的ワンネスに回帰
できる存在で満足できるような
意識であれば問題なかったのですが
結局それでは、本当に個として永続
的に存在する事にならないと理解した
意識が、どうしても個としての
自分を永続的に存続させたいと
願うようになる事で、どうしたら
良いかと智恵を働かせたのです。

実は、恐怖心や悲しみ、怒り、憎しみ
などのネガティブエネルギーは
究極の至福と愛のワンネスから
対極にあるため、回帰を阻む
エネルギーとなるのです。

つまりそれが、個として存続
し続けるための、大事な
エネルギーという事になるので、
それをずっと生み出し続ける
仕組みをつくり上げれば良い
という智恵から、
そのネガティブなエネルギーを
生み出し続ける肉体を持つ
という仮想現実を創り上げた
というわけです。

これが我々が生きている間に
経験する仮想現実つまり
マトリックスの世界なのです。

ただその智恵を創り上げた
当の意識は、仕組みを理解して
いるので、最終的にワンネスに
回帰できてしまう事になります。
ネガティブエネルギーは、究極の
永遠の存在であるワンネスの対極
なので、当然消え去る運命に
あります。
なので、自分の孫意識に
その肉体の仮想現実を経験させて
いき、その孫意識からのネガティブ
エネルギーを糧とする事で、
自らを永続的に存続させよう
としたという事なのです。

このネガティブエネルギーを
永続的に糧として、吸収しよう
という存在こそが「悪魔」と
呼ばれるものの正体という
わけです。

この悪魔の孫意識が我々という
わけではない事に注意してください。

いわば悪魔の孫意識というのは、
悪魔が憑依した智恵を持つ
存在で、それが古代からの
人類の支配的存在なのです。

そしてそれらネガティブな
エネルギーを生み出し続ける
肉体を持った孫意識も、やはり
限界があるので、自分たちの
ようなネガティブエネルギーの
プログラムをもっと安定した
存在にインプットしようと
試みたわけです。

つまり地球上の黄金時代を営んで
いた人類に対して、そのプログラム
を施し、「人類の堕落」へと
つながったというわけです。

要するに、もとの黄金時代の
愛や思いやり・幸福感などの
ポジティブなエネルギーを
生み出す存在でありながら、
同時に苦痛や悲しみ、恐怖心
憎しみなどのネガティブエネルギー
を生み出すプログラムを施されて
しまったのが現在の我々の肉体という
わけです。

このマトリックスプログラムは
強力で、肉体が死んだ後も
習癖をつくる力として働き、
輪廻転生の永続的な罠に
囚われるように仕組まれている
というわけです。

つまり輪廻転生で、ネガティブな
エネルギーを人類に永続的に
生み出させる事で、支配層も
永続的に存在する事ができる
という事になります。

なので、解脱とはワンネスに回帰
するだけでなく、少なくとも
このネガティブなプログラムを
施された肉体に再び宿らないように
する事という定義でも良い事
になります。

このような意識の仕組みについては
こちらの記事でも解説しています。

ほぼ全ての人がマトリックスに囚われる原因
とは、分離意識から生まれる
恐怖だった!

さて意識と輪廻転生そして解脱の
仕組みについての説明は以上
ですが、チベット死者の書に
繰り返される解脱の鍵について
観てみる事にしましょう。

ただ長いので

死者の書によると、死者は死後
最長三つのバルドゥ(中有界)
を経験する事になります。

最初の死の瞬間のチカエ・バルド
(死の瞬間のバルド)では
生命の本性であるまばゆい光が
現れる。
全訳によるとチカエバルドゥも
二段階あるとの事。

この時に、一気に解脱できる人も
いて、それは生前に解脱方法を
実践していた人や、悟りを得た人
自覚はなくとも、解脱できる
意識レベルを獲得していた人
などです。

たとえば、一気に絶対意識に
到達した体験は、アニータ
・ムーアジャニさんや
デービッドアイクさんが
していました。

通常の人は、その時に解脱
できずに、この後三日半ほど
失神状態になりのち
チョエニ・バルド
(心の本体のバルド)…
に赴くとの事。
最初の七日に寂静尊が四十八体、
次の七日に憤(忿)怒尊が
五十二体
現れますが、どの段階でも
解脱をできるチャンスが
与えられて、解脱をした時点で
バルドの経験は終わります。

死者の書では、寂静尊48体と
忿怒尊52体が現れる全ての
時について、詳細に記されて
いますが、解脱の方法はいつも
共通している鍵があるので、
失神の三日半を経ての三日目
だけを一例として抜粋しながら
取り上げます。

2日目で解脱できなかった死者に
対しての言葉として始まります。
死者に向かってラマは善い人よ
と言って語りかけます。


またこのようにお導きを受けても
慢心(おごり)と罪垢(けがれ)
の大きい人の場合には、慈悲の光明
の鉤針(かぎばりと読む・ひっかける
針の事)を恐れて逃げ出すので、
さらに三日目に尊い御方である
ラトナサムバヴァ(宝生)如来の
神群と人間界の光の道の二つが
会いに現れるであろう。
この場合もお導きは、死者の名を
読んだあとで、以下のように
告げる。

「ああ、善い人よ、心を惑わされる
ことなく聴くがよい。三日目には、
地の元素(地大)からできている
浄化の働きをする黄色の光明が現れる
であろう。その時に南方の黄色の
シュリーマットという仏国土
(極妙世界)から尊い御方である
ラトナサムバヴァ如来が黄色の身体
をして、手には摩尼宝珠
(まにほうじゅ)を持って最高の
馬の座に坐し、女尊マーマキー
(我母・自分の母という意味では
なく女尊の名前)と接吻した
姿で現れてくるであろう。~
(中有界で次々に現れる仏尊体
の中で中心的な尊体は、このように
女尊を懐に抱き接吻した形で二体
で現れます。そしてこの三日目では
二人の尊体のまわりを、また四人
の尊体が囲んで現れて、合わせて
6体出現します。)
~虹と明りと光線の奥から全部で
合わせて六体の御仏の姿が
現れるであろう。
感受作用の集まり(受蘊じゅうん・
人間を構成するといわれる五蘊
の一つ)からできている、
根底から清浄な黄色の光-すべての
ものの平等なことを理解する知恵
(平等性智)-は黄色に輝き、
いろとりどりの宝飾によって飾られ
明るく清澄であって、目を開いて
直視することができないほどの
眩しさで汝の面前に近づいてくる
であろう。この黄色の光は
ラトナサムバヴァ如来男女両尊の
心臓から発して、汝の心臓を
めがけて直視することができない
ほどの眩しさで射してくる
であろう。
(中有界で先に出会う48体の
寂静尊が心臓から発していて
それでも悟れないで次に出会う
恐ろしい形相の忿怒尊58体は
脳から発すると表現されている
事に注目して欲しいのです。
つまり心臓より脳の方が劣位
にある証拠とも言えると
思います。)
その時に汝は慢心(おごり)
のために、この畏怖させ怖気
づかせる黄色の光を恐れ、
おびえる気持ちを起こして
逃げようとするであろう。
そして人間界の青色の怖気
づかせないほどに微弱な薄明り
の方に、汝は喜びの想いを
生じて近づこうとするであろう。

(ここから先の太字の箇所が、
いろんな尊体が出現した
それぞれの時に共通する
表現で、解脱の真髄にあたる
ものです、特に後半の悟りの
方が重要です。)
 しかしその時に汝はこの
恐ろしいばかりに輝く、明るくて
清く澄みきった黄色の光を
恐れてはならない。
《これは叡知である》と覚る
(さとる)べきである。
これの上に汝の動きをなんの動き
もしないようにのんびりとさせて
放置させるべきである。
この黄色の光に対して敬慕と尊崇
の気持ちを寄せるべきである。
 またこれを《汝自身の意識自体の
現れである》と覚る(悟る・さとる)
ならば、特別に敬慕と尊崇の気持ちを
寄せることがなくても、また祈願を
唱えなくても、すべての仏の身体と
光明が汝と一体となって溶け入り、
汝は仏となることができるであろう。

(要するに怖じ気づかせるほどの
眩しさを放つ黄色の光も、尊体たち
も全て自分自身の意識が出現させた
ものであるという悟りを得れば
解脱できるという事です。これが
単に神や仏にすがればなんとかなる
という我々の宗教一般に対する
考え方とは異なるところで、死者の書
が、いかに死者のための解脱の方法を
具体的に示しているかの証拠となる
部分です。) 

もしもこれを《汝自身の意識自体の
現れである》と覚ることができない
場合には、
《これはラトナサムバヴァ如来の慈悲
の光明である。帰依申し上げます》
という敬慕の気持ちを持って祈願
すべきである。
これはラトナサムバヴァ如来の慈悲の
光明の鉤針であるので、敬慕と尊崇の
気持ちを寄せるべきである。
(やはり覚る事ができない通常の人は
よりどころなく不安な中有界の状態で
絶対的な他者の存在を求めてしまう
ものなので、尊体に帰依するという
次善の策を取らせるわけです。
ただこの次善の策の方法は、本当の
悟りを得たわけではないので、
尊体自身に自分がなるという
イメージを持たなければ、また
次の段階でのチャンスに進む
事になります。)

 人間界の青色の怖気づかせない
ほどに微弱な薄明りの方に喜びを
抱いてはならない。
これは汝の激しい慢心(おごり)
によって蓄積された習癖を作る力
(習気・じっけ・つまり
ボディマインドのマトリックス
の事)からできあがっている、
捨てられるべき光の道である。
これに執着するならば、汝は
人間としての境涯に再生して
生・老・病・死の四つの苦悩に
悩まされ、その後も輪廻の境涯
に留まってしまい、解脱する
ことはできないであろう。
これは解脱の道を妨げる邪魔
ものであるので、これに眼を
やらずに慢心(おごり)を
捨て去るべきである。
これに執着してはならない。
求めてはならない。
黄色に輝くかの光に敬慕の
気持ちを寄せるべきである。
ラトナサムバヴァ如来に心を
向けて、以下の祈願の言葉を
唱えるべきである。
《ああ、私が激しい慢心のために
輪廻し彷徨って(さまよって)
いる時に、すべてのものの平等
なことを理解する知恵(平等性智)
の明るい光の道へと、
ラトナサムバヴァ如来がお導き
くださいますように。女尊
マーマキーが背後から支えて
くださり、恐ろしいバルドゥの
難関を越えさせてくださいます
ようにお祈りいたします。
正しくて完全な仏の境地に
お連れ下さいますように》
と強く敬慕の気持ちを寄せて
この祈願の言葉を唱えることに
よって、ラトナサムバヴァ如来の
心臓の中に虹の光となって
溶け入り、南方のシュリーマット
という仏国土(極妙国)において
サムボーガ・カーヤ(報身)を
得て仏となるであろう』
“出典:
「原典訳 チベット死者の書」
      川崎信定 訳
  ちくま学芸文庫”

言うまでも無いでしょう。
中有界で解脱を得るための鍵は
全ての現出された光や尊体が
自分の内なる意識から現れたもの
《汝自身の意識自体の現れである》
と覚る事だったのです。

結局全てとしての全知・万能の
ワンネスを自分自身だと理解
すれば、死後解脱する事で
至福の極楽浄土に行ける
というわけです。

つまりワンネスの状態こそが
極楽浄土で仏になるという事と
同じ意味だという事です。

もちろん全知・万能のワンネス
(仏)になればじっとして
いなければならないのではなく、
望み通りにどんなものにでも
なれて、どんな経験も可能に
なるという事です。

これは肉体にしばられたマインド
であった自己が、死によって解放
されたからこそ可能だという
事です。
もちろん生きている間にも
マインドを解除すれば、解脱も
可能ではありますが、通常の人には
非常に困難な事です。

ただ悟りを得た行者や僧侶、そして
臨死体験やアヤフアスカの服用
体験をした人などは、やはり稀に
この解脱を果たす事ができる
ようです。仏陀もその一人という
事。

さて臨死体験といえば、絶対意識
のワンネスの境地に達した
アニータ・ムーアジャニさんの
実例が、まさに解脱を意味して
いるとわかりますので、再掲
してみましょう。

「拡大した領域での気づきは、どんなに
説明しようとしても、言葉では言い表せ
ません。その明快さは驚くばかりでした。
「宇宙は理にかなっていた!」と、私は
理解しました。
さらに、どうして自分が癌になったのか
とうとうわかったのです。私はその瞬間の
すばらしさにあまりにも夢中になり、
しばらく病気の理由について考えられな
かったのですが、やがて、深く探ってみる
ことにしました。
そして、そもそもどうしてこの世に生まれて
来たのかも理解できるように思えました。
自分の真の目的について悟ったのです。
「どうして突然、すべて理解できたんだ
ろうか?」私はそれが知りたいと思いま
した。
「誰がこの情報を与えてくれたんだろう?
神様かしら?それともクリシュナだろうか?
それともブッダ?キリスト?」
その時、「神は存在ではなく、存在のあり方
なのだ。そして、私は今、そのような存在の
あり方をしている」という悟りが得られ、
その感覚に圧倒されたのです。

“出典:「DYING TO BE ME」
アニータ・ムーアジャニ著 
           hay house 刊
邦訳「喜びから人生を生きる」
    アニータ・ムーア・ジャニ著
       奥野 節子訳
      ナチュラルスピリット刊”

太字で強調したようにアニータさんが、
神様やブッダクリシュナなどが自分自身
そのものであると悟ったわけですが、
これこそが死者の書で繰り返された
全ての現出された光や尊体が
自分の内なる意識から現れたもの
《汝自身の意識自体の現れである》
と覚る事と同一の意味で、解脱を
果たす事につながるわけです。

そして解脱を果たしたアニータさん
だからこそ、全知・万能のワンネス
の意識を獲得したからこそ、末期癌
の致命的な状況の自分の身体に
再び宿り、完治できるという奇跡の
ような事をしてのけたわけです。

死者の書では、この悟りが得られない
場合には、現出した仏尊体にひたすら
祈願するように言いますが、そもそも
他者として絶対的な存在をイメージ
させる事は、むしろ悟りへの道を
遠ざける事になると思います。

次回は、そのあたりについて、
また繰り返される死者の書での
パターンから得られる、さらなる
真理について取り上げようと
思います。

いつもありがとうございます(*^_^*)

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